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「だいきらい」の威力、「だいすき」の引力

我が家に、突然嵐がやってきた。2歳の長女のイヤイヤ期という大嵐が。突風に煽られて、時間のゆとりも父と母の平常心もあっという間に遠くの方へ吹っ飛んでいってしまった。

中でも、とりわけ父と母の心をかき乱していったのは小さなお口から発せられる「だいきらい」の5文字である。

「だいきらい」の威力をなめちゃいけない。「だいきらい」はボディブローのようにじわりじわりと攻撃してくる。すっかり疲れ切った心に、とどめの「だいきらい」を喰らってしまったら最後、KO負けでもう立ち上がれない。

そのことを自覚してか、ものごとが自分の思い通りに進まないときに、長女は伝家の宝刀のように「だいきらい」を差し出してくる。

我が家は夫も私も比較的おっとりしている自称ハートウォーミングファミリーであり、子どもたちに「だいきらい」などと言ったことはない。

どこで覚えてきたのかと思ったら、絵本だった。長女は絵本が大好きだ。絵本を読んでいればニコニコと満足げに過ごしてくれるので、生後2か月ごろから来る日も来る日も読み聞かせをしていた。

「情操教育に役立つっていうしね」と、言葉の意味もよく分かっていないくせにノリノリで読み聞かせをしていた私。 まさか、喜怒哀楽の「喜び」や「楽しみ」ではなく、「怒り」と「悲しみ」のことばを先にマスターしてしまうとは。

「おふろはいらない、いや、ママだいきらい!」ぎゃぴーと泣く。「ねんねしない、まだあそぶ、パパだいきらい!」ぎゃぴーと泣く。

しかし、いくら「だいきらい」と言われようが泣かれようが、お風呂には入らないと泥だらけだし、寝ないと大きくなれない。

こんこんと「だいきらいって言われると悲しいよ」と諭したり、叱ったり、悲しんだりするものの、彼女の「だいきらい」ムーブメントは終わらない。気づけば「いなくなっちゃえばいいのに」などという昼ドラ顔負けの安っぽい台詞まで繰り出すようになった。

「そんな言葉どこで覚えたの?」そう困惑しながら問いかけると、「絵本だよ」と夫がすまし顔で答えた。無念、情操教育。

長女は恐らく、自分のもやもやした気持ちを上手く言語化できずに、とりあえず自分の中にある1番のパワーワード「だいきらい」を手に取って、我々に投げてきているだけなのであろう。

だけど、連日の寝不足と致死量のイヤイヤで私の感情のコントローラーはぶっ壊れた。

「お風呂のお湯全部飲んだから今日はお風呂入らない!ママだいきらい」と泥んこで逃げ回られたとき、おにぎりが食べたいというのでつくったら「こんなのおにぎりじゃない!ママだいきらい」と泣かれ、愛情こめてつくったおにぎりをぐちゃぐちゃにされたとき。つぶされた元おにぎりはただのごはんになり、私の気持ちは元おにぎりよりもぐっちゃぐちゃになってしまった。

はたから見れば笑えることに笑えなくなり、長女の一挙手一投足に34歳のくせにめそめそ泣いたり、プツンと切れたり、心の中はいつもざわついていた。

子どもが生まれるまで、ずっと自分は気が長い方だと思っていた。でも違った。きっと今までは環境に恵まれていただけなのだ。

ぬるま湯の中で生活していた私は、今ではすっかり自らが瞬間湯沸かし器になってしまった。一度身体の芯に火がついてしまったらあっという間に脳天まで燃え上がり、その炎を身体の外へ出さずにはいられない。

「いいかげんに、しなさーい!!!」

そう雷を落とすのと同時に、冷静な自分が「なんでこんな小さな子どもに怒ってしまったんだろ」と、コンマ1秒のスピード感で後悔をはじめる。毎日後悔がフライングスタートを切っているというのに怒るのをやめられなくて、そんな自分にまた後悔をする。

