バリウムを愛した女
この記事は、年に一度の健康診断におけるバリウム検査を書いていますが、正しい医療知識や健診の攻略法などは1ミリも含まれていません。
ただただ、空腹と戦う一人の女が検査室でやらかした記録です。ご容赦ください。
健康診断。
それは社会人の義務であり、1年間の不摂生がまとめてチャラになるかどうかの、天下分け目の決戦の日です。しかしその前夜からスタートする「絶飲絶食」のルールこそが、現代社会において最も過酷な試練ではないでしょうか。
「前夜の21時以降は何も口にしてはならない」
この宣告を受けた瞬間から、人間の脳はバグを起こし始めます。私も妙齢の女性ですので、普段なら22時過ぎにスイーツとかラーメンを食べようなんて思わないのに、禁止と言われたとたんにテレビのグルメ番組がすべて飯テロ映像となり襲いかかってきます。
あーお腹すいた。何、ニンニクマシマシチーズタッカルビ丼だと?美味しそうすぎる。ダメだ耐えられないからもう寝よう。
夜更かしせずにベッドに入り、翌朝、昨日よりやや平たくなった(気がする)お腹をかかえて健診センターの門を叩きました。
受付を済ませ、無菌室のような独特の匂いが漂うロビーに座った時点で、私の空腹メーターはとっくに限界突破していました。胃袋の音が私の体をグルーヴさせ、重低音を奏でるウーハーと化しています。
そんな飢餓状態において私が希うのは、多くの人が「地球上で最も苦手な飲み物」として挙げるあのドロドロした白い液体、そう、バリウム。
バリウムは私にとって、年に一度だけ合法的に飲めるご褒美ドリンクなのです。
あの絶妙なドローリ感は、巷で流行りの1食置き換えダイエットシェイクそのものではないでしょうか。バナナやイチゴといったフレーバーの噂を聞くたびに、「今日は何味のシェイクかしら……」と胸を高鳴らせる。しかも、あの冷やしきれていない絶妙なぬるさが、むしろお腹にしっかりと溜まりそうで実によろしい。世間の皆さんにとっては飲むセメントでしょうが、私にとっては高級プロテインシェイクと同義語なのです。
鳴り響くお腹の音を持て余しながら、砂漠のオアシス=胃部レントゲン室にたどり着ける順番を今か今かと待っていたのですが、どうやら健診センターの案内システムは複雑らしい。
「次がバリウムかな?」と期待している間に、視力や心電図といった前座の検査に回されてしまう。その隙に、私よりずっと後から受付したはずのおじさまが、すんなりと胃部レントゲン室に案内されていくではありませんか。
まるで、先に食券を買って注文したはずの特製チャーシュー麺が、なぜか後から入ってきた隣のサラリーマンに先にサーブされてしまった時のような、不可解な不満とやり場のない空腹感。
思わずその見知らぬおじさまの後頭部をギロリと睨みつけました。後頭部なのであちらには気づかれていません。
しかし、睨んだところで順番が早まるわけではない。スマホを見ることも許されない完全な手持ち無沙汰の中、私の視線はロビーの壁にひっそりと貼られた「今月の看護師シフト表」へと吸い寄せられました。
他にやることがないので、そのシフト表を16回くらい読み返しました。「なるほど、木曜日の鈴木さんは夜勤明けか」「この佐藤さんと高橋(あ)さんはいつも同じシフトだから、さてはプライベートでも仲が良いのではないか…」などと、見知らぬ医療従事者たちの人間関係を妄想して時間を潰すしかないのです。脳内の佐藤さんと高橋(あ)さんが急接近し、そろそろ付き合い始めんとせんばかりの頃、ようやくスピーカーで私の名前が呼ばれました。待ちに待った運命の時が訪れたのです。
「ゆうみさーん、胃のレントゲン検査室へどうぞ」
そのアナウンスは、私にとってダンジョン最深部にある、宝の部屋への扉が開かれた合図でした。
ガラリと重い扉を開けると、そこには近未来の宇宙船のような巨大な検査台が鎮座していました。
そして、その横のトレイには、神々しく輝くプラコップと、なみなみと注がれた白い液体が。
「待ってました!」とばかりに、私はモモンガのようなジャンプ力で検査台へ飛び乗り、バリウムのコップをひったくるように取り上げました。もう胃袋の重低音ライブはクライマックスに突入しています。一刻の猶予もありません。
隣の観察室(ガラスの向こう)にいる、白衣を着た優しい技師さんの声が「あ、少しずつでいいですからね。無理しないで、ゆっくりお口に含んで、飲み干してくださいね……」とマイク越しに聞こえてきました。
しかし、完全な絶食を強いられ、頭の中がダイエットシェイク祭りになっていた私の耳に、そんな控えめな忠告は届きません。技師さんの声が最後まで終わるのを待たず、食い気味にコップを傾けました。その勢いたるや、まさに大学のサークルコンパにおける「ビール1杯目のコール」です。 ゴクゴクゴクと喉を鳴らして、一気に体内に流し込もうとした、その刹那。
「待って待って待って!!一気に飲まないでください!!!!!!!!」
それまでの優しいトーンとは180度違う、完全にパニックになった技師さんの怒号がスピーカーを通して響き渡りました。推定80デシベル。おそらく、健診センターの歴史の中で最も切実な「待て」だったと思います。あまりの気迫に、私の喉のレバーも緊急停止を余儀なくされました。
ガラスの向こうで立ち上がり、息を切らす技師さんの声で初めて知りました。バリウムを一気飲みすると、胃の中できれいに広がらずに撮影が台無しになるか、喉に詰まって大惨事になるらしいのです。忘れないようにしたい知恵です。
その後、こっぴどく怒られた気まずさが立ちこめる中、
「右を向いて〜」「はい、そのままぐるっと回って〜」という、宇宙空間のようなローリングアトラクションを命じられるままにこなし、私の健診は無事に終了しました。
帰りに受付で渡された、おなじみのピンクの下剤を握りしめた私は、ダイエット成功後のような静かな喜びに包まれていました。これからはもう、何でも食べたり飲んだりしていいんだ、と。
体重の増減や血圧の数値は問題ではありません。あの極限状態からのバリウムは、10キロ走った後のビールのように五臓六腑に染み渡る美味さだったし、何よりひとつ賢くなれました。
「バリウムはご褒美ドリンクではない。検査薬である」。
でも、私のバリウムへの愛は、来年も変わることはありません。
─── 読んでも何も身につかない話 バリウムを愛した女 完 ───
