【森の人類学#4-2】ありがとうも、ごめんなさいもいらない森の民「プナン」の世界観
この記事は、前回の続きになります。「ありがとう」を言わない理由は、後半で紐解いていきます。
イチジクの“魂はない”
筆者が奥野さんの本を読む前までは、アニミズムのイメージといえば「植物にも魂があるんでしょ?」というような理解でした。
奥野さんの『人類学者K』には、それを一気にほどく場面があります。
K(奥野さん)は絞め殺しイチジクを眺め、そこに「意志や志向性」を感じてしまう。そこで「魂はあるのか」と問うと、プナンに問うと返答は「ない」でした。
「じっと絞め殺しイチジクを眺めているとKには、地表に落とされたイチジクの種子が、意識や思考の原初形態のような、成長するための意志や志向性を持っているように感じられた。…Kは咄嗟に、イチジクには魂はあるのかと彼らに問うてみた。『ない』即答が返ってきた。締め殺しイチジクの大木を眺めながら、ウマイは、それは『髪の長い美しい女のカミ』だ…という。」
ここが決定的です。
「魂がある/ない」という二元論に乗らず、
それでも自然の働き(時間をかけて締め殺す力)を、
“カミ”という像として受け取る。
つまりアニミズムは、物理学の代わりに神話で説明することではなく、
人間中心の説明だけでは受け取りきれない“力”を
比喩と感受性で引き受ける
という回路でもあるように感じます。

結論:「世界を関係として見る」ための知覚の技術
ここまでの引用から、本稿の結論をまとめたいと思います。
アニミズムは、単純な「万物に魂がある」という教義ではない。
それは、世界をモノの集合ではなく、関係の網として捉える視座である。
森では、人間だけが主体ではなく、鳥・猿・人間のように関係が世界を立ち上げる。
前の記事でみたように、鳥の鳴き声は、人間に向けられた「サイン」ではない。それは同時に猿にも届き、猿の行動を変え、その結果として人間の狩猟の成否を左右する。世界を動かしているのは、誰か一人の意志ではなく、三者の関係そのものである。
アニミズムとは、こうした関係の網のなかに自分を置き、
「誰が主で、誰が従か」という序列ではなく、
「いま、どんな関係が結ばれているのか」を感じ取る知覚のあり方だと言えるのではないでしょうか。
それは信仰というよりも、世界をどう受け取るかという感覚の技術に近い。
人間を例外にせず、世界の一部として関係のなかに身を置く。
アニミズムが教えているのは、そんな「見方の転換」なのだと思います。

プナンが「ありがとう」を言わない理由
本のタイトルにもあるように、プナンの人びとには、「ありがとう」という感謝の言葉がないようです。
奥野さんは、理由を下記のように示しています。
「プナン語には何かをもらった時に相手にかける『ありがとう』という感謝の言葉がない。その代わりに、プナンは何か人からものを分け与えられた時に、たまに『ジアン・クネップ』と言う。直訳すれば『よい心がけ』という意味である。」
ここで大切なのは、感謝しない=無関心ではない、という点だと思います。
プナンが大切にしているのは、「誰かが上に立つ関係」をつくらないこと。
感謝の言葉は、ときに
与えた側
受け取った側
という上下関係を固定してしまう。
だから彼らは、感謝の代わりに「よい心がけだね」と、その行為そのものを認めます。
プナンが分かち合いにここまでこだわる理由も、とても実践的です。
「狩猟採集民であるプナンにとって、その場にいるすべての人たちに対して、自然からの恵みに頼って生き残るチャンスを広げるためなのだと思われます。『いま』分け与えておくと、『あと』で手元に何もない時に分け与えてもらうことができます。」
これは「いい人でいよう」という道徳ではなく、生き延びるための知恵のようです。
貸す・借りるではなく、最初から「みんなのもの」として分ける。
実際、狩猟で得た獲物は、誰が多く働いたか、誰が偉いかに関係なく、徹底して均等に分けられるようです。
「仕事の多寡や地位を見計らって、誰かに偏って分配することは、プナンの掟にはありません。…この世界に存在すると考えられるすべてのものを、プナンは平等かつ均等に分配します。」
「ありがとう」を言わない森の民の暮らしは、
私たちが当たり前だと思っている人間関係の形を、揺らしてくれます。

日本の「ありがとう」
現代の日本で「ありがとう」のない贈与は人間関係の破綻を生むでしょう。
自分の生活を振り返ってみると、感謝されることが生きがいになっている。
「ありがとう」中毒とも言えるような自分の思考に気づきます。
仕事での助け合いや、家族や友人を手助けするのも。
「ありがとう」といわれるインセンティブを得たいためという、深層心理もあるのかも?
ありがとう。は単なる言葉ではなく。
その甘い蜜のような存在は、深く深くわたしたちの行動を支配しているようにも感じます。
ふと、縄文時代の人びとはどうだったのだろう、と疑問に思いました。
彼らは「ありがとう」と言っていただろうか?言ってなさそうだな多分。
じゃあ、感謝という感情や言葉は、いつ生まれたのか。
有り難みを意識するようになったのは、神と人とのあいだに上下関係が生まれた時なのか。それとも、仏教的な倫理の中で育まれてきたものなのか。
「有難し」から「ありがとう」になったっていうのが定説ですよね。
しばらくのあいだ、奥野さんがプナンの価値観を通して投げかけてきた問いと、そこから生まれた新たな疑問を考え続けることになりそうです。
これこそ、読書の醍醐味でもあるように感じます。
