逃げたらあかん
夕食時のジムのプールはすいている。
誰とも話したくない。
目も合わせたくない。
そんな気分だったので
その時間を選んだ。
〈よし、やっぱりすいている、よかった〉
プールの水は、私の重くだるい体を
やさしく包んでくれて
気持ちよかった。
すると背後に
いつもよく見かける
85歳のニコニコしたおばあちゃん。
「あら、あなたも今日は遅いのね」
「今日はビート板しないの?」
「頑張ってみ」
笑っている。
「今日はちょっと……」
「逃げたらあかん、やってみ」
仕方なく、ビート板を取りにいって
泳ぐコースに入った。
私にとっての25mは
あひるのおもちゃが浮いてるように
感じる距離だ。
勢いよく壁を蹴った。
パチャ、パチャ、パチャ
……進まない。
ほぼ止まっている。
ボコボコしたロープは、
黙ったまま目盛りになっていた。
「進まないんで、嫌なんです」
「進んでるよ、ちょっとづつ」
おばあちゃんも
トレーニングに来ているのに
横についていてくれる。
5分近くかかって
やっと25mのところについた。
へとへとだった。
「ちゃんと25mいけたやん」
ボコボコしたロープをくぐって
私のレーンに入ってきた。
「足の向きがおかしいねん、こうして」
56歳が85歳のおばあちゃんに
ばた足を教えてもらっている。
腰も曲がっていて、
膝も痛そうなのに。
眩しいくらい明るい笑顔だった。
「はい、あと25mがんばってみ」
「もう、ちょっと……」
「逃げたらあかん、今度は進むから!絶対!」
私は、もう一度壁を蹴った。
「え?進んでる!!」
今までとまるで違う。
止まっていない。
ちゃんと進んでいる。
遅いけど。
おばあちゃんがゆっくり歩く
スピードで25mを泳ぎ切った。
「あんた、なんで泣いてんの?」
おばあちゃんは笑う。
私は答えられなかった。
「あんた!涙はええけど、
鼻水がプールの水に入るやん」
「次はクロール教えてあげるわな」
「いや、顔つけるの怖いんで」
「だから逃げたらあかんって」
二人で大笑いした。
