53.第六天魔王波旬『高利貸しVS織田信長』編!
【訂正】
平清盛が、日宋貿易を始めたことによって、大量の宋銭(中国の宋でつくられたお金)が流入するようになったのは事実かもしれないが、平清盛と平重衡は、奈良の大仏を焼き討ちしているわけで、味方かもしれないな。平氏政権派の高倉上皇が死去、続いて閏2月4日(1181年3月20日)には清盛自身も謎の高熱を発して死去。敵の呪いかも知れない。この二人はもっと調べたほうがよい。
すると、下の立派な上手い閻魔大王の絵が、敵の発注によるものとなるかも。
18905文字!読むの大変だけど絶対読んで!2〜3日かかるんじゃないかな?投げ銭よろしく!( ̄▽ ̄;)
ワシは大化改新からの律令制時の内容から調べたけど。これは、その税金の部分。リンク リンク
歴史の詳しい人のサイトがあった。律令政治の内容からそのように展開するわな。繋がりだすから長いけど読んで、面白いよ。分からない言葉も調べながら読んだ。
鎌倉時代も坊主丸儲け?~商工業の発達と高利貸しの出現
鎌倉時代は急速に銭(貨幣・お金)が流通するようなり、いわゆる貨幣経済が発達します。
鎌倉時代は、公家中心社会から武家中心社会へと大きく転換する時代ですが、経済も大きく転換するダイナミックな時代なのです。現代日本に続く貨幣経済の幕開けの時代といってもいいでしょう。
きっかけは平清盛
きっかけは、平清盛が日宋貿易を始めたことによって、大量の宋銭(中国の宋でつくられたお金)が流入するようになったからです。
日本では963年(応和三年)以降、銭をつくっていません。皇朝十二銭とか言われていますが、それは昔のこと。畿内で一部流通したそうですが、貨幣経済の進展とまではいかなかったようです。
そのかわり、日本ではモノの価値をはかる尺度として、「銭」の替わりに絹・布が使用されていました。絹や布がお金のかわりだったわけです。

『天子摂関御影』の清盛肖像(南北朝時代)
時代 平安時代末期
生誕 永久6年1月18日(1118年)死没 治承5年閏2月4日(1181年)
主君 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇。
若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟であった。
藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。
藤氏長者は、藤原氏の代表者として、氏の政治・財務・宗教など全般に関わる。氏領としての荘園や動産の管理、氏寺興福寺や氏社春日社・大原野社とその末寺・末社の管轄権・裁判権があげられる。最も重要なものとしては氏爵の推挙権があり、また大学別曹勧学院の管理権を掌握し、その権能によって勧学院別当を補任した。
大原野社=延暦3年(784年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、しばしば鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まる。その最初の鎮座地については諸説あり、延喜式神名帳に記載される入野神社が有力とされる。
興福寺==本尊は中金堂の釈迦如来。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。
春日大社(かすがたいしゃ)は、奈良県奈良市春日野町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称は「春日社」、神紋は「下がり藤」。

神紋は「下がり藤」3つ、そして十字架

調べは浅くいが、下がり藤のデザインの元はコレなんじゃないかな・・。リンクをクリックし、各神社の金満を確認するべし。(;´Д`)
別表神社べっぴょうじんじゃ)とは、神社本庁が定めた、神社本庁が包括している一部の神社のことである。
昭和21年(1946年)2月2日の神社の国家管理の廃止された。社格制度廃止後は、全ての神社は対等の立場であるとされた(伊勢神宮を除く)。しかし、旧の官国幣社や一部の規模の大きな神社については、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いをすると不都合があることから、「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをすることと定めている。その対象となる神社が同規程の別表に記載されていることから、「別表に掲げる神社」(別表神社)と呼ばれる。

