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酔夢未譚──Somniorum vulneribus ebrius fari nequeo.4(全九回)

 梅雨は、もう明けているはずであった。
 天気予報はそう言っていたし、街路の欅も既に夏の濃さを帯びている。にも拘らかかわ ず、空気の奥底には、まだ抜けきれない湿りが残っていた。
 朝の舗道も、昼のビルの硝子も、夕刻のフロアに流れる空調の風さえも、どこか一度濡れたものが乾ききらぬまま置かれている、そのように感じられる。
 水無瀬未智佳みなせみちかは、七月に入ってからも薄いジャケットを手放せずにいた。

 暑いなら脱げばいい。それだけの話である。実際、部内にも半袖のブラウス一枚で過ごす女性社員は増えていたし、男性社員たちも上着を椅子の背へげたまま仕事をしている。けれども未智佳みちかは、朝の姿見の前で一度袖を通したその薄い布を、手放さずにはいられなかった。
 補正下着もまた、少し軽いものへ替えていた。
 夏用のそれは、以前のように身体を固く閉じ込めるのではなく、汗ばむ肌をどうにかがしながら、必要な輪郭だけを保つためのものであった。軽くなったはずであった。締めつけも、布の厚みも、明らかに減っている。
 それなのに、身に着ける時の手つきだけは、前の季節よりも慎重になっていた。
 隠すためなのか、戻すためなのか。それとも、和真かずまに触れられた場所を、昼の形へ収め直すためなのか。未智佳みちかは、その区別をつけない。区別をつけなければ、今日も変わらず、彼女は水無瀬未智佳みなせみちかとして働ける。
 そう思って、ホックを留める。
 留めた瞬間、どこかでほんの小さく、息が詰まった。

 金曜日の夜は、もう偶然ではなかった。
 誰が決めたわけでもない。約束らしい約束を、毎週交わしているわけでもない。けれども、金曜日の午後が近づくと、未智佳みちかの中では、一日の奥行きがほんの少し変わる。
 予定表の空欄を見る。会議の延長がないことを確認する。部内チャンネルへ流れる通知を処理し、必要な返信を済ませる。
 どれも通常の業務であった。だが、その通常の手順の合間にだけ、彼女は自分でも気づかぬほど短く、メッセージアプリの画面へ視線を落とす。
 待っているのではない。
 そう思うために、ちらりと覗く。

 午後六時を少し過ぎた頃、通知が入った。

   「少しだけ時間ありますか」

 未智佳みちかは、画面へっと眼差しを落とした。
 少しだけ。
 五月にも、六月にも、何度も使った言葉だった。便利で、曖昧で、退路を残してくれる。
 少しだけなら、帰り道の延長で済む。
 少しだけなら、何も決めていないと言える。少しだけなら、金曜日の夜が二人のものになっていることを、まだ言葉にしなくて済む。

   「はい
   少しだけなら」

 送信してから、端末を伏せる。
 それ以上の意味は、足さない。
 足さないまま、未智佳みちかは化粧室で口紅を直した。色は──いつもと同じである。
 髪をき、襟元を整え、ブラウスの胸許むなもとが不自然に浮いていないかを短く確認する。香りは足さない。足せば、待っていたことになるような気がしたから。

 店を出てからの、夜の空気は昼よりも重かった。
 雨は降っていない。降ってはいないのに、舗道の隅には薄い水気が残り、ビルの壁面は夜の灯りを受けて湿ったように光っている。風はある。けれども抜けない。肌へ触れて、離れず、衣の内側へ残っていく。
 未智佳みちかは歩幅を変えなかった。
 和真かずまもまた、彼女に合わせようとはしない。ただ、結果として同じ速度で並んでいる。そういう歩き方が、彼にはよくあった。気遣っていないというのではない。けれども気遣いを前へ出しすぎない。
 だから、未智佳みちかは安心する。
 安心してしまう。
 「未智佳みちかさん」──和真かずまが、低く呼んだ。
 未智佳みちかは返事をしようとして……ほんの一拍だけ遅れた。

「はい」
「疲れてませんか」
「大丈夫です」
未智佳みちかさんの大丈夫は、やっぱり少し硬いです」
 六月にも似たようなことを言われた。そのことを思い出し、未智佳みちかは少しだけ横へとを遣った。和真かずまは笑ってはいない。からかっているのでもない。確かめているだけであった。
石田いしださんは、時々……余計なところをますね」
「済みません」
「責めてはいません」
 そう言ってから、自分の声が柔らかくなりすぎているのに気づく。

 未智佳みちかは視線を戻した。駅へと向かえば帰れる。別の角を曲がれば、前にも入ったホテル街へ近づく。道は二つに分かれているでもない、ないのに彼女の中では、既に分かれていた。
 帰れる。
 帰れるのに、帰らない。
 その事実を認めるには、まだ少しだけ夜が明るすぎた。
 
 部屋へ入ってからも、二人はしばらく何もしなかった。
 照明は柔らかく、塞がれた窓の外の喧噪は、薄い壁の向こうで遠退とおのいている。鞄を置き、上着をかけ、靴を脱ぐ。それだけの手順は、もう初めてではない。初めてではないからこそ、未智佳みちかはどこで息が浅くなるのかを知っている。
 和真かずまが近づく。
 未智佳みちか退かない。
 
