酔夢未譚──Somniorum vulneribus ebrius fari nequeo.3(全九回)
六月の雨は『物や事』の輪郭を少しずつ曖昧にした。
朝、窓を開けると外気はすでに湿っていた。髪は思うようにまとまらず、薄いブラウスは肌へと貼り付き離れにくい。
駅までの道では、傘の骨に当たる雨音が一定の間隔で響き、ホームに立てば、濡れた靴底の匂いが人の気配に混じっている。
雨そのものは嫌いではない。誰もが少しずつ不自由になる日には、いつも通りである事実が持つ価値が、少しだけ増す気がする。
だから水無瀬未智佳は、雨の日ほど丁寧に身支度をした。
補正下着を身に着けるとき、湿った空気が肌へまとわりついた。少し苦しい。けれども、その苦しさは判りやすかった。判りやすい不自由は扱うことが出来る。扱えないものは、もっと別の場所にあった。
五月の終わりから、金曜日は少しずつ形を変えていた。
はじめは、週末にできる小さな余白でしかなかった。
退勤後、少しだけ食べたり呑んだりして帰る。少しだけ歩く。少しだけ、互いの声を昼より近いところで訊く。その「少しだけ」が積もり、いつしか未智佳の内側では、ほかの曜日とは違う陰影を帯びていた。
けれども六月に入ると、金曜日だけでは済まなくなっていた。
土曜の昼に、短いメッセージが届く。日曜の夕方に、彼の名を書いてしまう。業務の余白ではない時間に、和真の言葉が入り込む。それは大きな変化ではなかった。誰かに打ち明ける必要さえ感じさせないほどの、ごく些細で小さな変化だった。
それでも未智佳には判った。金曜日の夜だけに閉じていたものが、少しずつ生活の布地へ滲み出しているのが。
企画統括部のフロアでは、雨の日特有の静けさが広がっていた。
電話はほとんど鳴らない。代わりに部内チャンネルの通知が積もっていく。会議室の変更、資料格納先の共有、午後の来客予定。誰かが、濡れた傘をビニール袋へ押し込む音が、入口近くで短く鳴った。
和真は、いつもの席にいた。濡れていたのは、髪の先だけであった。
おそらく駅から会社までの短い距離で、少しだけ雨粒を浴びたのであろう。彼は席へ着くと、まず鞄から資料を取り出し、それから画面を開いた。何も特別なことではない。五月にも観ていたはずの光景である。
未智佳は、それを観ていた。
観ていた、というほどでもない。ただ視界の端に入った。入っただけなのであれば、観ていたことにはならない。そういうことにしておいた。
社内では常に、彼は「石田さん」で彼女は「水無瀬さん」であり、業務上の連絡は短く、正しかった。二人の間にあるものを、部内チャンネルも個別チャットも知らない。知らないまま、日々の資料は格納され、通知は流れ、会議室は予約される。
「水無瀬さん。
午後の資料、確認用に一式まとめました。」
「確認します。
十四時前に会議室前で受け取ります。」
それだけであった。
それだけの言葉が、私的な夜をまったく含まない貌で流れていく。
それが未智佳にはありがたかった。ありがたいはずであった。昼の彼は、彼女の生活を乱さない。夜の彼は、彼女の生活の奥に触れている。その二つが同じ人間である事実を、未智佳はまだ上手く並べられずにいた。
午後、会議室前で資料を受け取ったとき、和真は小さく頭を下げた。
「水無瀬さん、三枚目だけ差し替えています」
「確認しました、助かります」
「いえ」
そこで終わればよかった。
けれども和真は、一拍分だけ遅れて言った。
「髪、濡れてます」
未智佳は手を止めた。
「え」
「右側だけ……外、風があったので」
彼はそれ以上、近づかなかった。手を伸ばすこともしなかった。ただ気づいただけであった。
「ありがとうございます」
未智佳はそう言って、指先で髪の端に触れた。
濡れていた。ほんの少しだけ。その他愛のなさに気づかれるのが、なぜか困った。困ったのに、不快ではなかった。むしろ不快ではないことが、彼女には少し困った。

