映画『プリティ・ウーマン』──これは誰の理想を描いた映画なのか
『プリティ・ウーマン』を改めて観ると、ある疑問が浮かぶ。 この映画は、男性の理想を描いた物語なのか。それとも女性の理想なのか。
物語を素直に分解すると、どちらの願望も、かなり都合よく満たされている。
男性側の視点に立てば、この映画はこう囁いているように見える。
「金を持ち、成功すれば、 本当は賢くて、優しくて、しかも無条件で自分を肯定してくれる女性に、 いつか愛される」
エドワードは、金も地位もある。 だが人間関係は取引でしかなく、どこか空虚だ。 その空洞を、ヴィヴィアンは問い詰めず、裁かず、ただ肯定する。 これは、多くの男性が心のどこかで抱いてきた理想像だ。
一方、女性側の視点に立てば、この映画は別の物語になる。
「今は貧しく、社会の底辺にいても、本当の価値を見抜いてくれる誰かが、いつか白馬に乗って迎えに来てくれる」
ヴィヴィアンは、社会的には最も低い場所にいる。 しかし物語は、彼女が実は聡明で、品があり、魅力的であることを何度も強調する。 彼女は変わるのではなく、“見つけられる”存在なのだ。
つまりこの映画は、 努力や自立ではなく、 選ばれることで報われる救済を描いている。
では、この映画はどちらの理想を描いたのか。
答えは、おそらく「両方」だ。
男は、成功しても未完成なままでいいと赦され、 女は、どんな場所にいても本質的価値は失われないと肯定される。
二人は、互いの欠落を埋め合うように出会う。 男は人間性を取り戻し、 女は社会的承認を得る。
それは恋愛というより、 男女それぞれの不安を相互に癒やす装置に近い。
だからこの映画は、 現実を変える物語ではない。 構造を壊す物語でもない。
それでも多くの人の記憶に残ったのは、 「こんなふうに報われたらいいのに」という、 時代が共有していた幻想を、 あまりにも美しく肯定してしまったからだ。
今この映画を見ると、 甘く、危うく、そして少し怖い。
だが同時に、 かつて多くの男女が確かに信じたかった夢が、 そこには丁寧に保存されている。
『プリティ・ウーマン』とは、 男と女、それぞれの理想が、 一度だけ噛み合ってしまった、 そんな奇跡の記録なのかもしれない。