月岡芳年『平清盛炎焼病之図』(たいらのきよもりひのやまいのず)
縦大判三枚続揃東錦絵。1883年(明治16年)刊行の武者絵。
治承5年(1181年)、原因不明の熱病に臥せった清盛は三日三晩に亘ってうなされ悶え苦しんだ末に死んだという。
◇ここからは絵師の創作であるが、重ねてきた悪行のために成仏できそうにない己の顛末を想って清盛の心は責め苛まれた。
閻魔大王が司命・司録と閻魔卒を引き連れて清盛の病褥に顕現し、生涯の善行と悪行を一つとて漏らさず記録してきた倶生神(※中央奥にいる閻魔の向かって右にいる女神と左奥にいる赤ら顔の男神)の報告を受けている。司命は審理の書を、司録は板塔婆を、すでに手にしている。
⭕️この絵師は、平清盛は閻魔大王に裁かれるような人間だと思っていた。
増加する宋銭・元銭
ここで、疑問が生じます。
なぜ、貨幣経済を引き起こすほどの宋銭が入ってきたのでしょうか?少なくとも、平清盛が「貨幣経済を起こしてやろう」なんてことを考えて宋銭の流入を増やしたりはしません。
実は、日宋貿易は輸出超過だったと考えられています。
日本は何を輸出し、何を輸入していたのでしょう?
輸入品
香薬類(じん香・白檀香・紫檀香・薫陸香・丁子香など)、鳥獣類(おうむ・クジャク・羊・水牛・犬・猫・馬など)、唐織物、竹木類(紫檀・白檀・甘竹・呉竹)、書籍類、紙、硯、墨、書画、茶碗、青磁・白磁、豹や虎の皮、茶
輸出品
砂金、銀、硫黄、水銀、木材(ヒノキや杉などの木材を角材や板に加工)、工芸品(螺鈿・蒔絵・屏風・大和絵・扇子・彫金・銅器など)、武器類
当時の日本は鉱物資源しか輸出できないようなイメージがあるかもしれませんが、そうではないことがわかると思います。工芸品や武器類(刀や鎧)がこの時代からイケていたのです。鎌倉時代にもなると大陸で大ヒット。そういうわけで、平家が滅亡したあとの鎌倉時代も、引き続き民間レベルで日宋貿易は続いていくことになります。
宋(960年 - 1279年)
そして貿易が盛んになった結果、日本国内で貨幣が十分に行きわたるほどの宋銭が流入したのです。あまりにも大ヒットするので輸出しまくったら、国内が宋銭だらけになったというわけです。どのくらい日本に宋銭が入ったのかは史料にないのでわかりませんが、大国の宋が日本への銭の流出を禁止しなければならないレベルです。推して知るべしの世界ですね。
宋銭が大量に日本に流入してきても、誰も使わなければ何の役にも立たないのですが、鎌倉時代の人々は銭を利用することの便利さを知ったようです。
貨幣が使用される理由
ちなみに古今東西、貨幣が使用されるのは理由があります。それは「腐らない」からです。それだけではないのですが、大きな要因です。経済学的には「価値の尺度」「価値の保存」「交換の手段」など、貨幣に関する条件がありますので、気になる方は「貨幣の条件」で検索をどうぞ。
腐らないことによって、いつまでも価値をはかり続けることができます。100円玉は、いつまでも100円だからこそ価値があるのです。明日に10円になったり、10年後に1円になったりしないわけです。さらに、腐らないことによって蓄えることができます。魚や野菜を10年間蓄えるのは無理です。また、腐らないので遠い地方に持っていくことも可能になります。
このように、貨幣は便利なわけです。今なお、貨幣に変わる「何か」は生まれていません。電子マネーも貨幣です。現代を生きる私たちはすでに貨幣経済に生きていますから、その便利さに気づきませんが、鎌倉時代の人々にとって革命的便利さだったのではないでしょうか?
現代でのインターネットの普及のくらいのインパクトでしょう。
貨幣流通を促した荘園制度
鎌倉時代に入っても、日本の経済の仕組みは荘園制度が主流です。荘園とは、簡単に言えば私有地のことです。鎌倉時代は荘園制度をベースに物資や人が動いていました。
平安時代半ばの摂関政治以降、天皇家や摂関家(権門)、あるいは有力寺社に全国の土地が寄進されるようになり、権門や寺社の荘園が広がっていきます。寄進すれば色んな恩恵を受けることができるので、人々は開墾した土地をせっせとエラい人達に寄進します。
摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治のことである。
寄進地系荘園の発達
寄進された側のエラい人達、つまり権門(天皇家・摂関家)は、全国にある膨大な荘園を管理するために、中小の貴族や侍、舎人・雑色・下人その他の多数の人たちをかかえて組織化します。
この様々な人たちと荘園をまとめて管理する家政機関を政所(三位以上の公卿の場合)・公文所といって、中小貴族が家司(けいし)としてその事務に当たりました。中小貴族はその見返りとして、権門からの推薦によって官位を与えられ、あるいは国司になったり、荘官として荘園の直接支配を行ったりします。
寺社の場合は、貴族のような家政支配ではありませんので、貴族のシステムとは異なりますが、荘園の管理の仕方としては大きく異なりません。
このように、全国にある膨大な荘園を支配する権門・寺社が京都・奈良などに集まっていた結果、全国の年貢・雑物、人が京都・奈良に集まるようになりました。宋銭はこのルートにのって京都・奈良と地方の間を流通するようになり全国に広がっていったのです。
この荘園制度がなければ、貨幣経済は発展しなかったかもしれません
無足の御家人~所領がない貧乏御家人が発生した理由
鎌倉時代は、言うまでもなく武士の時代。
ところが、幕府が朝廷の権力を凌ぐようになり、全国にその覇権が広がれば広がるほど、武士が没落するという摩訶不思議な現象が起こります。
正確には、勢力を拡大する幕府の「御家人」といわれる武士たちが没落していきます。
鎌倉幕府が強大化するにつれて、没落する御家人。
なぜ、こうなったのでしょうか?
「北条氏が幕府を牛耳ったから」という幕府トップの話は横に置いといて、今回は「土地の売買」を通して、御家人の社会をのぞいてみましょう。
御家人と窮乏
鎌倉幕府を支える骨格は、将軍と御家人の主従関係です。それは、「御家人役」といわれる軍役・大番役、および関東御公事の奉仕を基礎としています。この御家人役の奉仕のためには、御家人の生活が安定するだけの所領がなければなりません。所領を失えば御家人自身が困窮し、満足な奉公もできなくなります。そうなると、幕府の基盤が危うくなってしまうのです。
鎌倉時代後期は、その幕府の基盤を支える御家人役が大きく動揺し続けた時代でした。ところで、現代を生きる私たちは、「鎌倉時代の武士=御家人」と思いがちですが、全ての武士が、将軍・幕府に奉公していたわけではありません。
『沙汰未練書』という鎌倉末期につくられた幕府奉行人のための手引書のようなものに、
「非御家人とは、その身は侍たりといえども当役勤仕の地を知行せざる人のことなり」とあります。
御家人と同じ「侍」という身分ですが、幕府の御家人として奉公していない「非御家人」と呼ばれる人々がいたのです。非御家人の主は公家や寺社です。
また、「凡下(ぼんげ)」と呼ばれる人々もいて、こちらは侍でない者、つまり侍以下の者もいました。一般農民とともに甲乙人とも言われます。この非御家人や凡下といった人たちが、「御家人役」を揺るがす存在となります。
もちろん、非御家人・凡下と言われる武士たちが、御家人に対して武力で何かをしたわけではありません。それでは、彼らは何をしたのでしょうか?非御家人や凡下は、土地を引き換えに御家人に銭を工面していたのです。
御家人に広がる所領の売買・質入
ぜいたくを覚えた御家人
鎌倉時代後期以降は「御家人役」が動揺し、最終的に崩壊して幕府が滅亡してしまいます。実は、この御家人役の動揺は3代執権北条泰時の時代からすでに始まっていたということは意外と知られていません。
もっとも、「元寇後、御家人の生活は苦しかった」で説明したような理由ではありません。御家人たちの分不相応な生活によって動揺し始めたのです。
つまり、「ぜいたくによって」です。
1240年(延応二年)3月、北条泰時は六波羅探題の極楽寺流北条重時(泰時の弟)に対して、
「在京の御家人らが洛中を車に乗って横行しているというが、はなはだにけしからぬことである。関東御家人の中に分を超えたぜいたくがあるのをやめさせよ」という命令を出しています。
同年5月には、「たとえ私領であっても(御恩の地でなくても)、凡下・借上・非御家人に売却してはならぬ。売却すればその土地を没収する。また山僧を地頭代官にすることを禁止する」ことを布告します。
京都大番役などで上京した御家人は、京都や西国でぜいたくを覚え、生活が派手になっていきました。京都や畿内周辺は、関東とは違って貨幣経済の発展した地域となっていましたから、ぜいたくをするには銭が必要です。
当然、自給自足を原則として暮らしていた御家人は、どこかで銭を調達しなければなりません。ところが、御家人たちはあろうことか、「所領」を非御家人・借上・凡下に質に入れしたり、売却したりして銭を調達していたのです。
また、西国に所領をもつ関東の御家人は、銭勘定に長けた「山僧」とよばれる比叡山の僧侶(比叡山以外の僧侶も含む)を西国の所領の代官として、銭の調達を行っていたのでした。
「山僧」は、坊主をしながら高利貸しを行っていたのですが、どういうわけか御家人は彼らを代官に任命します。銭勘定に明るいからという理由で任命したのでしょうが、どういうわけかこの山僧に土地を奪われます。借用書が出てきたら歴史的発見かもしれません。
「山僧」は、坊主をしながら高利貸し、どういうわけか御家人は彼らを代官に任命。見えるよね(笑)
ちなみに、「借上(かしあげ)」とは当時の金融業者(高利貸し)のことです。御家人が持つ所領は「御恩の地」とよばれ、将軍(鎌倉殿)から賜る大事な土地です。
「一所懸命」の由来となった大事な土地を、銭の調達のために売却していたのが、北条泰時の時代の御家人の姿です。このような所業は、幕府の存続に関わりますから、幕府は当然これを禁止します。
一方、個人的に入手した土地である「私領」の売買については、当初は幕府も認めていました。
ところが、「御恩の地」を「私領」という名目で、凡下・借上・非御家人などに売り渡されるケースが急増したのです。
泰時は、御家人以外への「私領」の売買を禁止し、違反した土地は没収することにしたのでした。