雨は夕方になっても熄まない。
残業は長引かなかった。けれども、社屋を出る頃には、傘を差していても足許が濡れるほどの雨になっていた。駅までの道を、未智佳と和真は別々の傘で歩いた。並んでいる、というほど近くはない。離れている、というほど遠くもない。傘と傘の合間に雨の幕があり、その幕が二人の距離をかろうじて正しく保っている。
「六月って、こんなに降りましたっけ」
和真が言った。
「毎年、降っていると思います」
「そうかもしれないですね」
「ただ、自分が濡れている時の雨だけ、少し多く感じるんでしょうね」
和真は少し黙ってから口を開いた。
「水無瀬さんらしいです」
「どういう意味ですか」
「雨にも、整理をつけるところが」
未智佳は傘の柄を握り直した。
「整理をつけられるものなら、つけた方が楽です」
「つけられないものは」
彼はそこで言葉を止めた。未智佳も答えなかった。
雨音だけが二人の『間』に落ちていた。答えないで済む沈黙と、答えられない沈黙とは似ている。けれどもその夜の未智佳には、その二つが少し違って感じられた。
駅の前で別れるとき、和真はいつものように深く踏み込まなかった。
「気をつけて帰ってください」
「石田さんも」
社内の呼び方だった。
けれどもその夜、部屋へ戻ってしばらくすると、メッセージアプリには別の言葉が届いた。
「雨……強くなってます
着いたら教えてください」
未智佳は、玄関に傘を置いたまま画面へと眸を落とした。まだ、靴も脱ぎきってはいなかった。短い文面だった。気遣いと言うには、あまりに日常的な文面だった。
「着きました
和真くんは」
「もう着きました
よかったです」
よかったです。
それだけの言葉が、どうしてこんなに長く残るのであろう。
未智佳はスマートフォンを伏せた。
部屋は静かだった。濡れた傘を玄関の隅へ立て、靴を脱ぎ、洗面台の前に立つ。鏡の中の彼女は、少し疲れていた。けれども乱れてはいない。乱れていないように整えられていた。髪を梳き直すと、湿気を帯びた毛先が肩へと触れた。右側だけ、ほんの少し濡れている。
髪、濡れてます。
和真の声が、なぜか近くで再生された。
それだけのことだった。ただ気づかれただけであった。けれども身体は、たったそれだけで……昼の続きを夜へ持ち込んでしまう。
浴室を出て、肌を拭い、薄い部屋着へと着替える。寝室の照明は、いつもより少し暗くした。雨の夜は、明るすぎる部屋が、どうにも落ち着かなかった。シーツは替えたばかりであった。枕許には読みかけの文庫が置かれているが、開くつもりはない。
未智佳は、いつもの手順へと入った。
夜の儀式は、もともと快楽のためのものではない。一日を終えるための必要不可欠な行為。水無瀬未智佳という形をほどき、それでも猶、自分が自分であることを確かめるためのものであった。
誰にも見られない場所で、誰にも知られぬまま、自分の内側にある湿りと熱とを、静けさのうちへと戻すためのもの──飽くまで。
自らを確認することで、整え直すためにリセットをする『聖体拝領』である。
だから……そこには手順があった。
呼吸を整える。肩の力を抜く。今日の言葉を遠ざける。職場の視線を外す──衣服で作られた昼の輪郭を、指先で少しずつほどく。秘められた渓へ降りていく前に、まず自分の内側が自分のものであることを確かめる。
以前は、それで静けさが訪れた。
誰もいない。誰にも晒されはしない。誰にも触れられてはいない。その事実が、彼女を守っていた。
補正下着で整えられた昼の身体も、化粧で形づくられた貌も、職場で過不足なく発語する声も、夜になれば一つずつ外していけた。外したあとに残るのは、少なくとも彼女だけのものであるのは間違いない。
けれども今は、誰もいない部屋に、この部屋へと訪れた事実さえありはしない和真の気配が残る。
