『天啓予報』第88章 沈悦の三千人分のバフ

 実際のところ、このレベルの浸食体に対応するのは難しい……多分。
 このような、帰浄きじょうたみが農作でもするように広域で量産した怪物を辺境の異種と呼んでいいのどうかは別として、体内の異常な黒い血を除けば、その他はちょっと醜く、ちょっと大きく、ちょっと大食いで、見た目が悪いだけの動物である。
 これといって特殊な能力もなく、火の球を吐くでもなく、戦闘力は数頼みである。
 そして、数が多ければ、一匹や二匹は生まれつき優れた個体がいて、神の寵愛を受け、特別に醜く、特別に大きく、特別に大食いで、見た目が特別に悪いものもいるだろう。
 例えば目の前の一匹。
 頭は一台の車ぐらい大きく、首は太く、槐詩(かいし)が切ろうとしても切れないだろう。
 しかも今、槐詩かいしにはは力が残っていなかった。
 まったく手加減をせずに沢山の化け物を切ってきて、やっとのことで一命をながらえてここまで来たのに、まさかここで大ボスに出会うとは。
終わった。
 槐詩は手に持った刀と斧を一振りしてみたが、横たわっている巨大な狼は悠々と笑い、大きな口を開け、悪臭のする涎を垂らした。
 槐詩はゴクリと唾を呑み込むと、震える声で言った。
しんさん、はやくバフを」
「そんなに無鉄砲なのに、更にバフをかけてどうするんだ?」
 沈悦しんえつは顔面蒼白で、隅に縮こまり、泣きそうになりながら言った。
「無駄だ。俺の能力は普通の人に使うものだ。たいした力の補充にはならない。人が多かったらよかったんだが……」
「それじゃ人が多い時のようにやってくれ!」
 槐詩は血を吐くほど怒った。
「多めにやってくれ」
どんな効果だろうが、バフを多めにしてくれれば、とにかく役に立つだろう。
 沈悦はますます情けない顔をした。
「三千人文のバフに耐えられるか?」
 槐詩はまた血を吐きそうになった。
「もっと少なくできないのか!」
「や、やってみるけど……」
 沈悦は泣きそうになっていた。
 社保局の殆どの仲間が知っている沈悦の欠点――彼のバフは二種類だけ。一種は一人分、もう一種は……三千人分!
 沈悦がずっと社保局の特殊支援部隊で冷や飯を食っていた最大の原因は、自分の『バフの量』をコントロールできないことだった。
 バフの与え過ぎで仲間を簡単に破壊してしまう。
 公平に言って、『残業しない効率的な仕事術』という霊魂能力はかなり質実剛健かつ有用な技能である――常人の数さえ揃えば、沈悦は一個師団を率いて辺境に開拓に行くことができる。
 だが問題は、常人が辺境を開拓する必要はあるかということだ。
 ない……
 沈悦の加護は、知力アップ、攻撃力アップ、防御力アップ、回復力アップ、などなど一式揃ったバフである。
 すべて揃っており、すべて微弱である。
 普通の人間に対しては効果がある筈だが、昇華者しょうかしゃにとっては微弱すぎて、殆どお話にならなかった。
 当時の彼の指導者は提案した。ある方法では足りないなら、何度かやってみたらいいのではないか。そして明らかな事実が発見された――バフを受けた昇華者は死にそうになった。
 レッド・ブルだって人が死ぬ。
 バフを与えると確実に力は増す。だが加護の時間が切れると、爆発する。
二人がICU送りになった後、バフを受ける勇気のある者は誰もいなかった。
 同じ階級で唯一沈悦の三千のバフを受けることができたのは、肉体能力が人ならざるほど強壮な鋼鉄の化身、『悪来(あくらい)』の聖痕(せいこん)を持つ金沐きんもくだった。
 金沐のリミットは五分間。五分以内ならば四階の相手を一撃で倒せた。一撃で足りなければもう一撃。
 彼の出現は、ベンチウォーマーの沈悦にとって救いだった。二人は自然と相棒となり、沈悦は初めて自分の力の重要さに気づいた。
 だから沈悦が最も心を痛めたのは――もし自分が傍にいたら、金沐は死なずに済んだ、ということだった。
 自分がもっと気を付けていれば、金沐を殺したあの化け物も鉄鞭てつべんの一撃で倒せただろうに。
 こうなったすべての原因は、彼を巻き込んでしまったことだ。
 もし当時自分の相棒とならなければ、こんなことにはならなかったのに。
「ボケッとしないでくれ!」
 パシッ、と掌が沈悦の後頭部を叩いた。槐詩が目を大きく見開いて沈悦を見ていた。
「できてもできなくてもいい!沈さん、あんたが頼りだ!俺が怖くないのに、あんたが怖がってどうする!」
 沈悦はぽかんと槐詩を見て、歯を喰いしばると、ぎこちなく手を上げた。
 槐詩は怖がって沈悦に言った。
「できるだけ少なくだ、わかるな?できるだけ……」
 槐詩は心もとなさそうに、祈るように言った。
「絶対に裏切らないでくれよ」
 沈悦の指先が光り出した。最初は目を刺す白色、つづいて急速に光は弱まり、苦労してコントロールする中で、バフの量は悪来に授ける量の半分になった。
 そしてさらに半分……また半分……
 最後に、彼のすべての指が膨れて二倍の太さになった。多すぎる力がその中に閉じ込められており、爆発寸前だった。
 巨狼は脅威を感知したのか、大きな口を開けて獰猛さを露わにし、吠えながら襲い掛かってきた。風が巻き起こり、まるで本当にトラックが突っ込んできたかのようだった。
 その瞬間、彼は手を伸ばして槐詩を指さした。彼の指は張り裂けた。皮膚と血肉だけでなく、指の骨の端の一本まで砕けた。
 沈悦はそれを見るより早く、狼狽して地面を転がった。幸いにも巨狼の突撃を躱したが、片隅にぶつかって体ごと宙に舞い上がった。自分が粉々になったような気がした。
 そしてまだ消散しない霧の中、にわかに青白い炎が燃え上り、霧と狂風を裂くのを見た。
 槐詩は勢いよく跳び上がった。瞬間的に増加した力により、その高さは四メートル以上あった。
 苦痛の叫びの中、彼は刀と斧を抜き、下にいる巨狼に向かって斬り下ろした!
