新・恋愛掌篇集5「朱夏の蝨 ── NATVM DE MARIA VIRGINE」
煤けたカウンターに、オレは呑み干したロック・グラスを抛るみたいに置いた。グラスのなかの所在なげな氷は、いきなり乱暴に扱われたせいで「カタン」とびくつきながら、小さく悲鳴を上げた。
「ほんとうにやってらんねえよ、またどうしてオレなんだよ、選りに選ってさ」
小さな広告会社で営業をしていた。つい先刻までのことだ。リストラされちまったんだよ。馬車馬のように働き、時にヘコヘコと頭を下げながらも、会社に貢献してきたつもりだ。人並以上の成績だって上げてきたのに、なのにこのザマさ。
女房には、未だ話せず仕舞いさ。だってどう説明したらいい? どの途、委細構わず罵り揚げ句に、大声で泣き喚くに決まってる。家になんて帰りたくねえ。
「しかし新世紀早々、とんだ目に遭ったな野宮、でもこんなご時世だし仕方ないさ、何、娘の顔でも眼にすれば、またやる気にもなると思うよ」
「ありがとうよ健部、そう云って貰えるだけでも多少は気も晴れるよ」
今オレは、健部と呑んでいる。以前、取引のあった広告制作会社で、紙媒体の制作チーフをしていた男だ。ソイツから、夕刻前に電話があって──「十一年間、ご苦労さん、これから呑みに行こう」
そんなふうに誘われた。くさくさしていたし、二つ返事で誘いを受けたってわけさ。それで新橋駅烏森口で落ちあって、個人経営らしき小さな居酒屋で、健部を相手に愚痴を溢していたのさ。
で、それから何時間呑り続けた? ヤツに釣られて呑っていたせいで、ひどく酔った、したたかに酔った。考えてもみればヤツは「蟒蛇」で、オレは逆に強い口ではなかった。健部に乗せられちまったよ、畜生め。

吐きそうなのを堪えながら、帰路に就く。しかし堪え切れない。
途中、乗換駅で胃の腑に収めたほとんどを撒き散らし、やっとの思いで辿り着いた地元の駅では、黄色い液体を、搾り出すみたいに吐瀉した。
脂汗が、髪の生え際に滲んではゆったりと額を伝い、悪寒に肌がざわっと粟立つ。頭が歪むほどに痛む。朦朧として、目の当たりにする何もかもが、白っぽく霞んでいた。時計の針はいつかしらか、二三時を指し示そうとしていた。
駅前のコンビニでミネラルを購い、口腔にこびり着く、ぼんやりとして黄色い苦味を、それで漱いだ。頭痛はよりひどく、不意に訪れる厭気と一緒になって、オレを苛め立てる。家に帰りたくねえな。
そうだ、遅くまで店仕舞いしないドラッグ・ストアがあったな、ともあれ其処で、鎮痛剤でも購おう。
二三時過ぎの店内は、人影も疎らだった。鎮痛剤はすぐにも見つかった。それを手に、何を考えるでもなく、ぼやっと売り場を徘徊するうちに、理由の判らない衝動に駆り立てられていた。もうさ、どうでもよくなっちまったんだよ──。
使いもしないコロン──ジヴァンシー『キセリュズ・ルージュ』が眼に留まった。健部が偶に着けているな。オレはカルヴァン・クラインの方が好きだけどな。
気がつけばそいつを、ポケットへと突っ込んでいた。
どうなろうが知ったことか、万引きだろうが何だろうが──。
声にならない声で、そう吐き捨てようとした刹那、ふと我に返った。いい齢して、何してるんだ? オレは……言葉を喉許で呑み込んでは、何ごともない風情でキセリュズ・ルージュを棚へと戻す。見咎められていないかと辺りを睥睨してみる。
店員は疎か、近くに佇む客でさえ気づいてはいない。冷たい汗が腋窩を伝う。深く息を吐いては、改めて辺りを見廻してみた。
傍に佇む、少女の姿に眼が留まった。
鮮やかな原色や、仄かな中間色や、あるいは乾き、あるいは鈍くぼやけるアッシュ──灰色が虹みたいに映えるリップスティックのコーナーを前に、少女は立ち尽くしていた。
まだ十代だな、そんな気がした。
それより、こんな時間に何をやっているんだ?
ぴたりと下肢にまとわりつく、丈の長いデニムのスカートには、深く鋭いスリットが刻まれていて、覗く脹ら脛は、女へと移ろうのに躊躇いを隠そうともしない、そんな不均衡な曲線を表現しているふうに映った。やけに不釣り合いなスカートだな、そんな気がした。
プリント柄のノースリーヴも、幼過ぎる線を締めつけるみたいになぞり、そのせいで固そうな胸の膨らみが、ひどくぎこちなく自己主張しているのが明らかとされていた。
やがて少女は、決して似つかわしくはないルージュのスティックを手に取り、凝っと視線を落とした。マニキュアを塗り、チップを施した爪にはラメとかストーンが輝き、花柄らしい模様があしらわれている。左肩に下げていたサテン地のトートバッグを、少女は徐に引き寄せ、そこに右の掌に収めていたスティックを、そっと忍ばせるように落とそうとしていた。

