換気扇から香るインド
中学校の時、巷では、わりと名の知れた不良くんがいた。
怖いのでなるべく関わらないようにしていたはずなのに、私の脳には彼の印象がめちゃめちゃ鮮明に刻み込まれていた。
というのも、卒業式も近づき、平穏な義務教育を終えようとしていたある日のことである。
彼は柔道部だった同級生と派手に喧嘩をして、顔面の骨を折るという強烈なトラブルを引き起こしたのだった。
平和主義者の私は、ドン引きし、自分は全く関係ないのに、なぜか恐れおののき、この人とは二度と関わらないようにしようと心で誓ったのであった。
そうして話は現在に戻る。
私はどういうわけか、妻と一緒に、学年一のツッパリだった彼の家のキッチンに立ち、ご自慢の特製カレー作りを眺めている。
しかも、カレーといってもただのカレーではない。スパイスから作るこだわりのインドカレーだ。
成熟した彼は、随分と落ち着き、いっぱしの中年サラリーマンになっている。
違うところと言えば、スモークの入ったメガネをかけていることと、たばこを吸う時、一瞬目に鋭さが戻ることくらいだ。
人生というのは、つくづく不思議なものだ。
こうして、二度と関わらないと思った人ともう一度出会い、同じ台所でカルバッタを囲んでスパイスを潰すことになるかと思えば、プリクラ機の中で我ら友情永久不滅などと思い出をシールに刻み込みながらも、今では連絡すらつかない人もいる。
ちなみに、カルバッタは、私から見れば、ただの金属の棒とやたらと分厚くて大きい金属製のコップのように見える。
ただ、彼から見ると、スパイスを潰すためだけにわざわざ買った、こだわりの調理器具なのだろう。
その姿は、妙にちぐはぐで、なんとも微笑ましい。いわゆるギャップ萌えというやつだ。
インドカレー作りは、一般的な“欧風カレー”とは工程が異なる。
まず、彼は鍋の中央にたっぷりと、黄色い液体を水差しのような容器から注ぎ入れる。
これは何かと聞くと“ギー”というそうだ。
バターを一度溶かして、不純物を取り除いたもので、これが独特の香ばしさをもたらし、カレーにコクと深みをもたらすのだという。
なんで固まっていたものを、もう一度溶かす必要があるのだろうとは思ったが、スモークの入ったメガネ奥には、まるで少年のような目が見える。
ナイフのようだった彼の目は、今では、純粋に料理を楽しむ趣味人の目だった。
それを見ると、聞くのが野暮ったく思えて、そのまま喉の奥にそっとしまった。
彼は楽しそうに、スパイスのためにこしらえたと思われる専用の棚から、次々と瓶を取り出し、手際よくスパイスを鍋に放り込んでいく。
クミンシードが鍋に入った瞬間に、キッチンの香りが変わった。
完全にインドの香りだ。
いや、私はインドに行ったことがないので、正確にはインドカレー屋の香りだ。
しばらくするとパチパチと音が聞こえ始め、彼はカルダモンだけ菜箸で取り除き、私がみじん切りにした玉ねぎを鍋に入れていく。
気がつけば、妻はソファーに座っており、水遊びをする男子生徒を見るような顔をこっちに向けている。
実は、妻も中学校の同級生だった。
とはいっても当時は印象はあまり残っていない。彼女は頭脳明晰だったらしく、ゲームと夕飯のことしか考えていない私とは、住む世界が違ったのだろう。
この部屋には元ヤンと、平凡オブ平凡の私と、元優等生が一堂に会しているなんともシュールな空間が出来上がっている。
きっと同級生に聞いても、この取り合わせは理解に苦しむであろう。
なんせ、同窓会で再会するまでのしばらくの間、それぞれ別の場所で、お互いのことを知らない他人として過ごしてきたのだ。
ましてや、その同窓会に私の天敵だと思っていた彼が来るなど思いもよらなかったし、秀才だった彼女と付き合い、やがて結婚することになるなど、誰が予想できただろうか。
最初は、共通の友達も一緒に遊んでいたのだが、気がつけばこの三人に固定されていた。おそらく、みな食べることが好きだった。
食卓を囲むことに関しては、反骨心の有無も、勉学の優劣も関係ないのだろう。