御家人窮乏の本格化
1267年(文永四年)12月に幕府は、以下の「2カ条」を決定して六波羅探題・各国守護人に通達します。
1. 御家人らが所領を質入または売買するのは零落(れいらく)の基である。今後、御恩の地・私領を問わず一切の売却や質流れを停め、元の代価で取り戻すべきである。ただし、非御家人に売った場合は、延応年間(1239~1240)の法令によって土地は没収される。
2. 子孫をさしおいて他人に所領を譲与するのは正しくない、御恩・私領を問わず、今後そのような土地は没収される。御家人の所領の売買・質入を禁止する法令が発布されたのです。
この背景には、泰時の頃のような御家人たちの贅沢を戒めるという意味合いではなく、無足の御家人が大きな問題となっていたからでした。無足の御家人とは、所領を失った御家人のことです。
無足の御家人とは、所領を失った御家人のことです。
つまり、所領を失ったために「御家人役」を十分に奉仕できない御家人が増加し、幕府が大々的に救わなければならなくなったのです。この時代の御家人は、自前で戦費を調達するのが原則です。
御家人を救わなければ、「蒙古襲来」という未曽有の国難に対応できない事情があったのです。
幕府は、土地を売った御家人に対して、売った値段で土地を買い戻すことを要請しました。さらに、売買のほかに質入を加え、さらに御家人相互の場合も禁止とする徹底ぶりでした。
2条目は、譲与の名目での売却を禁止しています。「譲与」は、字のごとく「譲る」ことですが、子孫に「譲与」するのではあれば問題はありません。ところが、「譲与」といいながら他人に「売買」するという、幕府にバレないように手の込んだやり方で取引を行っていたことが発覚して大問題となったのでした。
幕府は、1240年に「御恩の地」「私領」の「売買」を禁止していますが、1267年に「御恩の地」「私領」の「譲与」も禁止したのです。
しかしながら、この法令をもってしても、御家人の没落は防ぐことができません。そもそも、銭がないから土地を売ったわけですから、買い戻す金を御家人が持っているはずはありません。
今後、土地を売ってはならないとなると銭を用意できません。鎧兜や刀など売れるモノは売ってしまう事態に発展します。
もはや、御家人は「詰んで」いたのです。
詰んだ御家人を救うべく行われた施策が、「弘安徳政」「永仁の徳政令」というわけです。永仁の徳政令は、御家人にトドメをさすことになりますが…
御家人にトドメの理由が分かる・・・(;´Д`)
無足の御家人と悪党
蒙古襲来である「文永の役」と「弘安の役」が終わっても、無足御家人の問題は悪党の問題と並んでいっそう大きくなっていました。
いやむしろ、悪党と無足の御家人は関連し合っていたという方が適切でしょう。
無足の御家人は悪党の発生源の主要なものの一つだったのです。やっていけなくなった御家人は、悪党になって各地を荒らし回るようになっていったと考えられます。幕府の討伐命令にも関わらず、地頭が悪党をかくまったり、守護が討伐をしぶったりしたのは、元御家人という武士が多くいたからと言われています。
経済活動に吸収される御家人
御家人が所領を売買したり、質入したりするのは、銭を得ることが目的です。泰時の頃はぜいたくのために、時宗の頃は蒙古襲来の戦費調達が主な理由でした。
ほとんど、脅しに来ていただけで帰っちゃうんだよね。蒙古の意図はなんだったんだろうね?
理由はともかく、御家人は大事な所領を売って、銭に代えていたことを今まで見てきました。それでは、なぜ御家人は、非御家人や凡下といった武士に所領を売っていたのでしょうか?
なぜ、非御家人や凡下は、御家人と同じ武士であるにも関わらず、銭を持っていたのでしょうか?
非御家人とよばれる「侍」は、権門(天皇家・摂関家・寺社など)に武士として仕えていました。
凡下は、「侍」より身分は下とされましたが、貴族や寺社から寄人・神人・供御人などの称号を与えられて公事を奉仕していました。
非御家人や凡下といわれる武士は、大中小貴族から成る荘園経済制度(荘園からの収益で成り立つ制度)に組み込まれいたのです。
幕府の制度のもとで、自給自足を原則として生きていた「鎌倉御家人」とは異なる武士だったのです。非御家人らは、荘園経済制度によって得られた銭をもって、御家人の所領を買い取り、あるいは所領を担保に貸し付けたりしていたのでした。こうして、困窮した御家人は、非御家人・凡下に所領を奪われていくことになります。
御家人の没落と幕府滅亡
所領を失った御家人(無足御家人)は、御家人としての資格と能力を欠いていますから、幕府にとっては頭の痛い問題でした。
しかし、その幕府においては、宝治合戦(1247年)や霜月騒動(1285年)によって、有力御家人の大部分は滅ぼされており、北条一族とその被官の勢力が増大する時代となっていました。

