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翳のグラデーション(20)フラクタル構造 (Fractal Structure)

第0章 金曜の夜
明日、カンジと明治村に行く。

仕事だ。
……仕事のはずなのに、胸の奥が落ち着かない。

眠れない理由を、仕事のせいにした。
でも、本当は違う気がしていた。

日帰りなら、新幹線で三時間。
滞在は短い。
泊まりなら——。

のぞみは、天井を見つめた。

「ぬおーーーーーーー」

目が、ギンギンに冴えている。

スマホを開き、反射的にさわにLINEを送った。

「眠れない」

既読。すぐに返信が来た。

「どうしたの」

「明日、出張で」

「ん、出張で眠れないの?」

ヤバい。

「愛知。帝国ホテルの旧館を見てくる。仕事」

少し間があった。

ヤバい、ヤバい。

「誰と?」

のぞみの指が止まった。
終わった。
これ以上逃れられない。

「カンジくんと」

間があった。
いつもより、長い間だった。

「カンジくんとデート?」

「ちがう、仕事」

「ふうん」

「ほんとに仕事」

「泊まり?」

のぞみの心臓が跳ねた。
もう観念した。

「わからん。確認してない」

「はあ?」

「どういうこと?」

のぞみは、スマホを握った。
追い詰められている。
最後のカードを切る。

「三上も来る」

「三上さんも行くの?」

「うん」

嘘が、一つ増えた。

「じゃあ、わたしも行く」

のぞみは、スマホを見た。

「え」

「三上さんも行くなら、わたしも行く。楽しそう。行く」

三上にLINEを送った。

「明日、明治村行くんだけど」

「おまえも来い。さわさんも来る」

既読。

「絶対行く」

スルー。

グループLINEが鳴った。
さわからだった。

「みなさん、明日、明治村に泊まりに行きましょう!集合場所はーー」

のぞみは、スマホを伏せた。
布団をかぶった。

「ぬおーーーーーーーーーーーーーーー」

第1章 相談
カンジは、図面の前で手を止めていた。

何度も、描き直した。
光のカーテン。
歩くたびに、開いていく光。
でも、どうやって「開く」を建築にするのか。

机の端に、のぞみのスケッチのコピーがある。
駐車場から山まで、一本の線。
その線の中に、自分の光を、どう重ねるか。

まだ、答えになりきらない。
でも、離れられなかった。

カンジは、小田切のデスクの前に立っていた。

「小田切さん、少し……いいですか」

「何だ」

「『光のカーテン』を、どう形にすればいいか——」

小田切は、コーヒーを一口飲んだ。

「隣に先生がいる。だが——」

少し、間があった。

「まず、自分の好きな建物を想像してみろ。そして、その理由を考えろ」

カンジは、少し考えた。

「帝国ホテル……です」

高見沢が、小さくため息をついた。

「のぞみと、見てきなさい」

カンジが、顔を上げた。

「え、いいんですか」

「なんなら、泊まりでもいいわよ」

それだけ言って、歩いていった。

カンジは、固まった。
のぞみと——。
高見沢部長のネタになる未来しか見えない。
それだけで、少し疲れた。
でも、嫌ではなかった。

第2章 明治村
週末。

のぞみとカンジは、明治村にいた。
旧帝国ホテル中央玄関。
ライトが設計した、あの建築の断片。

のぞみは、初めてだった。
カンジは、学生の頃に一度だけ来ている。

「来たこと、あるんですか」

「……一度だけ」

カンジは、少しだけ懐かしそうに見上げた。

「その時、思ったんです。いつか、この造形の理由を知りたいって」

のぞみは、その横顔を見た。
何も言わなかった。
でも、少しだけ、目を細めた。

そこへ、三上とさわが追いついた。
三上は、大谷石の壁を触った。

「これ、全部手で積んだんですよね……」

さわは、光の入り方を確かめるように、何度も角度を変えて写真を撮っていた。

「石の色、光で全然違う……」

のぞみは、二人の様子を横目で見た。
カンジは、建物の奥を見ていた。

四人は同じ場所に立っているのに、見ているものが、まったく違った。

入口の天井は低い。手を伸ばせば触れそうなほど。

カンジは、息を吸った。

「……この圧縮、覚えてます」

のぞみは、天井を見上げた。

「低いのに、怖くないですね」

さわは、肩をすくめた。

「なんか、飲み込まれそう」

三上は、照度を測るように目を細めた。

「暗いのに、落ち着くな……」

四人の「圧縮の受け取り方」が、全部違った。

そのまま奥へ進むと、ふっと抜けた。
光が、上から、横から、斜めから落ちてくる。
空間が、呼吸していた。

カンジは、立ち止まった。

「……これだ」

のぞみは、光の粒を目で追った。

「きれい……」

さわは、思わず息を飲んだ。

「こんなに明るいんだ……」

三上は、吹き抜けの梁を見上げた。

「構造、どうなってんだこれ」

同じ光なのに、四人の「光の意味」が全部違った。

カンジの視線が、壁で止まった。
テラコッタの装飾ブロック。
