「人種」なんて本当は存在しない!?
「人種」という概念には固定的本質はなくて、人と人の関係で揺れ動く、人が作り上げた概念である、という主張の論文を読んだ。
前回の投稿「本質主義」とつながるが、
この著者は「人種」という概念の「普遍的な本質」は無いとしている。
この主張に基づくと、辞書のように
「人種とは~」と定義することは不可能のようにも感じられる。
自分なりに「人種」概念を考えてみると、「自分たちと違う人たち」を表す言葉の一つとして「人種」が使われているのではないかと思う。
人間同士、差異があるのは変えようもない事実であろう。
1人1人違いがあるはずだが、どこまでを「自分と同じ」「自分と違う」と判断するかは時と場合によって変わる。
話すときのテンポは同じか?といった小さなものから、食習慣は同じか?、自分の信じる神を信じているか(≒信じていないなら相手は神のご加護を受けていない)などなど規模の大きなものまで…
これが、論文の著者が、「人種」概念が「揺れ動く」と表現する理由の一つだと考える。
人間は、個人に対して「自分と違う」と判断するだけでなく、その判断を向けた個人たちを「自分と違う人たち」としてカテゴリー化する。
「自分と違う人たち」と判断した集団に対して、多くの人は少なからずネガティブな偏見を持つ。これが誰もが偏見や差別心があると言われるゆえんだろう。これは「内集団ひいき」という理論によって説明される。
その偏見は社会にどんどん感染していく。「自分と違う」と判断される外見的特徴を持つだけで、その偏見のフィルターを通して見られるようになる。
また悲しいことに、集団間には多くの場合、ヒエラルキーが発生する。そして、上位集団が下位集団への支配の正当化として、例えば、「人種」カテゴリーの文脈では、生物学的事実や宗教思想を用いたようだ。
個人レベルでは、「人種」という言葉は、「自分たちとは違うやつら」を表現する言葉の一つとして使われてるのかもしれない。例えば、日本人同士でも「アイツらは違う人種だから」と言ってるのを聞いたことがある。
社会レベルでは、私はこの「人種カテゴリー」という名前が付けられる前から、このカテゴリー化は存在していたと考える。それを支配層が、「人種カテゴリー」と名付け、自分たちと違う人種が劣っているという言説を作り出すために、生物学的事実や宗教思想を「本質」としたと私は考える。
肌の色は「自分たちとは違うやつら」と判断する要素の一つに過ぎない。だから、西ヨーロッパでの東ヨーロッパ系移民への差別が人種差別として語られたりもするのかもしれない。
見た目、言語、食習慣、経済状況、宗教…「自分たちと違う」と判断する要素は数多あるだろう。日本人が「名誉白人」などと一部で言われていたのは、「経済的に豊かな国」というイメージが西洋との近さを感じさせたからかもしれない。
では、「自分たちと違う」と判断され、偏見や差別・搾取の対象になった人々は、この体験をどの言葉を使って語ればいいのだろうか?
自分が、他者からどのような言葉を使ってカテゴリー化され、どのような偏見や差別を向けられているかなんて、そんなすぐにわからないはずだ。
私の専門は臨床心理学。どんな社会的背景があろうと、どれだけ学者が議論しようと、クライエントが「人種を理由に差別を受けた」と語ったら、それは心的事実として尊重されるのである。そのクライエントには、「人種を理由に差別を受けた」と言う結論に至る歴史、経験、知識、文脈があるということなのである。クライエント一人一人の内側での「人種の物語」を私は学び、外の世界での「人種についての議論」と区別すべきだという立場を取りたい。