北条氏は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。
鎌倉時代も坊主丸儲け?~商工業の発達と高利貸しの出現
2019.07.08
鎌倉時代は、武家政権の誕生や鎌倉新仏教の勃興、貨幣経済の発達などによって社会が大きく変化した時代なのですが、商工業の発達も見逃すことはできません。
お金があると、ついつい人はぜいたくしてしまいますが、御家人たちもご多分に漏れず分不相応なぜいたくをしていた者が多くいたようです。商人が遠方から珍しいものをもってくると、高い銭を払ってそれを買い求めたり、京都・鎌倉や西国の新しい所領へ赴いた際にぜいたくを覚え、商人から高いものを買わされることもあったようです。兎にも角にも、鎌倉時代に商工業は飛躍的に発展し、モノの売買が盛んになっていきました。
この商工業の発達は、もともとは農民が度重なる飢きんに生き残るため、稲作以外に、畑作や特産品の生産を発達させたのがきっかけといえば、きっかけです。それらの品々が、荘園制度を基盤とする流通網に乗って京都や奈良、他の地域に運ばれていったのです。
これらの流通は、貨幣の交換によって取引されるようになっていましたから、しだいに農民に貨幣が行き届きはじめます。農民たちは銭をたくわえようと努力するようになります。いざというとき、銭が頼りになるようになってきたのです。
御家人は、地頭・公文・名主などという荘園の管理者として農民の上に立つ存在でした。しかし、徐々に貨幣経済が農村に浸透してくると、自給自足を前提として結ばれていた「領主-農民関係」に変化が生じます。
たとえば、力役や雑物公事といった労役が銭勘定に代わってきます。銭さえ出せば、労役は免除のようなこともしばしばです。
領主は、いろんな名目で農民が蓄えた銭を徴収しようとしますし、ひどい場合には、無理やり罪を被せて罰金として銭を徴収する例もありました。自給自足の頃のような情緒的な結びつきではなく、ドライな結びつきに変わっていくわけです。カネは恐ろしい。
また、遠隔地へおくる年貢や公事を近くの市場で銭に替えて送るようになりました。市場が定期的に開かれるようになるのもこの時代の特徴です。四日市・五日市・八日市などはその名残とされています。
本貫地と呼ばれる本拠地以外の遠隔地に所領をもつ御家人は、その所領に代官を置いていました。農民が銭を蓄え、年貢や公事を銭に替えて運ばせるようになると、銭勘定に長けた代官を任命し、年貢などの徴収を負わせるようになります。
山僧
銭勘定に長けた代官としてしばしば任命されたのが「山僧(さんそう)」でした。山僧とは、「山門」と呼ばれた比叡山延暦寺の僧侶のことです。
彼らは寺社領荘園の雑掌(荘園領主の代官)として、理財(財産)に関わる機会が多かっただけでなく、各地の末寺・末社の組織を通じて祠堂銭(祠堂(しどう)の修理費の名目で死者の冥福を祈るために寄進する銭)を多く集めていました。彼らは、祠堂銭を上納するのではなく、高利で貸し付けて暴利を貪っていました。
つまり、集めたお布施を元手に高利で貸し出して、莫大な利息を儲けていたということです。さらに、神仏の銭ということで、踏み倒せば仏罰が下ると脅していたようで、回収率はよかったといわれています。
このように山僧=高利貸しというのが実態でした。
延暦寺の名誉のために言うと、比叡山延暦寺の僧すべてが高利貸しを営んでいたわけではありません。真面目に修行を積む僧侶が多くいるなか、金に目のくらんだ僧侶も多くいたということです。また、僧が高利貸しを営むのは延暦寺だけでなく、他の寺院も行っており、神社では初穂料を集めて高利貸しを行っていました。
僧侶の真面目に修行も、民に呪いをバラ撒くだけで大迷惑だよな。( ̄▽ ̄;)
借上
高利貸業を専業でおこなう者もあらわれます。借上(かしあげ)と呼ばれました。南北朝時代に作られたとみられる『庭訓往来』という書物に、「湊々借上」とあることから、物資の運輸でにぎわう港湾などに、問丸(倉庫・物流業者)などとともに借上がいたものと考えられています。
借上は荘園制経済の流通網の中から生まれてきたのです。
山僧・借上を雇う御家人
御家人たちは武芸に秀でていましたが、金銭感覚に乏しい者も多く、その能力を補うために山僧・借上といった金融業者を雇っていました。銭勘定に長け、彼ら自身が巨万の富もっていましたから、御家人にとって何かと便利だったのでしょう。
ところが、かえって地頭や御家人たちは、この高利貸しの代官に次々に所領を奪われてしまうのです。なぜ、どのようにして所領が奪われたのか、はっきりした史料は残されていないことからわかりません。ただし、幕府が度々発令する法令から御家人の様子をうかがうことは可能です。
この国は、大事な資料は必ず残っていないことにする!( ̄▽ ̄;)
1239年(延応元年)9月に幕府は「諸国の地頭たちは、山僧ならびに商人・借上の者をもって補する(任命する)ことを禁止する」法令を出しています。3代執権北条泰時の時代です。
そして、翌年5月に、
「たとえ私領であっても(御恩の地でなくても)、凡下・借上・非御家人に売却してはならない。売却すればその土地を没収する。また山僧を地頭代官にすることを禁止する」という法令を出します。
その後、1267年(文永四年)に御家人の所領の質入・売買を禁止し、1284年(弘安七年)には九州の神社領および御家人の名主職を無償でもとの所有者に返還することとします。
幕府は再三にわたって、御家人の所領売買に関する禁令を出しますが、結局のところ効果は現れませんでした。山僧や借上との縁を切ることができないどころか、所領を奪われ続けた御家人の様子がわかってきます。
鎌倉時代は、発達した貨幣経済や商工業の発達によって社会は大きく変動し、新しい政治体制だったはずの武家政権そのものを旧態化してしまったと言えるでしょう。
幻了
ここまで読んだと、ブックマーク。

