面接で、言葉が止まる理由——「自分を説明できない」のではなく、「問いが届いていない」だけかもしれない
面接の部屋で、言葉が止まる瞬間がある。
質問を投げかけた側も、答えようとした側も、同時に少しだけ困った顔になる、あの沈黙だ。
「あなたの強みは何ですか?」
よくある問いだ。
聞き慣れているし、答え方のテンプレートも世の中に溢れている。
それでも、目の前の学生は一瞬、視線を泳がせる。
「……えっと、粘り強さ、です」
そう答えた瞬間、本人の中で「これでいいのか?」という不安が走っているのが、こちらにも伝わってくる。
「粘り強さ、ですか。具体的には?」
人事としては、自然な追い質問だ。
けれど、その次の言葉が続かない。
話そうとすればするほど、言葉が薄くなっていく。
——頑張りました
——成長しました
——学びがありました
どれも、嘘ではない。
でも、どれも“その人”が見えてこない。
面接が終わったあと、評価シートにこう書かれる。
「自己理解が浅い」
「抽象的」
「再現性が見えない」
その言葉を見て、学生がどう感じるかを、僕たちはあまり想像していない。
人事の仕事をしていると、「自己分析ができていない学生」にたくさん出会う。
そして、いつの間にかそれを「学生側の課題」として片付けてしまう。
でも、あるときから、僕は違う違和感を持つようになった。
——本当に、これは“学生だけ”の問題なんだろうか。
面接官として座る側に回ると、こちらは無意識に「知りたいこと」を前提に質問を投げている。
・この人はどんなときに力を発揮するのか
・どんな環境でストレスを感じるのか
・うちの組織で、どう振る舞いそうか
それ自体は、間違っていない。
むしろ、採用としては当然の関心だ。
ただ、その“知りたいこと”が、問いとして翻訳されていないまま、学生に投げられていることが多い。
「強みは何ですか?」
「学生時代に頑張ったことは?」
「困難をどう乗り越えましたか?」
これらは一見、分かりやすい問いに見える。
でも実際には、かなり高度な要求をしている。
——自分の行動を抽象化し
——意味づけし
——他者に伝わる言葉に変換する
しかも、短時間で。
社会人として経験を積んできた僕たちは、いつの間にかそれが「できて当然」になっている。
でも、学生にとっては、人生で初めて迫られる問いの形だ。
以前、ある学生がこんなことを言った。
「何を聞かれているのか、分からなくなるんです」
最初は、その言葉の意味がよく分からなかった。
でも、よくよく話を聞いてみると、こういうことだった。
質問は理解できる。
言葉の意味も分かる。
でも、「どのレイヤーで答えればいいのか」が分からない。
経験の話なのか。
考え方の話なのか。
性格の話なのか。
価値観の話なのか。
問いの射程が曖昧なまま投げられると、答える側は“正解探し”に入ってしまう。
そして、無難で抽象的な言葉を選ぶ。
その結果、人事はこう思う。
「この人、何を考えているのか分からないな」
でもそれは、考えていないからではない。
問いが、届いていないだけかもしれない。
自己理解が大事なのは、間違いない。
自分と向き合い、自分の言葉で説明できるようになることは、就活に限らず、人生全体で大きな力になる。
ただ、それと同時に、もう一つ大事なことがある。
それは、問いの質が、語りの質を決めるということだ。
良い問いは、人を饒舌にする。
雑な問いは、人を黙らせる。
これは、面接だけの話じゃない。
1on1でも、会議でも、家庭でも、同じだ。
人事として、面接官として、僕たちは問われている。
・本当に知りたいことは何か
・それを、相手の言葉に引き出す問いになっているか
・答えにくさを、相手の能力の問題にしていないか
「自分のことを説明できない学生が多い」
そう感じたときこそ、立ち止まるべきだと思っている。
——もしかして、説明できないんじゃなくて、説明“させていない”だけなんじゃないか。
就活は、学生が試される場であると同時に、企業側もまた、問う力を試される場だ。
どんな問いを立てるかで、見える人は変わる。
見える景色も、変わる。
だから僕は、面接という場を、「選ぶ場」ではなく、「互いの輪郭を確かめ合う場」だと思いたい。
そのために必要なのは、学生に完璧な自己分析を求めることでも、模範解答を期待することでもない。
一人の人間として、言葉が立ち上がる問いを投げられているか。
それだけだ。
評価されない理由は、能力不足ではない。
多くの場合、判断できる情報が足りないだけだ。
そして、その情報が出てこない理由は、必ずしも、話し手の側にだけあるわけじゃない。
問いは、関係性の中で生まれる。
面接官が変われば、語られる「その人」も変わる。
それを自覚できる人事でありたいと、僕は思っている。
家に帰って、朝陽(あさひ)と向かい合っていると、面接のときの沈黙を思い出すことがある。
「今日、学校どうだった?」
ごく普通の問いだ。
親として、何気なく投げている。
でも、朝陽はたまにこう返す。
「ふつう」
その一言で会話が終わってしまうことも多い。
以前の僕は、少しだけ焦っていた。
——何かあったはずだろう。
——楽しかったことも、嫌だったことも。
だから続けて聞く。
「何が楽しかったの?」
「誰と遊んだの?」
「ちゃんと授業受けた?」
すると、朝陽の言葉は、だんだん短くなっていく。
最後には、「もういい」と言われる。
ある日、ふと気づいた。
これは、朝陽が自分を説明できないからじゃない。
問いが、雑すぎるんだと。
「今日、いちばん笑ったのはどんなとき?」
「ちょっと嫌だったこと、あった?」
「それって、朝陽はどうしたかった?」
問いを変えると、不思議なほど、言葉が出てくる。
友だちの名前。
教室の空気。
自分なりに我慢したこと。
うまく言えなかった気持ち。
同じ一日なのに、見えてくる朝陽はまったく違った。
そのとき、はっきり分かった。
語れないのではなく、語りにくい問いを投げていただけなんだと。
これは、就活も、面接も、同じだと思っている。
「あなたの強みは?」
「何を頑張った?」
それは、大人の側が楽をする問いだ。
答えに詰まったとき、相手のせいにできるから。
でも本当は、どんな問いを立てるかで、相手が“どんな自分に出会えるか”が決まってしまう。
親としても、人事としても、僕は問いを外注したくない。
相手が言葉を失ったとき、「この人は浅い」と判断する前に、「この問いは、届いているだろうか」と考えられる大人でいたい。
朝陽の言葉が増えたように、問いが変われば、人はちゃんと語り出す。
それを忘れないでいたいと思っている。
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湯鶴の裏方より
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