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わたしの人生、編集し直す。第1話 「ブレない」が、褒め言葉ではなくなった日

前の版のままでは、今のわたしが収まらない。

「真理子さんって、ほんとブレないですよね」

昼休み前、会議室を出るタイミングで、後輩が笑いながらそう言った。
悪意はまったくなかった。むしろ、気の利いた褒め言葉として渡してくれたのだとわかる。
以前の真理子なら、「そんなことないよ」と笑って受け取っていた。実際、その言葉で助けられてきた場面も多い。迷わない人。安定している人。急に方針を変えない人。任せても大丈夫な人。

けれど、その日だけは違った。
胸の奥で、何かが小さく止まった。

ブレない。
その言葉が、褒め言葉ではなく、更新されていない人へのラベルみたいに聞こえた。

真理子は四十三歳。仕事は大きく崩れていない。家庭も、少し騒がしくて少し面倒なくらいで、破綻と呼ぶほどのものではない。子どもは前より手がかからなくなり、時短勤務も終わった。周囲から見れば、ちゃんと回っている。本人だって、長いあいだそう思ってきた。

その日の午後、総務から一通のメールが届いた。
社員紹介ページ更新のため、プロフィール文の確認をお願いします。

画面を開く。五年前に自分で書いた紹介文が、そのまま残っていた。

「家庭と仕事を両立しながら、目の前の役割に誠実に向き合っています」

間違ってはいない。
実際、そうやってやってきた。
それなのに真理子は、なぜかその一文を長く見ていられなかった。古いと切り捨てるほどではない。恥ずかしいわけでもない。ただ、この文章の中に今の自分がきれいに収まっていない感じがした。

帰りの電車で、もう一度「ブレないですよね」が浮かぶ。
昔ならうれしかった言葉が、なぜ今日は少し苦しいのか。
疲れているだけかと思った。年齢のせいかもしれないとも思った。けれど、そういう雑な説明では済ませたくない違和感が残っていた。

家に着く。子どもはリビングで動画を見ている。夫はまだ帰っていない。シンクには洗い終わっていないコップが二つ。回らないほどではない。けれど、全部が少しずつ詰まっている。
真理子は冷蔵庫から麦茶を出し、自分の手帳を開いた。予定はきれいに埋まっていた。会議、面談、学校の提出物、通院の付き添い、ママ友との返信、忘れないように入れた買い物メモ。白い余白がほとんどない。

ふと、去年ではなく、もっと前の手帳を引っ張り出した。
そこには今より空白があった。忙しくなかったわけではない。でも、今より少しだけ、呼吸する場所が残っていた。

真理子はようやく気づく。
自分が苦しいのは、仕事が多いからでも、家のことがしんどいからでもない。
「ブレない人」として読まれ続けることが、少し苦しくなっていたのだ。

ブレない。
その言葉の中には、これまで真理子が守ってきたものがたくさん入っている。
投げ出さないこと。
安定していること。
頼まれたことをきちんと回すこと。
急に気分で変えないこと。
どれも間違いではない。むしろ、それが自分を支えてきた。

でも今の真理子が欲しいのは、その評価を守り切ることではなかった。
引き受けるだけでなく、外すこと。
回すだけでなく、整えること。
誰から見てもわかりやすい安定より、自分の中で息が続く形に変えていくこと。
つまり、ブレないままでいることより、ちゃんと変わることのほうだった。

画面の中のプロフィール文を見直す。
「家庭と仕事を両立しながら、目の前の役割に誠実に向き合っています」

この文が悪いわけではない。
ただ、この一文だけで今の自分を説明し続けるのは、もう少し違う。
真理子はカーソルを置き、最初の一行に赤を入れるような気持ちで書き換えた。

「役割をきちんと果たすことだけでなく、続けられる形に整えながら働くことを大切にしています」

派手な変化ではない。
転職もしない。家を出るわけでもない。人間関係を全部切るわけでもない。
それでも、その一文を入れた瞬間、少しだけ息が通った。

たぶん、編集し直すというのは、何もかもひっくり返すことではない。
前の版を全否定することでもない。
ちゃんと書いてきた原稿に、今の自分の赤字を入れ始めることだ。

昔は褒め言葉だったものが、今は少し重い。
その感覚を、わがままや気の迷いで片づけないこと。
そこからしか始まらない編集がある。

「ブレないですね」と言われたあの日、真理子が失ったのは評価ではなかった。
その言葉を、そのまま褒め言葉として受け取れる前の版だった。
たぶん、人はそういう夜に、ようやく自分の原稿を開き直すのだと思う。
壊れたからではない。
前の版のままでは、今のわたしが収まらなくなったから。


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遊星ナオミ_【ナラティブ・オプショナリスト】 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!