2019.07.08
このblog、ものすごく面白かったんだけど、信長の比叡山焼き討ちの話まではいかないんだ。1284年までの話題だから。信長は、1534年 - 1582年の人物だものな。そして、このblogは、章ごとに一気に読んだ方がいい。
それで、そちらの話をしているblog、これも良い。
比叡山が焼かれたのは自業自得?高利貸しだった延暦寺
この中で、細川高国と大内義興、自治都市の2つを除くと残りは全て寺院関係です。
しかも、その4つの中で、山門使節と青蓮院と比叡山三塔は比叡山系の組織でした。
お寺が大金持ちと聞くと違和感がありませんか?何故、寺院、しかも比叡山系が大金持ちだったのでしょうか?
祠堂銭を金貸しで運用し富を蓄えた比叡山
当時の寺院は広大な荘園と信者からの寄進で巨万の富を築いていました。
しかし、これらの寺院は、そのような自然に入ってくる収入ばかりではなく、金貸し業も行っていた事が分かっています。
それは元々、祠堂銭しどうせんと呼ばれ、禅宗寺院が身寄りのない人の埋葬や寺院の修理の為に信徒から集めたお金でした。やがて、祠堂銭は使い切れずに溜まるようになり、禅宗はこれを元手に金貸し業を開始するようになります。
もっとも、それは一概に悪い事ではありませんでした。金貸しを開始した頃、その利率は二文、月金利2%という超低金利だったのです。これは資力がない庶民に喜ばれ慈善事業として幕府も徳政令から除外しました。
祠堂銭は徳政令が出ても返済が免除されなかったわけです。
ところが、徳政令から祠堂銭が除外される事を知った他の寺院は、「これは良い儲けになる」と看板を掛け代え祠堂銭金貸しを開始します。どこかで見たような構図ですが、この中で比叡山系は特にアコギでした。
ユダヤで何度も見た!( ̄▽ ̄;)
その利率は、月に4~6文と当時の平均的な金貸しの利率とほぼ同じで、年利だと48~72%というブラック金融だったのです。こんなあくどい事をお坊さんがやっていたとは、今からは想像できません。
そうかな〜?
西洋ではユダヤがキリスト教と高利貸を運営しているよね。( ̄▽ ̄;)
しかも、比叡山が金貸しになったのは祠堂銭の為ではありません。それは、平安時代にまで遡るのです。
比叡山に鎮座した日吉大社は、最澄が比叡山を開いた時の地主神とした神社ですが、この日吉大社が平安時代に私出挙しすいこというのを開始します。
出挙というのは、元々、国が貧しい農民に種籾(たねもみ)を貸し付けて収穫の時に利息と共に返却させる一種の救貧制度で、低利による融資でした。
ところが、これに目をつけた貴族や豪族が、国と関係なく私出挙として高い利率で貧農に種籾を貸し付け始めたのです。
低利じゃないしな・・高利を決めたのは天皇・朝廷。・・・全ての豆知識ブログに言えることだが、天皇の闇を誤魔化しているなと思い調べ始めたんだ。
リンク リンク (;´Д`)
WEB記事の99%は、種籾(たねもみ)を貸し付けることを善意だと無理やり定義する。貸し付けて利子を取っては絶対ダメだ。そもそも種もみは民のもの・・利子を始めたこと自体が罠に嵌めている。律令政治は権力者の富のために無理やり民を働かせる奴隷にするための手法だ。そもそも税金で利子の金融業するか?(;´Д`)
現代で言えば、低利ないし無償だった奨学金の審査が厳しいのに目をつけ、色々な金融機関が大学生に奨学金モドキの名目でお金を高利率で貸すようになったみたいなもんですね。
いつでも立場が弱い人は(天皇・朝廷などに)食い物にされてしまうものです。日吉大社も、私出挙で暴利をむさぼり、どんどん富を蓄えていきました。
日吉大社