 槐詩は自分が爆発しそうだと思った。
 沈悦が自分を指さした瞬間、巨大な力が体内から沸き起こり、胸の聖痕の真っ暗な空洞の中で、コーラの最後の一瓶が圧し潰されて砕け、穴の中から吹き出した。
 よく知っている膨張感が再び訪れた。
 槐詩は自分が大きすぎる力によって四分五裂したように感じた。沈悦は全力でコントロールし、バフの量を二百人分程度に抑えたが、やはり槐詩が負担できる量ではなかった。
 内臓が悲鳴を上げた。爆発しそうだった。
死にそうだ!
 肺腑が引き裂かれたように感じた瞬間、彼を死ぬほど痛がらせた炎が再び体の中で燃え上がり、千万人の苦痛と千万人の怒りが作り上げた源質の火が、彼を覆った。
 源質げんしつの火は、狂熱を起こし、力を焼き、膨張しすぎた力をすべて抽出し、劫灰こうかいの霧の中に溶け込ませた。
 劫灰の火が盛んに燃焼した。
 石炭をいっぱいにくべた溶鉱炉のように。
 槐詩は崩壊の縁を徘徊していた。
 激痛の咆哮の中、本能の中の狂気に支配されながら、車のように大きな犬の頭に斧を振り下ろした。
 ガン!
 斧の刃は鱗とぶつかり、弾かれた。
 斧から伝わってきた反作用の力で、槐詩の体は空中で回転した。
 狼が頭を上げて大きな口で噛みつこうとした。槐詩は空中で躱すと、よろめいて着地し、肩で息をした。
 地面に深く足跡が刻まれた。
 苦痛は継続し、力も継続している。早くこの戦いを終わらせなければ、もしくは早くこの過大な力を出し尽くさなければ。
この大き過ぎる力に自分が圧し潰されてしまう前に。
 数百回分のバフのせいで、枯渇していた精力が瞬間的にメーターを振り切った。
 槐詩は手で斧を撫でた。雷光が輝いた。
 つづいて、槐詩が引っ張ると、斧の柄が鋼鉄の軋む音を立てて急速に伸びた。槐詩は長くなった斧の柄を両手で持った。
 槐詩の周囲に立ち込める劫灰の霧は急速に集まり、電光で覆われた刃の上に凝結し、蒼白い心毒となった。
「マジか……」
 火の中の悪鬼は溜息をついた。
「思いもよらなかった、小動物を虐殺する日が来るなんて」
 瞬間、巨狼は吠え、槐詩は走った。
 巨狼は怒りに大きく口を開け、槐詩に噛みつこうとした。槐詩は仰向けになり、歯を躱すと四脚の間に滑り込み、無防備で柔らかい腹の下に潜り込んだ。
 憤怒の斧が、首から下へ、奇妙な触手が生えている臍(へそ)まで斬り付けた。滝のように鮮血が吹き出した。
 黒い血は生きているかのように急速に凝固し、凄惨な傷口を縫合した。それはあっという間に乾いて、厚い鎧となった。
「そんなに進んでるのか?」
 槐詩は愕然とし、狼狽して転がり、刀のように鋭い尾を躱すと、よろよろと後退した。
 巨狼の腹の中から騒々しい音が聞こえてきた。
「バカ!頭を咬め……俺がやる……」
「奴は小さくて、動きが早い……」
「痛い、痛い!」
「尾を使え、尾で刺し殺せ!」
「爪を使ったらどうだ?」
「腹が……減った……」
「遊ぶな、全力でやれ!」
 まるで十数人が腹の中に詰まっているかのように、ぺちゃぺちゃと話している。黒い血は怒りに湧き踊り、この体のコントロールを争っている。
 つづいて、黒い血が滑らかな体を突き破って出て来ると、支離滅裂な器官に変化した。
 何本かの手、大きな口、いくつかの赤い目、尾は増えて、何本かの尾は更に鋭くなっていた。
「その改造はやり過ぎじゃないか?」
 槐詩は呆気にとられた。
 完全に畸形に変化した巨狼は槐詩に向かって狂奔し、もともと大きな口を開け、鋭い爪と鋭利な尾が風を切った。
 槐詩は後退し、さらに後退し、自分に向かってくる掌に向かって猛然と斧を振るった。巨狼の太い二本の指は斬り落とされると、あっという間に腐乱した。だが残った指は槐詩の斧を掴み、放さなかった。
「捕まえた!捕まえたぞ!」
 嬉しそうな声が聞こえた。
 槐詩は口をゆがめて溜息をついた。
「バカめ」

訳者コメント:
どうして金沐と沈悦がコンビを組んでいたかが明かされました。
このコンビの活躍がもっと読みたかったです(´;ω;`)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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