嘘臭い話
自宅という最も心休まるべき場所で、心臓が止まりそうになるとは思わなかった。何者かに顔面を殴られたのである。何者か、というのは殴ってきた相手を視認できず、ただただ頬にその感触だけが残っていたことを意味する。突然のことに驚きすぎて「うわああああ」と叫んだが、それに驚いてくれる人も助けてくれる人も誰もいない。「叫んでも一人」である。
気配の答えを探してキョロキョロしていると、寒気のする羽音が聴こえた。「ぶうぅぅいぃん」という音の出所を辿ると、ちいさな緑の生き物が部屋を縦横無尽にとんでいる。しばらく眺めているうちに、彼は天井の蛍光灯の横に居を構えた。小さすぎて表情はわからないが、何となくこちらに視線を送っているような、目が合っているような気がする。
ゆっくり近づくと正体がわかった。カメムシだった。あの臭い臭い虫。私の知っているカメムシは地味な茶色だが、彼はアマガエルのようなきれいな緑色をしていた。その美しさにしっかり目を奪われそうになったものの、彼こそが私を殴りつけた通り魔であることを理解してからはその緑がやけに禍々しく見えた。
カメムシが私の顔面に渾身の捨て身タックルを仕掛けてきたことは驚いたが、おそらく彼に悪意はなかった。それは私も同じで、たかが顔を殴られた程度でいちいちことを荒立てる男ではない。アースジェットで楽に葬ってやろう。
私は「大丈夫。痛くしないからね。大丈夫だからね。」とサイコパスのようなセリフを吐きながら、ゆっくりとカメムシに近づいていく。愛するあまりに殺してしまう異常な愛情を自分でも制御できないようなおぞましさを自覚しながら、彼との距離を次第に詰めていく。彼も心を許したかのように動きをとめ、蛍光灯の横でじっと私を待っていた。
そっとアースジェットを手に持ち、射程圏内に入ったところでふと考える。
思えばカメムシも可哀想な存在である。彼らにとっては、臭くなることが自らの命を守る唯一の生存戦略であった。精一杯臭くならねば、生きられなかった。どれだけ否定されようと、どれだけ忌み嫌われようと、そうやって生きてきた。ライオンのような力と強さなど持ち合わせていない彼らの生き様に思いを馳せる。カメムシは単に臭いわけではない。強いて言えば、誰よりも泥臭い生き方をしてきた。
思えば彼が私の顔面に飛び込んできたことも、元を正せば「生きたい」という強い思いに他ならない。これだけ懸命に生きようとしたことが私にはあっただろうか?辛いことから逃げ、壁から目を背け、どうせ無理だと弱音を吐いて、諦めてきた人生じゃないか?このカメムシはどうだ。こんなにも生きようとしている。それを人間のエゴ一つで終わらせてしまってもいいのか?
「大丈夫。本当に殺さない。殺さないから。」
そう言いながら、再度彼を見上げる。その緑色は決して禍々しくなどはない。光に照らされたエメラルドのようだ。気がつけば、私はアースジェットを柔らかいティッシュに持ち替えていた。無音の自室ではあったが、脳内には完全に「らいおんハート」が流れている。古臭いラブソングだ。
「君を守るため、そのために生まれてきたんだ」
カメムシ以上に臭いセリフかもしれない。照れ臭い気持ちを隠しながら。ティッシュを目一杯掲げ、背伸びをする。さあ、この中に包まれておくれ。そっと外に逃してあげるから。そばにおいで。
「呆れるほどに、そうさそばにいてあげる」
胡散臭いかな?早くこっちにおいでよ。水臭いじゃないか。懸命に伸ばした右手が今にも届こうかとしたまさにその瞬間、それまでじっとしていたカメムシが私を目掛けて飛んできた。デジャブのように「うわああああ」と叫ぶ私の顔面に再び体当たりした彼は、しばらく部屋を飛び回った挙句、もう一度蛍光灯の横へ舞い戻った。
心臓のバクバク音に促されるように私は素早くアースジェットを持ち、無表情でカメムシに吹き付けた。体育の後の汗臭さを気にする女子の8×4のように、思い切り吹き付けた。天井から降りてくる人体に有害でしかない煙を浴びてもなお、遠のく意識の中でスプレーをひく手は止めなかった。止めてはいけなかった。
ポトリと床に落ちてきた"それ"は、ピクピクと足を痙攣させていたが、眠っているようにも見えた。面倒臭いことは嫌いだ。私はそっとティッシュで包み、玄関ドアを開けて雑に外へ追いやった。私の心臓はまだドキドキと震えていた。
「眠った横顔(カメムシ) 震えるその胸(私) らいおんハート」
これが25年前の曲だと知って、もう一度私の胸は震えている。
カメムシが放った悪臭とアースジェットのケミカルな匂いが混じり合い、意図せず蘇った青臭い青春の残り香が、いつまでも私を包んでいる気がした。
