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子どもを生んだら、街が脱出ゲームになった。

ない。とにかくない。何がないって地下鉄の改札内にエレベーターがないのだ。ベビーカーを押しながら私は焦っていた。なんがーい階段となんがーいエスカレーターしか見当たらない。いっちょベビーカー担いでいくか、いや無理か。親切な駅員さんがホームまでの順路を教えてくれる。

「一度改札を出て、大通りを渡った向こう側の改札から入るとエレベーターがあります。それに乗ってまずは反対側のホームに降ります。それから、少し歩いて連絡通路につながる別のエレベーターに乗っていただきます。連絡通路にたどり着いたら、さらに別のエレベーターに乗って、こちら側のホームで降りてください」

頭の中が「?」でいっぱいになる。私と赤子はいま、乗りたい電車が来るホームの真上に立っている。地図上では直線距離0メートルだ。きっと、色んな大人の事情でやむを得ずこのようなエレベーターの配置になったのであろう。


意味、わかりますか?
画力がなくてすみません。
下の両端は、電車です。
電車好きの方から怒られそうですが…


しかし、遠い。果てしなくこちら側のホームまでの道のりが遠い。マリオだったら、簡単に地下までごりごりと掘り進められそうだけど…。

夫にそう愚痴ってみたら、「マリオを何だと思ってるの?きのこを食べないと無理だし、マイクラと勘違いしてない?」と言われた。知らん。この際マリオでもマイクラでもどっちでも良い。とにかく私はこのまま地下までごりごり行きたいのだ。きのこくれ。

私は事前に何のリサーチもせず、丸腰で家を飛び出した自分を悔やんだ。しっかり者を自負していたけど、母親になってからは自分の適当さを嫌でも実感させられる。いまの自分に似合う言葉は「すっとこどっこい!」である。すっとこどっこい母ちゃんこと私はベビーカーを押しながら、大通りに飛び出した。


子育てを始めてから、街はまるで脱出ゲームのようになってしまった。

エレベーターを乗り継ぎ乗り継ぎ、ようやく地下鉄に乗りこむ。混んでない時間を選んで、ベビーカースペースに立っているものの、周囲の目線が気になる。実際には言われたことがないものの、SNSでたまに流れてくる「子連れ様」の文字が脳内にチラつく。完全に被害妄想である。

とりあえずベビーカーの持ち手を折り曲げ、もともと小柄な身体の面積をさらに小さくして乗る。「電車の中の狭いスペースでもへっちゃらだよ」と20年前の私に教えてあげたら、背を伸ばそうと必死に家の鴨居にぶら下がるのをやめてくれるだろうか。

ベビーカーの中で、赤子がぐずり出す。私は周囲の人に「すみません」と会釈し、抱っこ紐を取り出し、赤子をおさめる。しまった。ベビーカーが大きな荷物と化してしまった。

潔く抱っこ紐でいくか、ベビーカーを持っていくか。これは全親の悩みの種だと思う。抱っこ紐は機動力が高く、赤子がぐずりにくい。しかし肩および腰へのダメージがでかい。お出かけが終わったら心は軽やかだが全身はばっきばきだ。

ベビーカーは機動力が低いものの、身体への負担は少ない。大量の荷物もベビーカーに積んでしまえばへっちゃら。おまけに、赤子がベビーカーで寝てくれれば勝確。そのままお茶できるというスーパーボーナスタイムが訪れる。

連日の抱っこにより肩と腰から労基法違反で訴訟を起こされていた私は、ベビーカーで来てしまった。おまけに、もし約束の時間よりも早く着いたらスタバに寄れるかもなどという邪な心もあった。抱っこ紐のままでもスタバに行けないことはないけれど、赤子の頭の上にぽろぽろとチョコチャンクスコーンのかすを落とす懸念がある。さようなら、私のはっぴースタバタイム。

ベビーカー片手に赤子を抱っこでよいよいしていると、目の前の座席に座っていた龍柄のシャツを着ていた強面のおじさんが、席を譲ろうとしてくれる。「大丈夫です」と伝えたが、「いいからいいから」と席から立ち上がってくれた。私は「ありがとうございます」と伝え、ベビーカーを畳んで座席に座らせてもらう。

