短編小説「卯月、弦月」
最後の夜にもらった楓さんからの手土産は大量の生姜だった。
「こんな遅い時間にごめんなさいね。これ、私の田舎で採れるの。使って」
土だらけの立派な生姜は、厚い紙袋に入っていてもゴツゴツと逞しい手ざわりを感じる。
上がって少し話しませんか、と誘ったけれど楓さんは首を振った。
「犬達も一緒なの。今から高速にのって・・・向こうに着くまで結構かかるからもう行くわ。ありがとう」
残念だけど、と私は頷くしかなかった。
見送りのためにスニーカーを履く。上がり框で俯いた瞬間、猛烈な淋しさがこみ上げた。
星が静かに瞬く穏やかな四月の夜だった。二人で肩を並べて坂道を下った。見慣れた黒い軽自動車が月光に縁取られ、道路脇にポツンと停められている。
後部座席の窓ガラスが少し下げられていた。
飼い主の気配を敏感に感じ取った二匹の犬が、鼻を鳴らしながら起き上がるのが見えた。
『空き家を再生利活用するワークショップ』なるものに興味本位で参加したのが楓さんとの出会いだ。もう十数年前のことになる。
私の家と程近い集落に楓さんのパートナーの実家があり、二人は以前も暮らしていたその大きな家で再び生活を始めるため、二匹の愛犬を連れて戻って来たところだった。
この十年は信州に移住していたという。私が実家を出て余所で働いた年月と、二人のこれまでの時間は丸々重なっていた。一面識もなかった由だ。
初対面の日から間を置かず、私は楓さんを家に招いた。楓さんは来るたび色々な手土産を持って来た。家に大量に常備しているというさまざまな袋菓子の他に、漬物や龍の焼き物、ある時は鬼クルミの苗木まで掘り上げて持って来た。私は困ってそれを父に託した。大きく育つあの木をどこに植えようか、父は相当頭を悩ませていたっけ。
美味しい野菜や奇妙な夢、野生動物。こうして出会う前までのお互いが過ごしていた時間について。二人で話せばどんな些細な話題でも、これを前から話したかったんだ!という気分になった。
そしてアウシュヴィッツ、その単語が同時に口から出たこともある。アウシュヴィッツとは全く無関係の話をしていたのにだ。
わ!と私は叫び、楓さんはポカンとしていた。
私たちはまるで、待ち焦がれた末に再会を果たした親友のようだった。
無論、自分自身の人生について考える時、さまざまな迷いや悩みと無縁ではいられない。当時の私は過ちとは思いたくない恋愛をしていたし、楓さんは楓さんで、パートナーとの間に繊細かつシビアな葛藤を抱えて生きていた。
私たちの出会いから六年が過ぎた頃。
別れの夜の一年ほど前から、楓さんは熊本の実家に一人で帰省することが多くなっていた。
楓さんのパートナーは聡明で温厚な人だったけれど、社会との一切の接触を突如絶ち、孤の世界に籠る時間が必要になる人、でもあった。一旦そうなってしまえば共に暮らす楓さんでも会話は愚か、顔を見ることすら出来なくなる。彼の生活圏は布団の中だけとなり、食事は常に袋菓子。それは毎年の約束事のように繰り返され、数か月、長い時には半年にも及ぶのだった。
負のループから抜け出すために、二人は信頼出来るクリニックを探し長く通った。見知らぬ土地に移住もした。人とは違い無条件に愛せる、二匹の忠実な犬を求めた。そしてもう一度、幸福な思い出だけではなかったあの家に戻って来た。
パートナーと楓さんは、そうして姿の見えない何かと向き合い、闘い、時には共存して生きていこうとしていた。「いつか見えてくるかもしれない光」を、幾度も信じようとしていた。
満月で居続けることはできない。目に映る輝きは次第に減り、半身になり、そしてすべてを暗闇が支配する。やがて少しずつ、また再び光を取り戻す。人生も似ている。その繰り返しを生きるのだ。
「仕事がやっと決まったの。特養ホームなんだけど。そこね、私と同じ名前なのよ。笑っちゃうけど、これも運命かもね」
「彼、『応援するよ』ですって。あの言葉がお餞別のつもりね、きっと」
目の前の笑顔が生まれるまでに、どれだけの時間が必要だったろう。
あの夜の楓さんは月齢五日程の月の下で、既に晴れやかに冴え渡る弦月そのものだった。
「また会えるでしょう?」
今はいつって言えないけど。前置きして楓さんは答えた。
「きっと会おうね」
その声をお守りみたいに胸にしまった瞬間、無意識のうちに言葉がこぼれた。
楓さん大好き。
私たちは初めてハグをして、少しだけ泣いた。犬達は出発を静かに待っていた。楓さんを守ってね、と窓から手を差し入れる。熱い舌が指先を遠慮がちに舐めた。
軽快に走り去っていく車をいつまでも見送った、あの夜。
あの夜の月は確かに優しかったけれど。
またね。じゃあね。
いつもの言葉で別れてから九年目の春が来る。
鬼クルミの木が枯れたことを、楓さんは永遠に知らない。
[了]
※本文1996文字
この作品は花澤薫様の文学賞「すべて失われる者たち文芸賞」に参加しています。
