見出し画像

三木さんは山で体験した。私は工場で観察した。同じものを見ていたのかもしれない。

文:宇都宮茂(enmono株式会社 CTO / zenschool共同主宰者)


以前、こんな記事を書いた。

工場のベテラン職人、田中さんの話だ。 毎朝、工具を拭いている。 新人の佐藤くんが「昨日も拭いたのに、なぜまた拭くんですか」と聞く。 田中さんは手を止めずに答えた。

「汚れを取ってるんじゃないよ。気づくために拭いてるんだ」

あの一言を書いたとき、自分でもまだわかっていなかったことがある。 田中さんが「気づいている」のはなぜか、ということだ。


三木さんが山に入った

少し前、三木さんがこんな記事を書いた。

大峰奥駈道を20キロ歩いた。 修験者の一団に混じって、六根清浄を唱えながら山を歩く。

記事にはこうある。

唱名のリズムに乗ると、足が勝手に前に進んでいくのだ。かなり険しい山道でも、頭で「次はあの石、その次はあの根」と考える前に、身体が自然に最適な一歩を選んでいく。

読んだとき、田中さんのことを思い出した。

あの人も、考えてから拭いていたわけではない。 手が先に動いていた。


私はそれを、外から見ていた

この対比が、ずっと引っかかっている。

三木さんは山に入って、身体でそれを経験した。 私は工場で、それを外から観察していた。

以前、三木さんの大峰記事を読んでこんな記事を書いた。

返ってきた整理の中で、一番引っかかったのはここだった。「頭が指令を出す前に、身体がすでに動いている」

引っかかった、とは書いた。 でも「止まっている」というタイトルにしたのは正直なところで、 理解はできている。体感はまだ、できていない。

三木さんと私の差はそこにあると思う。


三木さんが「タクト」と呼んでいるもの

三木さんは別の記事でこんな話を書いている。

鎌倉の禅寺の老師が、修行僧の草履の音だけで、その日の問答の成否を察する。 理由は言語化できない。データもない。 ただ、わかる。

私が工場で見てきた「なんとなく、こっちの方がうまくいく」という職人の判断と、 構造はまったく同じだ。

でも三木さんはそれを自分の身体で再現しようとしている。 私はまだ、記述している段階にいる。


見えているのに、届いていない

三木さんはこう書いている。

AIが高度化すればするほど、人間の知性は「情報処理」や「計算」の枠組みで語られるようになる。身体は、データを入力するための「インターフェース」に成り下がっていく。

私は18年間、製造現場でまさにそれを見てきた。 マニュアル化が進むほど、現場の人間から「気づき」が消えていく。 カイゼンAIが動くとき、最初に消えるのはたぶん田中さんの「気づくために拭く」という感覚だ。

それがまずいと思っている。でも、代替案を持っているわけではない。

三木さんは修験道で身体を使って、その感覚を取り戻した。 私はそれを見て、「そういうことかもしれない」と思っている。

まだそこで止まっている。


二人でやっている理由

zenschoolを三木さんと共同で主宰しているのは、 この「止まっている」を抱えたまま、一緒に場を作ってきたからだと思う。

三木さんは到達した場所から話す。 私は途中から話す。

どちらが参加者に届くのかは、正直わからない。 でも、二つの声が同じ場にある、というのはたぶん何かの意味がある。

自分たちもまだ探索しながら運営している。 そういう場に来てみてもいいと思う人は、一度話を聞きに来てほしい。

▷ 無料相談会の詳細・申し込み


#zenschool #AI時代の生き方 #肚 #身体知性 #共生紀

いいなと思ったら応援しよう!