座れるだけで随分と楽だ。ガチガチだった肩と腰に血液がめぐってゆくのが分かる。おじさんは「気にすんな」とでも言いたげにひょいと手を挙げる。おじさんの表情はサングラスで良く分からないけれど、心の中でもう一度「ありがとうございます」と言う。

地下鉄は順調に駅を通過していく。私は目的の駅の2駅前くらいからそわそわしはじめる。他の人の邪魔にならないようにみんなが出るのを待って、かつスムーズに降りなければならない。

いつでも立てるように中腰で、ベビーカーをしっかりとつかんで、その時が来るのを臨戦態勢で待つ。ジャンプボールの瞬間を待つ選手のように、一瞬の隙も見逃してはならない。私は背が低いので、ジャンプボールはほぼしたことないけど……。

目的の駅の到着を告げるアナウンスが流れると同時に、AirPodsをはめたサラリーマンらしき男性がこちらをチラリと見てきたので、先に進んでくださいとジェスチャーで伝える。開かれたドアから、一斉に人が吐き出されていく。

いまだ!

その波に遅れるまいとベビーカーを勢いよく押す。すると、ベビーカーのタイヤが地下鉄のドアとホームの隙間にはまってしまった。「ヤバい!!」そう思った瞬間、「手伝いますよ」と先ほどの男性が軽々とベビーカーを持ってくれる。「ありがとうございます」と言うと、「僕も娘が同じくらいなんで」そうにっこり微笑んで颯爽と去っていく。

AirPods越しにお礼がちゃんと伝わっていたらよいな。私は柔軟剤のCMに出てきそうなくらいさわやかな男性の後ろ姿にぺこりとお辞儀をして、次なるエレベーターを探す。

しかしこの駅には来たことがある。記憶を頼りに歩くと、エレベーターがホームの端っこにデデンッと現れた。よしっ!!ところが中々に人が多く、乗れそうもない。予定の30分前に着くように家を出たはずなのに、気がつけばぎりぎりになってしまった。

「入れないかな?」そう思って覗いたエレベーターの中から、カートにつかまって立っているおばちゃんがこちらを睨むように見ている。「乗れないよ!」そう言われるかもと感じ、私が目線をエレベーターから逸らそうとすると、おばちゃんは大きく手を振ってきた。「ここ、ここ、乗れるよ〜!!!みんな~ベビーカー乗るよ!!!」

 おばちゃんが喋ると、エレベーターの中の人々が、モーセが海を割るかのごとく左右に割れていき、瞬く間にベビーカーの入るスペースが出現した。私は「すみません、すみません」と身体を小さくしながら、感謝してエレベーターに乗り込む。

「ねえ。見て、私の顔見て笑ってる」おばちゃんはくっきりとアイラインがひかれた目を細めて笑う。赤子を見ると、Majiで泣きだす5秒前である。頼む、笑ってくれ!!という私の念もむなしく、「うぇえぇえええん」と大きな声で泣き出してしまった。

どうしようとオロオロする私をよそに、「まあ、可愛い、赤ちゃんって感じの泣き声だね、懐かしいわあ」とおばちゃんはにこっと笑ってくれた。先ほどまで無表情だったエレベーターに乗り合わせた人たちも、つられて一斉に笑い出す。

子どもが泣き出したときに、誰かが大丈夫よと言ってくれるだけで、随分と肩の力が抜ける。おばちゃんの笑顔は、私を救ってくれた。

エレベーターが改札のある階へ着くと、おばちゃんは抱っこ紐の中の赤子に「じゃあねえ」とウィンクして、去っていく。救世主のおばちゃんはゆっくりゆっくりとカートを押しながら、駅の中の雑踏へと吸い込まれていった。

私は赤子を見つめ「ありがとうだね」と語りかける。ついさっきまで泣いていたはずなのに、気づけばキャッキャと私の腕の中で笑っている。

またエレベーターを乗り継ぎ乗り継ぎ地上にたどり着く。ひとまずおむつを変えておこうと地図を見ると、どうやら商業施設の7階におむつ替えのできるトイレがあるらしい。またまたエレベーターに乗りトイレを目指す。

おむつ替えを無事に終え、目的地まではあと少し。長旅もようやく終わりだ。約束のお店に向かうべく、スッキリした顔の赤子をつれて再度地図をみる。

約束のお店に行くためには連絡通路を通らねばならず、連絡通路のある階に行くためにはエレベーターに乗って移動しなくてはならない、らしい。

くぇええー!!!
今日何回エレベーターに乗るのよ!!!

