【コラム】正義の鉄槌という快楽(後編)
これには麻薬的な快楽があると私は考えます。
私もこの魅力に強烈に惹かれ、
手を出しそうになった一人だったので。
私の目の前に何を言っても伝わらない人が居ました。
当時は相手を正しい方向に導きたいという、どこか傲慢な欲求が強かったため、なるべく優しく指摘して分かってもらおうと努めていたのですが、思うように伝わらず、相手の平和ボケした一挙手一投足にイライラしストレスをため込みながら毎日を過ごしていました。
そのうち、イライラが限界に達し、怒りが火山のように噴火しました。
私はその怒りを正義の鉄槌とし、相手を「お前は人として間違っている!」と激しく糾弾したい。いかに相手が小さく愚かな人間か思い知らせたい。コテンパンに言い負かし、私が優位であることを突きつけたい。
そういうマグマのような強い衝動が、腹の底から沸き上がりました。
「これをやってしまったらモラハラだ」
そう分かっていても、私にとってこの正義の鉄槌の行使は、禁断症状の麻薬中毒者の前で麻薬を見せびらかされているような…あまりにも魅力的で、行使したら強烈な快感が得られるだろうと確信がありました。
それとなぜか、
強烈な恐怖を感じるだろうと…
人はなぜ
悪人に正義の鉄槌を下し、その悪人よりも圧倒的優位に立つことに快感を覚えるのでしょうか?そして私が感じたこの恐怖は、何だったのでしょうか?
人間は動物の本能として、戦いに勝利することや他動物より優位であることを快感に思うそうです。確かに生きる事に直結しますから、大切な本能だと思います。そして反対に、攻撃されたり他動物より下位であると、苦痛やストレスを感じるようにできているそうです。
動物は、攻撃されるかもしれない恐怖と、勝利して優位に立つ快感を天秤にかけながら獲物を選ぶのかもしれません。
だとすると、正義の鉄槌はとても都合よく
矛と盾の役割を果たすのではないでしょうか?
「正義」を掲げれば、罪悪感なく攻撃を正当化できます。
周りから責められるどころか、賛同されて褒められることすらあるかもしれません。
そう考えると、正義の鉄槌とはとても都合のいい武器であり、
安全に強烈な快楽を得る手段。
これになり得るのかもしれません。
しかし、この考えに行き着き、ギョッとしたことがあります。
世界の多くの人が、この矛盾に気づかずに正義という名の暴力を行使していると気づいてしまったからです。
いじめやSNSリンチがその典型なのではないでしょうか?
正義の名のもとに、個人をリンチすることで精神を殺し、命を奪うことすらある。これは
圧倒的悪ではありませんか?
多くの人が、自分は圧倒的善人であり、良いことだと思って正義の鉄槌を行使しているのに、その自分が最も憎んでいる悪そのものに成り下がっているとは滑稽な話です。そして最悪なことに、人間には「協調する」という本能があります。個人の正義の鉄槌が共感を呼び、群衆が一緒になって一つの対象を徹底的に叩く。
現代ではこの土俵がSNSになっただけで、
これこそ戦争の歴史を繰り返してしまう原因なのかもしれませんね。
私たちがやっていることは、正義の鉄槌ではなく、ただの感情を「正義」という悪いところを隠し、大変綺麗に良いところだけ見せてくれるベールを被せて出しているだけなのかもしれません。
私は試しに自分のSNSを、正義のベールで見るのではなくただの自分の感情だと思って見てみましたが、本当に「何言ってんだろう?」と恥ずかしくなりました。でも、正義を振りかざしたくなった時は、一度立ち止まって「これは私の感情だ」と言い聞かせる、この方が健康的かもしれません。
しかし、そう思うと途端に、世界が味気なく感じました。
あの快感を選ばないということは、この先の人生ずっと、あの快感への強烈な魅力を振りほどき続けなければならない。
全然ドラマチックでもなく
とても平坦な人生を選択し続けないといけない。
人生を楽しく刺激的に生きたいからこそ、他者を攻撃し安全に快感を得るために、正義の鉄槌という大義名分を掲げ悪を行使する。そして人は、その矛盾に気づくことはない。いや、気づいてしまっては都合が悪いから、うすうす感じていても気づかないようにしているのかもしれません。
私は、この滑稽な生き物に呆れつつ
でもその不完全さに愛おしさを感じます。
これも大きく矛盾していますね。
それでも私がこの快楽の手を取らないのは、
正義の鉄槌という名の暴力の構造に気づき、その大きすぎる規模の矛盾の連鎖に恐怖を感じたからかもしれません。
矛盾に気づかないふりをして快楽に溺れ続けるか
矛盾に気づいて目の前の魅力的な快楽に手を出さない選択をし続けるか
私は今後、どちらを選択するのでしょう?
