理解はできなくても、知りたいのだ。
本を読んでいる時、人の話を聞いている時、「そうなんだよ!」と、膝を打ちたくなるような、昂揚した気持ちになる事がある。
それは、自分の内側にあるモヤモヤが言葉になり、ストンと腑に落ちるからだ。
そして、同じような考えを持っている人に出会えた嬉しさ、”自分だけじゃないんだ”と少し心が軽くなるような安堵感を得られるからだ。
今日のそれは、通勤のお供になっているCOTEN RADIOの番外編を聞いていた時だった。
そこで語られていたのは、「人のことを知るのは難しく、とても時間がかかる」ということ。
そして、「どんなに時間をかけても、その人のことを本当に理解することはできない」ということ。
それでも、「大切なことは、その人を理解すること自体ではなく、理解しようとする姿勢である」ということ。
こう聞くと、諦めのように感じるだろうか? どこか淋しく響くだろうか?
自分には、それは他者への敬意のように感じられた。
たとえ完全には理解できなくても知ろうとすることは、その人に手を差し伸べようとする真摯なあり方だと思う。
その人を”理解できた”と思うことは、自分の認識の枠組みの中に相手を押し込めているだけだと思う。
認識の枠組みは人それぞれのバイアスでしかなく、そもそも自分のことさえよく分からないのに、他者を理解できると思うのは傲慢だろう。
たとえそれがパートナーであろうと、子であろうと、肉親であろうと。
勝手に解釈し、判断することは、その相手にとっても息苦しいだろう。誰も、他者が作った枠組みに押し込められたくはないはずだ。
それでもなお、決して理解しきれないその人を少しでも知ろうとすることが、人と人を繋ぐのだと思う。
「理解した」と言うことが、相手を自分の認識の枠組みに押し込めることだとしたら、「知ろうとする」ことは、相手に手を差し伸べ、寄り添うことだからだ。
自分の肌感の経験に照らしてもそうだ。「君のことを理解している」と言われると息苦しい。
でも「君のことは理解できない」と諦められると、虚しさで胸の空気が抜けるような心持ちになる。
土足で踏み込まれるのも、越えられない壁を作られるのも苦しいのだ。
でも、「君のことを知りたい」と、差し伸べてくれた手は、温かい気持ちで受け取りたくなる。
だから、「100%理解することはできなくても、少しでもあなたのことを知りたい。」と手を差し伸べることが大切なのだと思う。
この考え方は、少し前に読んだブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』にも通ずることだ。
人のことを”理解した”と分かったつもりになることも、”理解できない”と諦めて線を引くことも、たぶん根っこは同じことだ。
それは、他者を自分視点で単純化して、整理して判断することなのだと思う。それは一方的なあり方だ。
でも、その他者も、自分と同じ一人の人間だ。そして人は鏡だ。
一方的なあり方の人に、心を開く人はいないだろう。
だから、自分もまた、他者に手を差し伸べられるようになりたい。他者を理解できるという傲慢さも、理解できないという諦めも捨てて、理解できなくても知ろうとする。その姿勢を大切にしたい。