残る──だけではなくなっていた。
雨の中で交わした短い言葉。会議室前で気づかれた髪の毛先。メッセージアプリに届いた「よかったです」
それらは、彼の手つきとは違う。夜の記憶とも違う。もっと昼に近いし、もっと生活に近い。だからこそ、未智佳は遠ざけにくかった。
彼の掌を思い出すのであれば、まだ判る。
彼の唇を思い出すのであれば、まだ羞じらいとして認識し得る。彼の指がなだらかな起伏を辿り、彼女の喉から声にならない吐息を引き出した夜を思い出すのであれば、それは女の身体として判りやすいのかもしれない。
恥ずかしい。けれども──。
恥ずかしさの中に小さな悦びがある。五月の夜なら、それでよかった。
だが、六月の夜に戻ってくるのは、雨の向こうから髪の濡れを指摘する声であった。
それは彼女の肌に触れていない。触れていないにも拘らず、触れられた場所よりも奥へ残っている。
未智佳は目を閉じた。
和真くん。
声には出さなかった。
唇も動かさなかった。
それなのに、頭の中で名がほどけた。名がほどけるにつれ、指先はいつもの場所へ辿り着く。自分だけのはずであった夜の渓に、彼の声が薄く降ってくる。直接の記憶ではない。なのに身体は応じようとする。
そのことが、少し怖かった。
怖いはずなのに、指先は止まらなかった。
未智佳はゆっくり息を吸った。浅く吐いた。吐息はすぐに乱れるほどではない。けれども、整っているとも言えない。熱は遅れて訪れた。五月の夜より、少し鈍い。鈍いからこそ、自分で呼び寄せようとしてしまう。
彼に触れられたとき、身体はもっと素直だった。そう思った瞬間、未智佳は微かに、眉へ皺を寄せた。
較べてはいけない。
この夜は、誰かと較べるためのものではなかったはず。自分だけで閉じ、自分だけで終えるためのものであったはず。けれども、彼の手、彼の唇、彼の舌先を知ってしまった身体は、彼がいないことまで憶えている。手順は同じなのに、辿り着く場所が少しずれている。
湿りはあった、確かに。
けれども、それが潤いなのかどうか……未智佳には判らなかった。秘められた渓は、確かに応えている。花弁は小さく震え、熱はゆっくり上がってくる。けれども胸の奥にある乾いた場所へは、何も届いていない。
彼を思い出せば、身体は応じる。
応じるのに、心が追いつかない。
それは奇妙なことだ──以前は、身体を終えれば心も終えられた。自分を慰めるという行為は、彼女にとって自分を閉じる作業でもあった。果てることは、終えることだった。終えれば眠れた。眠れば朝が来た。朝が来れば、また水無瀬未智佳として立てた。
その流れが、少しだけ壊れている。未智佳は息を詰めた。
指の動きは丁寧だった。丁寧であるほど、そこに彼の不在が判明した。彼なら、ここで急がない。彼なら、ここで彼女の沈黙を待つ。彼なら、彼女が眼を逸らしても追わない。追わないまま、そこにあるものを、そこにあるものとして受け取る。
自分の指では足りない……のではない。そうではない、と彼女は思った。
足りないという言葉を使えば、彼を必要としていることになる。それはまだ早い。まだ早い、と思った時点で、彼女はまた息を乱した。
まだ──。
その一語が、夜の中で妙に重く響いた。
終えたあと、未智佳は天井を仰いだ。
乱れたからではない。満ちたからでもない。身体には疲れがあった。熱も退ききってはいない。けれども、以前のような静けさは来なかった。静けさの代わりに、浅い空白が残っていた。
画面を伏せたままのスマートフォンが、枕許にある。
覗けば、彼からの言葉があるかもしれない。ないかもしれない。どちらでもよかったし、そうではないかもしれない。だから、手にはしなかった。
翌日も雨が続く。
未智佳はいつも通りに出社した。いつも通りに席へと着き、部内チャンネルを確認し、午後の会議資料へ眼を通した。補正下着の締めつけは、昨日よりわずかに強く感じられた。雨のせいだと思うことにした。
