何かが終わりかけている。でも、まだ次は来ていない。
文:宇都宮茂(株式会社enmono CTO / zenschool共同主宰者)
違和感は、失敗から来るとは限らない。
うまくいった打ち合わせの帰り道。 期日どおりに終わったプロジェクトの翌朝。 肩書きも役割も、まだ十分に機能しているはずの午後。
それでも、何かがずれている気がする。
地図が変わった
問題は能力ではない、と思う。
周囲を見ていても、優秀で、誠実で、ちゃんと考えている人ほど、この感覚を持て余しているように見える。
情報が足りないわけでもない。 むしろ、情報はもう十分すぎるほどある。
足りないのは、知っていることを「どう持つか」ではないか。
座標が変わった。 使っていた地図が、今いる場所を描いていない。
共生紀という視座
共生紀(Kyosei Era)という言葉を使っている。
これは答えではない。 再配置のための視座、とでも言うべきか。
競争・効率・成長という物語の前提が、少しずつ自分の重さに耐えられなくなっている。 それは誰かの失敗ではなく、OSの限界に近い何かだと感じている。
共生紀は、その限界を「問題」として解こうとしない。 「そういう時代に入った」という認識の転換を、静かに促すだけだ。
AIが照らし出すもの
AIについて考えるとき、あるお坊さんの言葉が頭に残っている。
AIとは、Artificial Intelligenceだけではなく、Authentic Insight でもあるのではないか、と。
機械が処理・最適化・予測をどれほど上手くやれるようになっても、その結果として残るもの——身体を伴った判断、関係の中での存在感、その場で何が起きているかを感じ取る力——は、削れない。
むしろ、それ以外が自動化されるほど、削れないものの輪郭が際立ってくる。
インターネットが普及したとき、「僕たちは原始人に戻った」と言った人がいた。 身体性を伴うやりとりが、改めて人間の仕事になる、という意味で。
AIが来て、その話はさらにリアルになったと思う。
共鳴と、続けること
共生紀という考え方に触れて、何かが動く人がいる。
でも、翌日には同じデスクに座っている。 同じ会議に出ている。 同じリズムで動いている。
理解できなかったのではない。 「分かる」と「そこから生きる」の間には、別の何かが要る。
日本語で言えば、肚(はら)。
胃袋ではなく、もっと深い重心のこと。 決断が「理論」ではなく「現実」になる場所。 共鳴を、生き続けられる何かに変える力の座。
gut feelingが一番近い英語かもしれないけれど、それより少し鍛えられたもの、というニュアンスがある。 体得する種類のものだと思う。
共生紀という地図は、割と早く理解できる。
歩くには、別の力が要る。
それがまだ言語化しきれていないことでもある。
#共生紀 #肚 #AI時代の生き方 #思索ログ #zenschool
ここまで読んでくださった方へ、少しだけ。
読み終えた後、何か引っかかるものがあったとしたら——それは「分かった」というより、「何かが動いた」という感覚に近いかもしれません。
その感覚を、すぐに整理しようとしなくていいと思います。
もし「一人で抱えているのが少し重いな」と感じたら、話してみる、という選択肢があります。
zenschoolでは、創設者の三木康司と宇都宮茂が直接お話を聞く場を設けています。営業の場ではありません。私たちも同じように迷い、どん底を経験してきた当事者として、ただ話を聞く場です。「やっぱり自分には合わないかもしれない」という結論も、ひとつの大切な気づきとして受け取ります。
Google MeetでもZoomでも、鎌倉でのリアルな対話でも対応しています。