お寺や神社の存在理由は、キリスト教と同じなんだもの・・・そうなるわな。(;´Д`)

京都にある土倉の8割が比叡山の持ち物
貨幣経済が発展すると、穀物ではなく直接、銭を貸し付ける借上(かしあげ)という仕事が登場します。平安後期から南北朝期にかけて、彼らは完全な高利貸しになっていました。
借上は、質草に取り上げた商品を土で壁を塗り固めた土倉どそうで保管していて、それが転じて高利貸しは土倉と呼ばれるようになります。
鎌倉時代の末には、京都にある335軒の土倉の中で実に8割280軒が延暦寺の支配下にあったと言われています。
土倉(どそう・とくら・つちくら)は、鎌倉時代および室町時代の金融業者。現在の質屋のように物品を質草として担保とし、その質草に相当する金額の金銭を高利で貸与した。
⭕️金満確認(;・∀・)

民から搾取奴隷にするマインドにするのにのに役立つのだもの。それには金が来る。(;・∀・)
⭕️でっ、本当に民を幸せにする味方の神の神社はこれだろ?
延暦寺の土倉は「山門気風の土倉」と呼ばれ、時に徒党を組んで武装し債務者の家に押し込んで暴力的な取りたてに及びました。

近代仏教の最大の教祖、池田大作先生
日蓮は、この宗教体験を経典に照らして確認し、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学することになった。遊学の中心は延暦寺で、滞在したのは比叡山横川の寂光院と伝えられる。