午前中、和真とは一度だけ言葉を交わす。
「水無瀬さん、昨日の議事録です」
「確認します、ありがとうございます」
それだけであった。
その短さに、未智佳は救われた気もする。しかし救われたと思った瞬間、救われる必要があるのだと気づいてしまった。

六月の半ばを過ぎる頃、二人の関係は、外から見れば穏やかであった。
金曜日の夜は、以前より少し自然になった。メッセージアプリの文面も、ほんの少しだけ短くなった。短くなるということは、それだけ言葉を省けるようになった、ということであろう。省けるようになった言葉の差分から、二人の『間』には、別の何かが増えていたのは間違いない。
「今日って遅くなりますか」
「たぶん少しだけ」
「待ってます」
待ってます──その四文字が虹彩へと映し出され、未智佳はしばらく……返信できずにいた。
待たれている。待たせている。待たせているのに、彼は責めない。そのやさしさは、彼女にとって安らぎであると同時に、少しずつではあれ、怖さになっていた。
和真といると、身体は素直……。
彼と夜を過ごす場所は、どちらの生活にも完全には属していない。だからこそ。
未智佳は、そこでほどけることができた。
彼は急がない。未智佳の沈黙を、勝手に意味づけたりはしない。彼女が顔を背ければ、背けたままにしてくれる。そのくせ、触れるときだけは逃げない。
その夜、未智佳は彼の胸に額を寄せた。
自分からそうしたことに、少し遅れて気づいた。
「未智佳さん」
和真は名を呼んだ。
その呼び方は、まだ少し丁寧だった。私的な名で呼んでいるのに。
どこか彼女を壊さぬように、距離を残していた。
その距離が嬉しい。嬉しいのに、もどかしい。
未智佳は、返事をしなかった。
代わりに……彼のシャツの裾へ、甘えるように指をかけていた。
五月なら、まだ触れられてもいないのに……そこまではしたか、果たしてどうであったか。ともあれ、彼にほどかれることを待っていたような、あるいは違うような。けれども六月の彼女は、確かに、自ら夜の扉を開けようとしていた。和真の息が、僅かに変わった。
その変化を、未智佳は聴いてしまった。
聴いてしまえば、もう知らぬふりはできなかった。彼もまた、彼女を求めている。彼の掌が肩に触れ、背を降り、補正によって昼の形へと整えられていた身体を、夜の身体へ戻していく。
戻しているのか。それとも、別の形へと変えているのか。
未智佳には判らなかった。
判らないまま、身体は彼を受け入れた。なだらかな丘は、彼の手の中で昼の硬さを失う。秘められた渓は、彼の沈黙へと応えるように少しずつ湿りを増す。自分で触れるよりもずっと早く、ずっと自然に。
彼女の奥は封印を解かれ、濡れ溢れ、垂れ零れ澑っていった。
そのことが、悔しいほどに甘かった。
和真は巧みな男ではない。経験を誇るような手着きでもない。言葉で女を酔わせることもしない。ただ、未智佳が声を殺せば、声を殺している彼女の方へ触れる角度を変える。未智佳が身体を強張らせれば、その強張りを責めずに待つ。
待たれると、彼女はほどけた。
ほどけてしまう自分が羞ずかしかった。
恥ずかしいのに、彼の掌の下で身体は素直に熱を持った。息は乱れ、腰は小さく浮き、喉の奥から掠れた声が洩れる。彼女の中で、昼の水無瀬未智佳が遠ざかる。残るのは、彼の前で名を呼ばれ、触れられ、受け取られている女だった。
それでも、果てたあとに訪れる静けさは、以前の儀式とは違っていた。
彼の腕の中であれば、確かに安らげる。けれどもそれは、自分だけで閉じた静けさではない。彼がいるから訪れるものであった。
それに気づきかけて、未智佳は眼を閉じた。誰かによって整うなど、あってはならない。
少なくとも、水無瀬未智佳にとっては。
月末に近いある夜、雨は熄んでいた。
