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欠けているから、続いている——未完了をめぐる5つの思索

文:宇都宮茂(enmono株式会社 CTO / zenschool共同主宰者)


1. 欠損と、それが生む運動

FBで見かけた投稿がきっかけだった。

「不完全だからこそ、誰かにわかってもらえる」という話。 読んで、少し考えた。

欠損には2種類あるのかもしれない。 まだ取り戻したい欠損と、すでに意味が変わっている欠損。 前者は傷として疼いている。後者は、視点の源泉になっている。

人生は最適化ゲームではなく、制約付き創造ゲームだ——という感覚と近い。 どのルートを選んでも、別のルートの欠損は必ず残る。 だから欠損は劣っている証拠ではなく、選択した証拠でもある。

日本に金継ぎという美学がある。 割れたところを隠さず、金で結ぶ。 修復の跡が、器の物語になる。

でも、金継ぎをよく見ると、完璧に美しくはない。 線が均一でない部分がある。 一部はまだ開いているかもしれない。

「修復された器」ではなく、「修復を続けている器」。 そちらの方が、なんか近い気がしている。

人が惹かれるのは、完成品ではなく、その人の中でまだ続いている運動なのだと思う。 完璧な球体同士は、一点でしか触れ合えない。 でも、凹凸がある形状なら、そこがフックになる。

これは物語の話でもある。 欠損があるから、葛藤が生まれ、運動が生まれ、他者が入れる余白が生まれる。 まだ言葉になり切っていないものを抱えている人には、他人が参加できる余地がある。


2. 判断を、手放している

英国の学校がAIツールを使って図書室の本を約200冊排除したというニュースが流れた。 その中に、ジョージ・オーウェルの『1984年』が含まれていた。

理由は「暴力と抑圧の描写」。

国家監視と、思考の消去について書いた本が、思考を省略した判断によって消えた。 皮肉が完成されすぎていて、少し立ち止まった。

問題はAIではないと思う。 AIはパターンを検出した。それは正確だったかもしれない。

問題は、その出力を「判断した」と扱ったこと。 判断は、行われていなかった。模倣されただけだった。

「判断を引き受ける人」というのは、どういう人物像なのか。 しばらく考えていた。

スキルや立場の話ではない。関わり方の質の話だと思う。 文脈を切らない。不快さをすぐに処理しない。責任の所在を曖昧にしない。

でも正直に言うと、不快さは耐えがたい。 これは自分でも感じる。 気持ち悪い状態を保持し続けるのは、しんどい。

だから人は判断を外に置く。AIはそれを容易にする。 結果として、思考の機会そのものが減っていく。

ここで少し思った。 判断を引き受けるタイプの人は、強い人ではないのかもしれない。 むしろ、不快さから完全には逃げ切れない人。 雑に決めると、逆にしんどくなるから、結果的にその場に留まり続けてしまう人。

そういう人が、AIの時代に何を担うのか。 まだわからない。


3. 霧の中の、3時間

FBでシェアされていた動画の中で、オードリー・タンがこう言っていた。

「まるで戦場の霧のよう」

SNSで怒りが拡散すると、最初の3時間で状況が固まる。 その後にファクトチェックを出しても遅い。 正確さより初動が支配する。

PPM(Polarization per Minute)——1分間あたりの分断発生量を下げることが大事だ、という話。 「Humor over rumor」。 トロールが5万語の憎しみを投げてきたとき、その中から5語だけ拾って、別の何かに変換する。

認知戦の「敵」は人間ではなく、無知と、分断を生む構造だ、という整理が印象に残った。

それを聞きながら、自分がやっているレゾナンスマーケティングのことを考えていた。 コンテンツを出す。響いた人が近づいてくる。 オンラインでの接触、オンラインでの会話、リアルなコミュニケーション、そして何らかの場へ。

この流れは、外から見ると情報商材と同じ構造に見えるかもしれない。 それを一度、不快な問いとして保持した。

でも、「撒き餌」と「灯りを置く」は、構造が似ていても、目的が違う。 撒き餌は捕まえるためにある。 灯りは、見つけたい人が見つけるためにある。

この差を言語化するのが難しい。 言語化できても、外からは同じに見える。 でも内側にいると、全然違う気がする。

この差は何なのか。まだ整理しきれていない。


4. センスと肚と、差分の話

違和感についての本の話をFBで見かけた。

センスは特別な才能ではない。 知覚、組み替え、表現の3ステップで再現できる、という話。

特に引っかかったのは、「大脳が後天的に学習した知識が、センサーを上書きしてしまう」という部分。

身体はちゃんと反応している。 でも頭が、それを整理して、解釈して、なかったことにする。

同じ日に、75カ国・3万6千人を対象にしたウェルビーイング研究の話も流れてきた。 自然とのつながりが、希望・マインドフルネス・レジリエンス・人生の目的意識に相関している。 しかも、自然が少ない地域ほど、自然とのつながりの効果が大きい。