猖獗を極める比叡山の土倉に対し、室町幕府は1393年に土倉役を置いてそこから税金を取るようになり、土倉は幕府により一元管理されます。
猖獗(しょうけつ)=① 勢いがさかんで荒れ狂うこと。また、そのさま。
しかし飯のタネを奪われた延暦寺はこれに抗議、土倉に独自に課税しては幕府に禁止されるといういたちごっこを繰り返しました。
この争いも、1467年に応仁の乱で京都が焼けると、土倉も大半が焼失、延暦寺系の土倉もあらかた焼けてしまい、金貸しの比叡山も手を引かざるを得なくなりました。
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。
明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。
背景
鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、相次ぐ戦乱の結果、力をつけてきた国人・商人・農民などの台頭によって、その既得権益を侵食されつつあった。
応仁の乱
その結果,将軍の権威はまったく失われ,幕府体制・荘園制は破壊されていった。また戦乱をのがれて地方に下った公家たちによって,文化の地方伝播がなされた。この乱以後を戦国時代と呼んでいる。
信長が比叡山を焼いた本当の理由は流通圏の奪取?
このようにアコギな金貸し業をしていた比叡山は庶民に恨まれました。
しかし、織田信長が比叡山を焼いた理由は、それだけではないようです。比叡山は、近江から北陸まで広大な所領を持ち、また琵琶湖の水運を握っていました。
延暦寺は、陸上と水上に無数の関所を置き、陸上運送業者の馬借ばしゃく、水上業者の問丸といまるもすべて比叡山山徒の支配を受けていたと「延暦寺の山僧と日吉社神人の活動」で豊田(よだたけし)氏が指摘しています。
豊田 武(とよだ たけし、1910年(明治43年)3月9日 - 1980年(昭和55年)3月29日)は、日本の歴史学者。東北大学名誉教授。日本中世史専攻。1955年「中世日本商業史の研究」で文学博士(東京大学)。1973年定年退官、東北大学名誉教授、法政大学教授。著作集全8巻がある。正四位勲三等旭日中綬章!
⭕️エライ学者は御用学者、ダメでしょ!( ̄▽ ̄;)
日本の天皇の闇を暴こうと言うのに、日本から勲章もらっている人の話きいてどうするの?!
叙勲は、国や公共への功績を上げた各界各層の70歳以上の方に対して贈られます。リンク
正四位(しょうしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位は律令制下においては上下に分けられ、従三位の下、従四位の上に位する。
位階(いかい)とは、国家の制度に基づく個人の序列の標示である。基本的には地位、身分の序列、等級といった意味である。制度としての「位階」は、元は古代中国の政治行政制度である律令制や、それを継受した国における官僚・官吏の序列の標示(身分制度)である。
神階(しんかい)または神位(しんい)は、日本において神道の神に授けられた位階。
一方の織田信長も、尾張から京都間の陸路と海路を抑えて流通を活発にし、国を豊かにする政策を敷いていました。
信長にとって、近江から北陸に繋がる流通を握る比叡山は、完全な商売敵であり滅ぼさないにしても利権を奪う必要がある相手だったのです。
この定義がweb中〜〜横行しているんだ!( ̄▽ ̄;)
明智光秀は史実では比叡山の焼き討ちに積極的だったそうですが、その後、光秀が近江坂本を居城とするのとそれは無関係ではありません。
つまり、比叡山は経済観念に聡さとく、信長のビジネスモデルを阻害するからこそ焼き討ちされてしまったのですね。
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
あらゆる暴力に反対し、金銭に淡泊な人々のイメージのお坊さんですが、平安から戦国にかけての延暦寺は、バリバリの武闘派で金貸しで流通を握る商社で戦国大名顔負けの巨大勢力でした。
そして、経済に聡い延暦寺が同じく、経済に明るい信長と衝突した時、それは流血を避けられない事態を呼ばずにはいられなかったのです。
⭕️と、世間はこのように考えなさいとしつけられている。与えられた定義。豊臣秀吉の第六天神社廃止も、この信長の利権目当ての話も、まともな説明はないのだ・・・。
でっ、検索すればこうなっている。(;´Д`)
マスメディアは99.99%プロパガンダでありNHKは100%なんだ。
NHKの良心は天気予報しかない。外れるけど・・・(;´Д`)
マスメディアが全てウソだと気づいてから本当の探求の始まりだ。
織田信長が狙った巨大利権 『NHK』!
2021年6月20日(日)放送の<DJ日本史>は、『天下人が狙った巨大利権』というテーマでお届けしました。
戦国時代の覇者・織田信長が狙った巨大利権について見ていきましょう。
織田信長は、京都の北東にある比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)というお寺を1571年に焼き討ちにしていますよね。
実は、この事件には巨大利権が関係しています。
当時の比叡山延暦寺は日本有数のお金持ちでばく大な利権を持った、今で言う大財閥のような存在でした。信長が狙った比叡山の利権とはどんなものだったのでしょうか?
比叡山延暦寺の巨大利権、1つは、広大な領地でした。
平安時代に創建されて以来、朝廷とつながりが深かった延暦寺は、琵琶湖(びわこ)の周辺や北陸地方一帯に広く豊かな土地を持っていました。
延暦寺が持っていた利権2つ目は、琵琶湖周辺の関所で徴収した税。
当時、日本各地から京都に持ち込まれる大量の物資は、船で琵琶湖を渡って運ばれていました。
琵琶湖はいわば物流の大動脈だったのです。
延暦寺は、そんな琵琶湖の周辺に11か所の関所を設けて通行料を徴収していたのです。
延暦寺の利権3つ目は、高利貸しで得られる収益。
延暦寺は元々貧しい農民に稲の種もみを貸していたのですが、これが時が経つにつれて変化。
大規模な高利貸しを営むようになっていきました。
利息は、なんと年100パーセント以上!
それはマジか?利権だとイメージつけるために盛っている??(;・∀・)
今では考えられない高い利息でばく大な利益を上げていました。
こうした延暦寺の巨大利権を、織田信長は焼き討ちによって手に入れます。
領地は没収。物流の大動脈・琵琶湖一帯も支配下に置きます。
特に比叡山の麓にある重要な拠点・坂本という場所にはお気に入りの家臣・明智光秀を送り込んで、城を築かせました。
こうして巨大利権を手に入れた織田信長。
天下統一の大事業をますます加速化させていくのです。
松村邦洋・堀口茉純 信長が狙った利権について語る!
※下記の再生ボタンからお聞きいただけます(2021年9月13日まで)。
DJ日本史「天下人が狙った巨大利権」①
プロパガンダ作家・司馬遼太郎先生の代表作
『国盗り物語』
プロパガンダ作家だけど面白い。流石に才能あるなぁ〜と紹介( ̄▽ ̄;)
信長vs光秀の鬼気迫る遣り取り(問答)が書かれている場面があります。その中で、光秀が『古き世から伝わるもの大切にせよ』や『仏には罪は無い』などと必死に言上しますが、対して信長は以下のような事を光秀に毅然とした態度で言い放っています。
・『(仏とは)金属(かね)と木で造ったものぞな』
・『古きばけものども(筆者注:比叡山延暦寺)を叩きこわし摺り潰して新しい世を招きよせることこそ、この弾正忠(信長)の大仕事である。そのためには仏も死ね』

⭕️『古き化物どもの比叡山延暦寺を叩きこわし摺り潰して、新しい世を招きよせることこそ、この信長の大仕事である。そのためには仏も死ね』⭕️
信長の行動原理はこうなんじゃないの?( ̄▽ ̄;)
世間の信長の比叡山焼き討ちの情報ソースは
「言継卿記」と「信長公記」
言継卿記
戦国時代の記録。原本37冊。権大納言(ごんだいなごん)山科(やましな)言継の日記で、記事は1527~76年に及ぶ。山科家は内蔵寮頭(くらりょうのかみ)を世襲し、楽所(がくしょ)・御服所(ごふくしょ)の別当を兼ねていた関係で、記事は皇室経済、有職故実(ゆうそくこじつ)、服飾関係に富み、また後奈良・正親町両天皇の信任が厚くーー。
権大納言=大納言の権官。定員外の大納言。ごんのだいなごん。
大納言=令制の太政官の官職名。大臣に次ぐ身分で、大臣、中納言らと律令国家の政務運営に当たった。
山科家=藤原北家の四条流。
言継(いいつぐ)=① 言い伝える。語り続ける。語り伝える。
山科言継=戦国時代の公卿。永正17(1520)年元服して内蔵頭となり、天文6(1537)年従三位、同7年参議,同13年に権中納言、永禄12(1569)年には山科家ではじめて権大納言となり、天正2(1574)年に正二位となった。山科家世襲の内蔵頭の職掌上、朝廷に御服を調進しーー
公卿= 公こうと卿けいの総称。公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。
朝官(ちょうかん)= 朝廷に仕える官人。役人。
⭕️天皇・朝廷・比叡山の延暦寺VS信長だから。片方だけの主張鵜呑みにしてどうするの?⭕️
信長公記
安土桃山時代、太田資房 (すけふさ) (牛一)の著した織田信長の伝記
「のぶながこうき」とも読む。別名『安土記』。1600年ころ完成。16巻。信長に仕えて戦功のあった太田資房が、信長の入洛以前を首巻とし、1568年から、82年本能寺の変まで1年1巻、月日をおって信長の事歴を記述した好史料。
太田資房=(おおた すけきよ)・・・ウィキペディアでは抽象的に沢山褒められている。
法号は道真(どうしん)。
法号= 仏語。① 出家したとき、師が授ける名前。出家した人の本名。法名。法諱。戒名。1 仏門に入った者に授けられる名。法名。
史上初めての織田信長の一代記。牛一が奥書で「故意に削除したものはなく、創作もしていない。これが偽りであれば神罰を受けるであろう」と記しているように、著述姿勢は真摯であり(中略)研究者の間でも信憑性は他の軍記物と一線を画していると評価されており、一次史料に準じた評価を受けている。