やっとこさ約束のお店に着くと、ベビーカーを押した友人が汗をかきながら小走りで駆けてくる。

「いろいろあって、遅くなっちゃった」

大丈夫だよ。私も、今来たところだから。とりあえず、お互いのゲームクリアを讃え合おう。



子どもを生むまで、子連れで出かけることがこんなにも大変だなんて知らなかった。

正直、もうちょっと街全体をアップデートしてくれ~と思うこともある。Switchだってもう2がでたし、プレステなんてもう5まででている。我が家にある夫のプレステはまだ4だけど。私はゲームの比喩をよく使うくせにゲームは全然できない。友人の家で酔っぱらってやったスマブラは、味方を攻撃していた。

しかし、すっとこどっこい母ちゃんの脱出ゲームにはいつも強力な助っ人が現れる。そしてそのおかげでなんとか目的地にたどり着ける。子どもが生まれて、街が思っていたよりもずっと優しいことを知った。すっとこどっこいでも何とかなるもんだ。

そういえば、私も数年前までは、財布とスマホだけを持って、好きな時間に軽々と動けたんだなあ、と不思議な気持ちでこの文章を書いている。

そのころは、子連れの人は大変そうだとも楽しそうだとも思っていたけれど、何がどう大変で何がどう楽しいのかはぼんやりとしか分からなかった。私の裸眼の視力が0.1なので、ちょうどそれくらいぼやぼやとした世界だった。

エレベーターに乗ると、同じように子どもを連れている人、妊娠中の人、車いすに乗っている人、けがをしている人、高齢者など様々な人と出会う。

昔、知り合いの車いすを使っている人が「僕、海外に留学に行きたいんです。国によっては車いすでも街中を移動しやすいらしくて」と言っていた。

そのときの私は「え!留学すごい!カッコいい!!いいじゃん!!!」と単純に感じていたけれど、あのときの彼は、どんな気持ちでこの街で暮らしていたのだろう。見つからないエレベーターや、乗り越えられない段差に何度心が折れたのだろう。 彼にもモーセのごとく手を差し伸べてくれる人はいたのか。

 彼が本当に行きたかったのは、果たしてどこだったのだろうか。答えは彼しか知らないけれど、どこにいたとしても、今ごろ彼が自分の本当に行きたいところに行けていることを願っている。

私には、自分以外の人の大変さなど1%くらいしか分からないから、足りない頭で想像することしかできない。しかし想像したところで、結局理解できる部分など、氷山の一角なのだろうなとも思う。軽やかに動いているように見える人たちだって、本当は何か生きづらさを抱えているかもしれない。

結局のところ、本人しか抱えている荷物の大きさや重さも、手を差し伸べてほしいかどうかも、わからない。そうやって自分に言い訳しながら、無意識のうちに合いかけた目線を逸らして、差し伸べかけた手を引っ込めてしまうことが、今までに何度あったのだろう。


そんなことをぐるぐると考えていたらむすめが見ていたNHKのおかあさんといっしょで「ゆきたいところへ」という曲が流れてきた。思わず自分も、洗い物をする手を止めて画面をみつめる。

車椅子でも、高齢者でも、子どもがいてもいなくても、障がいや病気があってもなくても、みんなが行きたいところへ行けたら良いのに。

やっぱり、想像することをやめたくないな。私は、差し伸べられたたくさんの勇気ある手と、見守ってくれたたくさんの温かな目のおかげで、行きたいところに行くことができたのだから。

手を差し伸べたり、差し伸べられたり、見守ったり、見守られたりしながら前へ進んでいきたい。いつか私も地下鉄でおせっかいなモーセになれるだろうか。

いつだって、どこへ行くか決められるのは自分だけだ。

すっとこどっこい母ちゃんは今日も進む。ゆきたいところへ。



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