駄目じゃないか、止めなきゃ──そう思う間もなく、オレは少女へと歩み寄り、掌を開きかけた右手首を掴んでいた。「あっ」
少女は振り向きざまにはっと息を呑み、開きかけていた右の掌をギュッと結んだ。中指と薬指のチップが折れた。皿のように丸くした大きな眼は、まるで時間を失くしたみたいで、瞬きひとつしない。円らな、イノセントな瞳をしている。不思議なことに、化粧はほとんど施してはいなかった。
オレは軽く頭を振るい、閉じた少女の指を解いた。
少女はされるがままに、掌を開いた。
「いいよ突き出せよ、店員に突き出せばいいじゃん」
「大丈夫だよ、ほら、誰も気づいていやしないし」
そう口にしながら、目配せをしてみせた。
少女は微動だにせず、相変わらずその大きな眼を、瞬かせることさえしなかった。やけに長い睫であった。
「おっさん痛いよ右手が──あぁあ、チップも折れちったし」
右手首を掴んだままでいた。ごめん、そう詫びてから、掌に載せられたままのリップスティックを、そっと元の場所へと戻し、それから静かに手首を離した。
「おっさん、すっげぇ酒臭くね?」
「そ、そうか? そうだろうな多分……嫌なことがあって、大して呑めないクセして自棄酒を呷っちまったからさ、でも、そんなに臭うか?」
「すっげぇ臭う、てか嫌なことあると酒呑むんだ、ダチとかと巫山戯けて呑むけど、別に美味くねぇし嫌なことも忘れらんねぇし」
「多分…」とオレは云った。
「多分?」と少女は返した。
「恥ずかしいからさ、だから──酒を、ね」
どうしてだろうか、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの「星の王子様」を急に思い出しては、ついそんなことを口にしてしまい、ほんとうに恥ずかしくなった。
「ふうん……でも恥ずかしくなくね? てか意味判んねぇし」
いつしか少女は時間を取り戻していて、ほんの少しだけ小首を傾げつつ、円らな瞳をぱちりと瞬かせていた。
どのような流れでそうなったかなんて、オレにも判りやしない。ただ少女と仲良くなっただけのことさ。気持ちが通じ合っただけの話さ。
常習的に家出を繰り返す少女と、ちょっぴり先が見えなくなった、既婚の三十路男──。
こころ通わせて何が悪い?
「兄貴さあ、今日バイト休みじゃね? どっか連れてってよ」
少女からの電話にオレは応えてやる。そして車を出す。学校をサボっていることは咎め立てしない。だって──。

あれから少女は、オレを兄貴と呼んでいる。オレは少女が「茉莉亜」と名乗ったから、彼女を「茉莉亜」と呼んでいる。
あの晩、正確には日付も変わって未明のことだが、疾っくにリストラの事実を知らされていた女房は、泣き喚いてはオレを罵倒し、娘の手を牽いて実家へ帰っていった。先も見えず、女房にも出ていかれたオレを慰めてくれたのは、実際のところ「茉莉亜」だけだ。健部なんざ、あれっ限りだし冷たいものさ。だから──。
だからオレも「茉莉亜」に応えてやってるんだ。
ちゃんと気持ちが通ってるんだよ! 云い訳でもなんでもない、ちゃんと気持ちがあるんだよ! 別に後ろ指を指されることなんて、してるつもりはない!
「茉莉亜」を抱きながら、オレはそんなふうに考えてみる。
彼女だって、きっと気持ちはオレと一緒に違いない。
だから「茉莉亜」から誘ってきたんだ、兄貴の部屋に連れて行って──って。
だから「茉莉亜」から誘ってきたんだ、したい──って。
自ら……スカートとショーツを、下ろしながら。
少女を、オレは確かに……間違いなく愛してきた。
何日も──。
そうだよ。休みともなれば、日がな一日、オレ達はふたりして過ごしてきたんだ、心通わせながら。それもこれも、互いに気持ちがあるからじゃないか!
慰めてくれる「茉莉亜」が求めているんだ。だから、それに応えてやってるだけだ! 身体で小遣いで──。
もう「茉莉亜」とは逢っていない、何年も。
出遭いから暫くを経て、オレ達の関係は「茉莉亜」の母親、そして健部の夫々が知るところとなった。またどう云う経緯でか、なぜか母親と健部は連絡を取り合っては、ふたりして無理矢理、オレ達を引き裂きやがった。
何年になる? 確か……もう五年、か。
「茉莉亜」はこの春──否、きっと既に、社会へと出ているはずだ。
健部とは、三年前に絶交をした。ひと泡吹かせてやりたいとは思ってきたが……聖人君子面しやがってあの野郎。付き合っている女と、あの段階でダメに出来なかったのは口惜しいが、風の便りでは、一年前に別れたらしい。いい気味だ。ひとを「蝨」呼ばわりしやがって。
でもオレは、オレは──。
純粋に「茉莉亜」を、愛していたんだよ──。
※初出:2006年
© Yusuke Yawata