幾何学の彫り込み。
その奥に、小さな空洞。
そこを通った光が、隣へ漏れる。

「帝国ホテルといえば……これ、だよね」

のぞみが、隣に立った。
肩が、わずかに近い。

三上は、少し離れた位置から光の反射を見ていた。
さわは、二人の距離を見ていた。

のぞみは、光を見ていた。
カンジは、構造を見ていた。

さわは、二人を見ていた。
三上は、光の跳ね方を見ていた。

視線が交わらない。
でも、同じ光の中にいた。

第3章 光籠
カンジは、手帳を開いた。

のぞみは、自然に覗き込んだ。
肩が触れそうで、触れない距離。

三上は、手帳の線を見ていた。

「……これ、連鎖してるのか」

さわは、その距離を見ていた。
胸の奥が、少しだけ冷たくなった。

カンジの線は、迷いなく伸びていく。
のぞみの影が、その線に重なる。

三上は、光籠の空洞を覗き込んだ。

「光、跳ねてますね……行燈モチーフ……」

さわは、光よりも、二人の影の重なりのほうが気になっていた。

第3.5章 のぞみの光
のぞみは、カンジの手帳を覗き込んだまま、しばらく動けなかった。

線が、迷いなく伸びていく。
空洞。
反射。
連鎖。

さっきまで答えを探して止まっていた手が、今は建物の奥へ、奥へと潜っていく。
その変化を、こんな近くで見ていられることが、うれしかった。

明治村へ来てよかった。
そう思ったのは、建築のためだけではない気がした。

隣に立つ距離が近い。
肩が、触れそうで触れない。
でも、その曖昧さが、不思議と心地よかった。

光籠の小さな空洞から漏れた光が、カンジの横顔に落ちている。
真剣な目だった。

のぞみは、その横顔から目を離せなかった。

——この人、本当に建築が好きなんだ。

当たり前のことなのに、その当たり前が、胸の奥に残った。

カンジの線は、いつもまっすぐだ。
迷っていても、最後には光のほうへ向かっていく。
その線を見ていると、自分の中の線まで、素直になる気がした。

もし今、もう少しだけ近づいたら。
肩が触れるだろうか。

そんなことを考えた自分に、のぞみは小さく息を飲んだ。

のぞみは、そっとスケッチブックを抱き直した。

この人の光に、自分の線を重ねたい。
建築として。

……それだけじゃなく。

まだ言葉にならない気持ちが、光の粒みたいに胸の奥で反射していた。

第4章 帰還
現場に戻る。

カンジは、阿部に図面を見せた。

「光籠を、現代版にアレンジします。ポーラスブロックで」

阿部は、図面を見た。

「ライトの、あれか」

「はい」

カンジは、図面の断面を指でなぞった。

「空洞を通る光が、隣へ移る。歩く人の位置で、反射が変わる」

さらに、線を示した。

「これを、まずはエントランスのガラス壁の両袖に配置します」

阿部は、しばらく黙って見ていた。

「悪くない」

それだけだった。

でも、カンジには十分だった。
のぞみの言葉と、明治村の光が、図面の中でひとつになり始めていた。

第5章 さわの視点
さわは、少し離れた場所からカンジの背中を見ていた。

彼の光は、もう建物全体を包み始めている。
自分の花壇は、その中に置かれる一粒だ。

——私は、その中に立てるのだろうか。

スケッチブックを開く。
のぞみの線が、まだ挟まっている。

二人で見に行った。
誰に聞いたわけでもない。
でも、わかった。
わかってしまった。

胸の奥が、少しだけ冷たかった。
嫉妬ではない。
そう言い切るには、少しだけ痛い。
でも、その冷たさの名前は、まだわからない。

さわは、自分の指先を見た。

ここに、自分の線はあるだろうか。
のぞみの線でもない。カンジの光でもない。

自分の線を、引きたい。

強く思った。
でも、まだ見えない。
その見えなさが、悔しかった。

第6章 夜
夜。

カンジは、ロビーに一人で残っていた。

カーテンウォールの向こうに、月がある。
手帳を開く。

ポーラスブロック。
空洞。
反射。
連鎖。

一つの光の粒が、次の粒を呼ぶ。
その繰り返しが、全体をつくる。

部分が、全体になる。
全体が、また部分に宿る。

フラクタル。

カンジは、小さく書いた。

光籠——光の粒の連鎖。

この連鎖を、どうやって歩く体験に変えるのか。
その答えは、まだ少し先にある。

——もう少しで。

ふと、明治村で隣に立ったのぞみの気配が、よぎった。
あの時、光を見ていた横顔。

「来てよかったですね」

その一言。

建築の答えとは別の何かが、わずかに胸に残っている。
まだ、名前はつかない。でも、消えなかった。

親父の背中の、その輪郭ぐらいは見える気がした。
その少し手前に、もうひとつ別の輪郭も。

気のせいでは、ない気がした。

でも、消えてほしくなかった。

※フラクタル構造 (Fractal Structure)——部分と全体が自己相似でつながる構造。一つの光の粒の反射が、次の粒を呼び、その連鎖が空間全体の体験をつくる。万華鏡の原理が、そのまま建築になる瞬間。

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