AIと話すほど、見えないものの話になっていく
文:宇都宮茂(enmono株式会社 CTO / zenschool共同主宰者)
この数週間、複数のAIとの対話ログが手元に積み重なっている。テーマはバラバラに見えて、読み返すと全部同じ場所に向かっていた。
見えないもの、の話だ。
最初のきっかけはFBで見かけた古事記の投稿だった。「霊(れい)→形」という順序。見えない働きが先にあって、あとから形が生まれる。これをDoingとBeingに重ねてみると、確かに荒っぽいがそれほど外れていない気がした。
Doingは見える世界。Beingは見えない世界。
zenschoolでは「山の修行」と「里の修業」という言い方をずっとしてきた。山はBeingの領域、里はDoingの領域と対応させることができる。ただ、この対応は完全一致ではなくて、古事記が語っているのはあくまで宇宙生成の順序であり、Doing/Beingは人間の意識構造の話だ。層が違う。
でも構造的には似ている。どちらも「内側が先」という話をしている。
それよりも引っかかったのは、実感としての観察のほうだった。山から里に戻ることの困難さ。逆方向(里から山)のほうがまだ入りやすい。里で葛藤を抱えた人が、内面の見えない世界へ向かうときに、zenschoolがきっかけになっている感じがある。
天岩戸の神話が頭に浮かんだ。神々がしたことは武力ではなく祭りだった。場のエネルギーを変えることで、天照大神が岩戸を開いた。zenschoolがやっていることも、ひょっとすると「場を変えること」に近いのかもしれない。山に連れていくというより、場を整える。
別のスレッドでは承認の話になった。
地位型承認と存在型承認。SNSが疲れる理由は、ほぼ全部が地位型承認で構成されているからだという整理はわかりやすかった。いいね数が一つ減ると心が揺れる。あれは生存本能が群れの中での順位低下をアラートしている状態に近い、というのも妙に腑に落ちた。
そこから「肚(はら)」の話になった。
自己承認が本物になるのは肚のレベルで起きるとき、という仮説。頭での承認は論破される。心での承認は状況で揺れる。肚での承認は、理由がなくても成立する。説明できなくても崩れない。
自己承認と自己正当化はよく混同される。でも内部構造はほぼ逆だ。自己承認は「開いた肯定」、自己正当化は「閉じた肯定」。現実を含めて肯定しているかどうか、という違い。
肚が据わっている状態というのは、外部評価から切り離された判断層が働いている状態なのかもしれない。AIが「頭」を代替していくほど、残るのはこの肚の層になる。そういう仮説が出てきた。まだ確信はない。
落語の動画をきっかけにした対話では、守破離の話になった。
「基礎を身につけるときに個性はいらない」「修業は一人ではできない」という二つのことばに共感した、という話から始まった。
守(型を守る)→破(型を崩す)→離(型から離れる)。現代社会は守を飛ばしていきなり破や離に向かおうとする。SNS、オーディション文化、自己表現教育。どれも守を省略する方向に設計されている。
AIも同じ構造をもつ。守を飛ばして「破っぽいもの」をいきなり生成できる。草書を楷書なしで書いてしまえる。でもそれは草書ではなく、ただの崩れた字だ。
守を飛ばすと肚が身につかない、という感覚がある。型の反復が身体化され、無意識になって初めて瞬間判断が生まれる。それが肚だとすれば、AIが守を代替できるとしても、肚まで代替することはできない。
浮浪雲の話も出た。主人公の雲は一見いきなり草書の人に見えるが、江戸社会の人情や武士の倫理をちゃんと知っている。楷書を通った草書だ。だから崩れていない。
若い頃にはこういうことに気づけない、とも思う。振り返って初めてわかることが多い。本の中の人物(雲もその一人)を通して知ることができたのは、運が良かったと感じている。
Mindful Ageingという言葉を知ったのも、この期間だった。
老いを「衰え」としてではなく、意識的に成熟していくプロセスとして生きる、という考え方。アンチエイジングとは真逆の思想だ。
直感的にIKIGAIに近いと感じた。ただ、日本人には「生きがい」は日常語すぎて響かない。Mindful Ageingというストーリーのほうが、IKIGAIを伝えやすいかもしれない。外来語化することで価値が見えやすくなる現象は、ZENや侘び寂びでも起きている。
IKIGAIは本来、若者概念ではなかった。老後の楽しみ、日々の小さな意味、という文脈で使われてきた言葉だ。海外でのIKIGAI本が「情熱×使命×天職×報酬」のVenn図に整理してしまったのは、少し原義からずれている。
AI時代は能力格差の意味が薄れるほど、成熟が価値を持つかもしれない。Wisdom civilization、という仮説が出た。お遍路の話もした。巡礼は宗教よりも「人生を見つめ直す旅」として増えている。共生紀のOSに切り替える手段としての巡礼的なもの、という構図が考えられる。
zenschoolも鎌倉IKIGAIリトリートも、その構造と近い気がしている。日常を離れ、身体を使い、対話し、内省する。知識ではなく変容体験。通過儀礼の再発明、とも言えるかもしれない。
最後のスレッドは、議論についてだった。
AI時代にも議論は必要か。事実の確認コストが下がるほど、対立の根拠は情報の不足ではなく経験の違いになる。どのリスクを恐れているか、何を守りたいか、どの痛みを避けたいか。身体化された履歴が、物事の見え方を変えている。
論破ではなく理解へ。そのためには正しさを競う強さより、相手の感情を包み込める想像力が必要になる。
ここでも見えないもの、の話になっていた。
振り返ると、5つのスレッドは全部、同じ問いに向かっていた。
AIが見える層を処理する速度が上がるほど、見えない層の輪郭が浮かび上がってくる。霊、肚、型の身体化、成熟、経験の固有性。どれも数値化できず、圧縮できず、代替できないものだ。
これが共生紀という言葉に込めたいものの一部なのかもしれない、とまだ考えている。
見えないものは、なくなったわけではない。ただ、忙しすぎて気づかなかっただけかもしれない。