特に彼と私は、真正の凝り性である。きっと得意分野の知識だけでいえば、秀才の彼女でもきっと敵わない。
私はこの頃、ワインのラベルを、かつての彼のように鋭い目つきで凝視していたし、彼は彼で、インドが築き上げた食文化に魂を揺さぶられ、こうして鍋と向き合いスパイスの調和を気にしている。
本当に人生とはわからないものだ。
まな板から落ちていく鶏肉を見ながら、そんなことを考えていた。
キッチンには、凄まじく良い匂いが漂っている。ご近所さんも近くにインド料理屋ができたのかと勘違いしているに違いない。
そうこうしていると、火の通った具材をヘラでかき混ぜながら彼が言う。
「カルバッタ持ってきて」
何度聞いても、全然ピンとこないが、やっとここで先ほど潰したスパイスが登場するらしい。
彼曰く、細かくなったスパイスは加熱すると香りが飛ぶので、火を止める直前に入れるそうだ。
鍋に一振り、ガラムマサラをかけると、確かに、今までの香りとは違う、水蒸気と一緒に鼻腔に入り込み、肺に広がっていくような匂いがした。
ちなみに、ガラムマサラというのはスパイス単体の名前ではなく、仕上げに少し加えて香りを立たせるミックススパイスのようなものの総称らしい。
本場インドでは家庭によって味が違うということだが、まさか、血の気の多かった彼から、本場インドのスパイス事情を聞くことになるとは夢にも思わなかった。
隣では、米が炊けたようで、彼は炊き具合を確認しながら、しゃもじで米を耕している。
それは、日本の米とは違い、細長くて、香りも全然違う。
悪く言えば少しほこりっぽい独特のにおいがするが、カレーの匂いと混じり合い、なんとも食欲をそそる香りになっている。
彼の指示通り、妻と私で食器やテーブルの準備をして、席に着いた。
トマトから出た色だろうか、少し赤みがかっていて、見た目も完璧だ。
一匙すくい、口に運ぶと、鼻に抜けるスパイスの香りと、コクのある旨味、そしてトマトの酸味が調和していくらでも食べられるようだ。
妻もよほど美味しかったのか、目を見開いて、彼の偉大な料理を褒めたたえている。
彼の顔を見ると、さもいつも作ってます顔をしているが、口元はどこか満足そうだ。
結局、かなり多めに作っていたはずだが、3人で簡単に平らげてしまった。
食後、彼のキッチンで私が珈琲をいれる。
この三人の中では、珈琲は私の専売特許だ。
我々は、今さら昔話はしない。
大体の話は、仕事のこととか、日常の他愛もない話をする。
そういえば彼は、近々引っ越しをするらしい。
たまたま、その日は我が家も予定がなかったので、手伝いにくることにした。
帰り際、彼は玄関まで送ってくれる。
扉を出て、外廊下を歩くと、換気扇の吹き出し口からだろうか。
カレーの匂いがする。
数か月が経ち、約束の日の当日になった。
私と妻は、彼のアパートまで行き、いつものように階段を上がって外廊下を通り彼の部屋まで向かう。
そこで妙なことに気づいた。
なんだか、カレーの匂いがする。
ただ、引っ越し当日にさすがにカレーは作るまいと思いながら、彼の部屋に近づいていくが、やっぱりカレーの匂いがする。
そして、部屋に近づくにつれて明らかに匂いが強くなっていく。
私は気になって、換気扇の吹き出し口に近づき、匂いを嗅いでみた。
換気扇は動いていないようだったが、そこに広がったのは紛れもなくインドの香りだった。
配管から換気扇の羽一枚一枚に至るまでしっかりと染みついているのだろう。
彼の情熱はついに、海を越え、国境を越えて、換気扇の匂いをインドに変えてしまったのだ。
引っ越し作業中ずっと、いい匂いがしている。
車に運ぶダンボールの中に、カレーと書かれたものがあった。ずっしりと重く、ほのかにスパイスの匂いがしみ出している。
もう何が入っているかは聞くまい。
きっと私は忘れない。
スパイスの名前も、ギーも、カルバッタの重さも、ガラムマサラの香りも。
おしまい
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