神に誓って民を騙してから嘘をつくのが支配者の手口&伝統で、それも皇祖神とされる天照大神は『虚言ヲ仰ラルゝ神』であるとして、一時期の関東では、民から起請文などの誓いの対象から外されるといった現象が起こった。
嘘付きの神様に誓ってどうするのって・・・。
著述姿勢は真摯とか研究者の間でも信憑性が一線を画していると言っても、今までの研究者が答え出せないからシロウトが調べる羽目になっているんだよ・・・で、学者はインフルエンサーだ。少数の真面目な学者はPDFで自身の書をばら撒いている始末・・・。
悪魔「第六天魔王」が、宇佐八幡宮に祀られ、「八幡神」に退治されるという物語がある。八幡神は、神通の弓と『方便の矢』をもって滅ぼすという。

これは元祖『方便の矢』使い手の宣言をした『応神天皇』リンク
信長の比叡山焼き討ち時の天台座主は『覚恕法親王』
覚恕法親王(かくじょほうしんのう)~正親町天皇の異母弟、比叡山焼き討ちの時の天台座主。
天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。
織田信長による比叡山焼討ちの際には覚恕法親王は、比叡山にいなかったために難を逃れた。
覚恕(かくじょ)とは、日本の皇族。戦国時代の天台宗の僧。天台座主。父は後奈良天皇。母は壬生雅久の娘伊予局(三位局)、もしくは刑部卿和気親就の娘。
略歴
後柏原天皇の皇子知仁親王(後奈良天皇)の皇子として生まれる。
続柄 後奈良天皇皇子
皇子= 天皇の子。王子。

後奈良天皇・・・といえば民を殺しに来ている般若心経。
天台宗総本山
比叡山延暦寺(世界文化遺産)の歴史
比叡山には、平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)が建立した延暦寺があります。(滋賀県大津市、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院)日本天台宗の本山寺院です。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括しています。
織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしたことは有名ですが、その後、豊臣秀吉、徳川家光らが再興しています。
これも色々確認しなきゃいけないんだろうなぁ〜メンドクセエ!(;´Д`)
1994(平成6)年、1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受けユネスコ世界文化遺産に登録されました。
日本創世記の高利貸しの伝統。( ̄▽ ̄;)
世界遺産に登録されている比叡山延暦寺。平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった一度ぐらいは名前を目にしたことがある各宗派の開祖たちが比叡山で学んでいた。
比叡山延暦寺の歴史を簡単に年表で紹介
766年 (767年説も)。延暦寺の開祖・最澄が生まれる。
780年 最澄 近江国分寺・行表に出家をする。
785年 青年・最澄、郷里に近い比叡山に小堂を建て修行と経典研究に明け暮れる
785年 奈良の東大寺で正式の僧となるための戒律を授けられる、正式の僧となる
788年 最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立する。一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれた。
802年 最澄は短期留学として、唐に渡航することが認めらる。
804年 遣唐使船で唐に渡った最澄は、大陸で仏教をまなぶ。
805年 帰国した最澄は、天台宗を開く。
法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。
四種相承
最澄が入唐して円(天台)・密(真言)・禅・戒の四宗を相承し、これらの合一のうえに独特の天台宗をつくりあげたこと。

邪悪な仏教を日本に、ばら撒くことに多大な貢献をした最澄。法華経は聖徳太子が広め、天台仏教は鑑真が伝えましたが、最澄の入唐で大きく花開いたと言う事になります。767年、三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として、近江・坂本の生源寺で生まれたともされます。母の名は、藤子(唐うし?)ともされます。
他にもまだあるよね、
1435年 足利義教は、延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した
信長の比叡山焼き討ち は1571年。足利義教は1435年に延暦寺の有力僧を斬首。
でっ、検索するとコレだ・・・。

なるほど・・・・こうやって煙に巻き騙すのが『方便の矢』・・・(;´Д`)

こんな調べるの難しい謎、こんなに詳しい人が沢山いるわけないじゃない・・・(;´Д`)
延暦寺との抗争もともと天台座主であった義教は、還俗後すぐに弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図った。
だが、永享5年(1433年)7月19日に延暦寺山徒は幕府の山門奉行飯尾為種や、光聚院猷秀らに不正があったとして十二か条からなる弾劾訴訟を行った。満済や管領細川持之が融和策を唱えたため、閏7月7日に義教は為種や猷秀を配流することで事件を収めた。
弾劾=弾劾(だんがい)とは、身分保障された官職にある者を、義務違反や非行などの事由で、議会の訴追によって罷免し、処罰する手続き。
しかし、延暦寺山徒は勝訴の勢いにのり、8月12日には訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちする事件が起こる。義教は激怒し、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲した。これをみて12月12日に延暦寺側は降伏し、一旦和睦が成立した。
永享6年(1434年)7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れた。
⭕️歴史を検証しなければいけけないのに、天皇が正しいとの前提で各方面にレッテルを広めなければいけないんだね。⭕️
まだつづく(;´Д`)
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