湿度だけが残っていた。窓の外に音はなく、部屋の中の静けさが却って重い。
未智佳は寝室の照明を落とし、いつものように肌を整え、髪をまとめた。ベッドへ入る前、スマートフォンを伏せて枕許へ置く。通知はなかった。
今夜は、和真を思い出さないようにしよう。
そう思った時点で、もう遅かった。
思い出さないようにするためには、まず彼を思い出さなければならない。手順から外すために、彼の手つきを一度、心の中へ呼び出さなければならない。
彼女は自嘲しなかった。自嘲するほど、まだ余裕はなかった。
呼吸を整える。肩の力を抜く。今日の言葉を遠ざける。職場の視線を外す──水無瀬未智佳という昼の輪郭をほどく。そこまでは同じだった。
けれども、どこかが……ずれている。
身体は、ひどく鈍いわけではなかった。むしろ記憶は正確だった。どこに触れれば、どのあたりが緩むのか、どの順序で、夜が深くなるのか、彼女は知っていた。知っているからこそ、そこに和真がいない事実が明瞭となる。
その不在が、彼女を乾かす。
……触れても、彼の掌ではないし手指ではない。
……呼吸を乱しても、彼はそれを聴いていない。
……名前を呼ばなくても、彼の名だけが内側に。
……既に刻まれていて、もう否定の仕様もない。
湿りはあった。しかしそれを潤いとは感じられない。身体は応じている。花弁は震え、内奥は微かに熱を持ち、秘められた渓は確かに夜の手順へ従っている。
けれども……未智佳が求めていた静けさには、少しも近づけない。
彼女は途中で、手を止めてみた。
そのまま、しばらく目を閉じていた。
果てればよかった。果てれば、いつものように終わるはず。けれども終わりへ向かう意味だけが、ひどく遠く感じられる。
身体が応じているからこそ、心の乾きだけが際立つ。
未智佳はもう一度、ゆっくり息を吸った。
義務のように、ではない。祈りのように、でもない。ただ、乱れた呼吸を少しだけ整えるために。
自分の指である──。
そう確かめるように、彼女は再び触れた。けれども確かめれば確かめるほど、自分の指である事実だけが、自明として浮かび上がる。和真の手ではない。和真の舌ではない。和真の息ではない。その当たり前が、これほどにも扱いにくいものだとは思わなかった。
果てる瞬間、身体は小さく震えた。
しかし、彼女が欲しかったものは来なかった。
熱は退いた。湿りも残った。シーツは少し乱れた。呼吸も乱れていた。感応のあとに残るものは、確かにそこにあった。
にも拘らず、心だけが置き去りにされていた。
未智佳は寝具の上で膝を抱えた。
あの日まで、この夜は自分だけのものであった。
誰にも触れられず、誰にも知られず、誰にも奪われない場所であった。それなのに今は、その場所の中心に、彼の不在がある。
彼がいるから乱れるのではない。彼がいないから、整わない。
そう思いかけて、未智佳は顔を伏せた。
認めてはいけない。
認めれば、金曜日だけでは済まなくなる。土曜日でも、日曜日でも、雨の夜でも、晴れた朝でも……彼を必要としてしまう。それは如何にも、まだ早い。
まだ──。
その言葉がふと脳裡を掠め、彼女は静かに傷ついた。
メッセージアプリに通知が入ったのは、その少し後であった。
「起きてますか」
和真からであった。
未智佳はしばらく画面を眺めていた。返信しなければ、眠っていたことにできる。返信すれば、起きていたことになる。それだけの違いに過ぎない。それだけの違い、そのはずであった。

「起きています」
送った。
すぐに返事がきた。
「雨……やみましたね」
未智佳は、窓の彼方を見た──確かに、雨は熄んでいた。
「そうですね」
それ以上、何を書けばいいか判らなかった。和真からの次の文面は、少し間を置いて届いた。
「明日……無理しないでくださいね」
未智佳は画面を伏せた。
安心した。
そのことが──何より不安だった。