自然の希少性が、心理的主体性の源泉になる。

これは欠損の話とつながる気がした。 足りないから、深く繋がる。

鎌倉の和田塚のあたりに住んでいる。 海も山も寺も、日常の中にある。 それなのに、それをちゃんと「受け取っている」かどうかは別問題だと思っている。

見ているのと、含まれているのは違う。 評価しているのと、影響されているのは違う。

肚(はら)が立ち上がる条件は、自然があることではなく、差分があること。 移住してきた人が立ち上がりやすいのは、内部にすでにズレがあるから。 そのズレに、鎌倉という場所が重なって、何かが増幅される。

鎌倉は、差分増幅装置なのかもしれない。 でも差分がない状態で来ても、ただの風景で終わる。

これはzenschoolが意図的にやっていることとも重なる気がしている。 違和感を顕在化させる。その場を保持させる。 それは、人工的に差分を作る試みなのかもしれない。


5. 論理と空気と肚の、あいだで

フランス人の友人たちとの会話についてのエッセイが流れてきた。

「それはつまりどういう意味?」「でもその前提は正しいの?」「もしそうじゃない場合は?」

三段ロケット。

日本だと「まあそういうことね」と空気がまとめてくれる。 彼らは空気ではなく論理で着地しようとする。

Cogito, ergo sum(我思う、故に我あり)。

考え続けること自体が、彼らにとって呼吸のようなものだ、という話。

これを読んで少し思った。 自分は「上から考える人たちっぽい」かもしれない。 浮浪雲を読んでみようと思ったのも、そういう気質からかもしれない。

フランス型:疑って、分解して、再構成する。 日本型:文脈を共有して、省略して、同調する。

そしてHARAを起点にした第三のモードがあるとすれば—— 論理でもなく、空気でもなく、「その場の全体との整合感」で判断する。

共鳴は一瞬で起きる。一目惚れみたいな感じ。 それはフランス型の検証でも、日本型の同調でもない。 非言語の即時的判断に近い。

ここまで整理して、少し立ち止まった。

「かなり綺麗につながっています」

AIにそう言われて、違和感を持った。 綺麗につながりすぎている構造というのは、 見えているのか、作っているのか。

発見なのか、生成なのか。

5本のスレッドを通じて出てきたのは、欠損、判断、霧の中の速度、差分、論理と身体の三つ目のモード。 全部が一本の線になるような気がしていた。

でも、その気がするということ自体を、少し疑っている。


おわりに——余白として

まだ整理できていないことの方が多い。

欠損が価値なのではなく、欠損によって生まれる運動が人をつなぐ。 判断を引き受ける人は、強い人ではなく、不快さから逃げ切れない人かもしれない。 鎌倉は特別な場所ではなく、差分が見える状態の人に強く作用する場所かもしれない。 綺麗につながった構造を、疑い続ける回路が必要かもしれない。

「かもしれない」が多い。 でも今は、それでいい気がしている。


もし、この先を話してみたいと思ったなら——

この文章を読んで、何かが引っかかったとしたら、それはたぶん、あなたの中にすでにあるものが反応したのだと思います。

急いで整理しなくていいです。 まだ言葉になっていなくても、それで大丈夫です。

私はスズキで18年間、「理論は正しいのに、なぜか動かない」という現場を見てきました。 2009年にenmonoを起業したのも、「おもしろいからやる、ただそれだけ」から始まりました。 zenschoolを共同で主宰しながら、個人としての対話も続けています。

答えを持っているわけではないです。 ただ、同じような問いを長く持ち続けてきた人間として、一緒に少し整理することはできるかもしれません。

「なんとなく違う気がする」という感覚を、急かさず、一緒に置いてみる。 そういう時間が、オンライン(Google Meet)または鎌倉(対面)でお話できます。


#共生紀 #思索ログ #AI対話 #未完了 #肚

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