共鳴は、広げるほど奪われるのかもしれない
文:宇都宮茂(enmono株式会社 CTO / zenschool共同主宰者)
「共鳴させようとすること」と「共鳴を守ること」は、同じ方向を向いていないかもしれない。
AIとの対話の中で、ひとつの式にたどり着いた。
共生紀 = 肚 × AI(AIはインフラ)
AIが計算や記憶を担い、インフラとして水や電気のように存在する。 そして判断の引き受け、違和感の検知、覚悟——そういうものは肚の側に残る。
AIが主体になれば、人間は従うだけになる。 AIがインフラになれば、人間はより深く、引き受けることが問われる。
自分が望んでいるのは後者だ、と言葉にしながら、 でもそれを誰かに伝えようとした瞬間に、何かがずれはじめる気がしていた。
「コンテンツを作って、レゾナンスマーケティングをしている」
そう言語化できたとき、少しだけ整理された感覚があった。
すでに内側に何かを持っている人と出会うための仕組み。 作るのは需要ではなく、共鳴。 コンテンツは情報ではなく、引っかかりを作る装置。
肚は外から教えられない。説明では伝わらない。体験や違和感でしか動かない。 だから言語化しすぎない。まとめすぎない。引っかかりだけを残す。
レゾナンスマーケティングとは、共生紀OSを実装できる人同士が接続されるためのプロトコルだ—— そこまで言葉が届いたとき、何か手応えのようなものがあった。
同じ夜、なろう小説を読んでいた。
かなり難解な作品で、何度か読み返している。 それでもよくわからない部分がある。なのに、続きが気になる。
主人公たちは、城下の井戸端や炭焼き小屋の脇で、「役に立たない声」を集める。 「冷たいねえ」「落とすと叱られるんだよ」「訳が分からねえ」—— 誰に向けるでもない、形にならない声。
その声を、彼らは「拾わない」。 拾えば形になる。形になれば縫われる。縫われれば、奪われる。
「縁は持つと奪われる」
その言葉が出てきたとき、なんとなく、自分のやっていることと重なる気がした。
レゾナンスマーケティングは、共鳴を可視化し、接続を作り、関係を育てる。
でもこの小説の登場人物たちは、共鳴すら固定しない。 接続を可視化しない。関係を縫わせない。
逆のやり方だ。 でも、向いている方向は同じような気もする。
自分がやろうとしていることの「裏面」を見ている感覚がある、とAIに言われて、 それが言いすぎとも思えなかった。
共鳴には、「広げる」と「守る」の二面があるらしい。
広げれば届く。でも届いた先で、形になり、構造化され、使われる。 守れば奪われない。でも届かない。
どこまで可視化するのか。どこから不可視にするのか。
まだわからない。 答えが出るとも思っていない。
ただ、形にした瞬間に死ぬものがある、という感覚だけは、 なんとなく分かる気がしている。
この問いは、しばらく持ち歩く。 持ちすぎると奪われるかもしれないけれど、まだ手放す気にはなれない。
#共生紀 #思索ログ #レゾナンスマーケティング #AI対話 #肚
この記事を読んで、何か引っかかりを感じた方へ。
「よくわからないけど、気になる」——それで十分です。
宇都宮茂は、スズキ株式会社で18年間、生産技術の現場にいた。「理論は正しいのに、なぜか動かない」という場面を、ずっと見続けてきた人間です。2009年にenmonoを起業し、zenschoolを共同主宰しながら、今も個人での対話を続けています。
言葉になっていなくても、整理できていなくても、それで大丈夫です。「なんとなく違う気がする」という感覚を、急かさず一緒に整理していく場があります。「やっぱり自分には合わない」という結論も、大切な気づきとして尊重されます。
オンライン(Google Meet)または鎌倉(対面)で対応しています。