子どもは、こんなにもこんなにも可愛いのに。周りの母たちがみんな聖母もしくは猛者に見えてくる。どうして自分はうまくできないんだろうか。


そんな私に、救いの手が差し伸べられた。夫が、私が次女を出産するタイミングで育休をとったのだ。

私たちは、1日に何度も訪れるイヤイヤタイムに心がいっぱいになりそうだったら、長女に「だいきらい」を差し出してしまう前に自分たちを甘やかすことにした。

子どもたちと出かけた先でちょっと良いおやつを買うのだ。育休中のため節約しているものの、おやつ代だけは削らないでおこうと決めた。

おかげで我が家のエンゲル係数は、歴史的な円安も相まってうなぎ上りである。そんなメリハリのありすぎる家計簿が脳内をちらつくが、食べたいと思ったものは自分に素直に買う。


最近は寝かしつけをしながら、こっそりおやつのことを考える日々である。子どもたちがちょっとぐらいぐずろうとも「まあ、このあとにはスコーンが待ってますからね〜ふふふ」と心を広く持つことができる。

馬の鼻先ににんじんならぬ、母の口元にスコーン。タルトだとなお良し。ただし、心は大きくなるが、身体も大きくなってしまうのがデメリットではある。

ミッション・インポッシブルな寝かしつけを完遂しリビングに戻ると、夫が「おつかれさま」とデカフェのコーヒーを淹れておいてくれる。

ざくざくとしたスコーンを口いっぱいに頬張り、コーヒーでほっと一息つく。ほどよい甘さが疲れた身体にしみる。それから、2人で取るに足らないことをぽつりぽつりと話す。

「今日のイヤイヤはすごかったね」「おにぎりは、角が立つくらいトキントキンに握らないとおにぎりとして認めてくれないんだよ」そんな風に、2人で話したら辛いことも笑いに変わることがあるから不思議だ。

そうして結局はなんだかんだ今日も子どもは可愛かった、というところに着地する。


子どもが生まれてから、虐待のニュースを見るたびに心がずしりと重たくなる。被害を受けた子どものことを痛ましく思うのと同じ温度で、「この親のことを助けてくれる人はいなかったのだろうか?」と切ない気持ちで胸がぎゅっとなる。

育児の一番の敵は孤独だと思う。お風呂のお湯飲んじゃったと可愛い嘘をつかれたとて、「おもしろいじゃん」と一緒に笑ってくれる人がいなければ、それは途端に面白いできごとではなくなってしまう。

自分の子どもはそりゃあもう可愛い。食べたいくらいに可愛いし、なんならほっぺをちょっと食べたりしてる。自分でもその愛の大きさに少し引いている。

だけど同時に、しんどい気持ちがその愛の裏にはいつだって隠れている。驚くことに愛おしさとしんどさ、1人になりたい気持ちと傍にいたい気持ちがいつだって心の中で窮屈そうに同居しているのだ。

夫が育休をとって一緒に子育てしてくれている今ですら、子どもがイヤイヤを重ねる度に奥歯をぐっとかみしめて堪える自分がいる。顔のエラが張ってきたような気がするくらいに。

そうして何とか喉元から出てきそうなひどい言葉を必死に飲み込んで、震える声で「ママは、あなたのことだいすきだから、だいきらいって言われると悲しいよ」と伝える。

私は、子どもに手をあげたことがない。だけどそれは私が良い親だからではなく、様々な幸運が折り重なった結果のようにも思える。

いつだって上手くいったりいかなかったり、怒ったり笑ったり泣いたりしながら、子どもと手を繋いで日々を歩いている。いつかこの手が離れるときに、彼女たちが自分の気持ちにぴったりな言葉を見つけて、外に解き放てると良いなと願いながら。

最近長女が「だいすき」と言う言葉を覚えた。こんな私にも「ママ、だいすき」と、ふとした瞬間に長女が言ってくれる。彼女に大好きと言われるだけで単純なもので私も心がぽわっとあったかくなり、今までのイヤイヤがどうでも良くなる。「パパ、だいすき」長女にそうと言われるだけで垂れ目の夫はさらに目じりが下がりまくりである。

ぎゅぎゅっと長女を抱きしめると、0歳の次女もはいはいで寄ってきて「たのしそう!わたしもなかまにいれて!」と言わんばかりに両手を差し出してくる。

「だいすき」の4文字には、不思議な引力があるのかしら。二人を「だーいすき」と抱きしめると、子どもたちはころころと楽しそうに笑った。

私はいつだってこの子たちを純度100%で愛していたい。明日もご機嫌な母ちゃんでいるために、さ、今日は何食べよ。


むすめの描いた自画像。
むすめは自分のことだいすきだそう!よかった😌


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