 彼の手が、頬へ触れる。髪を耳へかける。首筋へ、肩口へ、鎖骨へと降りてくる。その触れ方は、相変わらず静かであった。急がず、かといって遠慮だけで終わらせもしない。未智佳みちかが固くなる箇所では待ち、待ちすぎることでかえって彼女を惨めにもしない。
 その加減が、未智佳みちかには怖かった。
 和真かずまは何も変わらない。
 変わらないから、安心する。
 変わらないから、圧になる。
 ブラウスの釦が一つずつ外されていく。未智佳みちかはその手許てもとない。
 ないまま、背中のホックへ彼の指が回るのを知覚している。薄くなった夏用の補正下着は、冬や春のものほど重くはない。けれども外される瞬間だけは……やはり昼の水無瀬未智佳みなせみちかが、一枚剥がれていくように感じられた。

 小さな音がした。
 鎧というには、あまりに軽い。
 それでも、未智佳みちかにはそれが、昼と夜を切り替える合図のように響いた。
 なだらかな起伏が解放される。和真かずまの視線はそこへ留まるが、留まり過ぎはしない。驚きも、慰めも、評価もない。ただ、そこにあるものをそこにあるものとして受け取る。
 それが、やはり未智佳みちかには堪らなかった。

未智佳みちか
 この夜、和真かずまは初めて、そう呼んだ──。
 未智佳みちかは顔を上げた。
 社内でも、食事の席でも、まだその名は距離を残していた。
 未智佳みちかさん、と呼ばれることはあった。けれども、呼び捨てにされた瞬間、彼女は自分の中のどこかで、音もなく解ける何かを感じた。
「……なに」
 声が、思ったより幼く響く。
 和真かずまは、少しだけ息を呑む。
 その反応が、彼女のうちに小さな熱を生んだ。触れられているのは自分である。受け取られているのは自分である。だが、その一瞬だけは、彼の方もまた何かを受けて揺れているのだと判った。
 触れられているだけでは、足りなくなっていた。

 そう思ったのが先か、身体が動いたのが先かは判らない。未智佳みちか和真かずまの着衣へと指を掛ける。彼が自分へしてきたように、ひとつずつ釦を外していく。手つきは滑らかではない。途中で生地へと引っかけ、指先がほんの少し震える。
 和真かずまは手を貸さなかった。
 貸さないことが、今はありがたかった。
 彼の肌が見える。肩、胸、腹の平坦。彼女はそこへそっと掌を置いた。触れるだけで、彼の呼吸が僅かに変わる。その変化を知った瞬間、彼女の裡衷で、恥ずかしさよりも先に何かが満ちた。
 私も、触れていいんだ──そう思ったのではない。
 ただ、そうしていた。

 和真かずまが何も言わないことで、未智佳みちかは次の動きを失わずに済む。
 彼女はゆっくりと膝を折った。床へ降りる、というほど明確な所作ではない。ただ、位置が変わった。視線を上げると、彼の顔は遠くなり、代わりに彼の熱と呼吸だけが近くなる。
 戻る理由はあった。
 羞恥しゅうちも、怖さも、充分にあった。
 それでも、戻らなかった。
 未智佳みちかは両手で彼を確かめる。そうして、恐る恐る唇を近づける。知らない手順だった。誰に教わったわけでもない。何かの作法として理解しているわけでもない。愛情表現なのか、女として当然のことなのか、あるいは単に彼をもっと近くに感じたかっただけなのか、それさえ判らない。
 
 判らないまま、唇で触れてみる。
 和真かずまの呼吸が、明らかに乱れた。
 その乱れが、未智佳みちかの奥へ落ちる。
 拒まれては……いない。

 その事実だけが、まず安堵になった。
 唇を開く。熱を含む。舌先で確かめる。
 自分が何をしているのかを、意識はまだ遠くで、霞のように像を結ぶだけに過ぎないが、身体は彼の反応を拾っていく。
 息の詰まり方。指がシャツを掴む音。
 彼が彼女の髪へ触れかけて、すぐにやめる気配。
 促されているのではない。
 命じられているのでもない。
 だからこそ、未智佳みちかはもう少しだけ深く進んだ。
 苦しい、と思った。
 恥ずかしい、とも思った。
 それでも、嫌ではなかった──。

 嫌ではないどころか、和真かずまが静かに崩れ、その熱が放出されては口へと溢れてくる事実が、未智佳みちかには不思議なほど嬉しかった。自分が与えられているのではない。自分が彼へ何かを返している。そういう言葉にはまだならない、ならないけれども彼の身体に生じる変化だけが、いま自分のしている行為を確かにしてくれる。
 しばらくして、和真かずまが小さく彼女の名を呼んだ。
未智佳みちか
 止める声ではなかった。
 けれども、それ以上を彼が言わなかったことで、未智佳みちかはようやく、唇を離した。息を吸う。唇の端を指で拭う。自分のしていたことが急に輪郭を持ち、頬から耳の奥まで熱くなる。
 和真かずまは、彼女を見下ろしていた。
 そのに、驚きはあった。欲もあった。けれども、それらのどれよりも先に、何かを壊さぬように堪えている静けさがあった。

「……変、だったかな」
 未智佳みちかは、いてから後悔した。
 和真かずまは首を振った。
「変じゃないです」──敬語が戻っていた。
 そのことに、彼女はなぜか少しだけ──笑いそうになる。笑いそうになっても、決して声にはならない。代わりに彼の手が伸び、彼女の頬へ触れた。
「無理、しなくていいです」
 その言葉に、未智佳みちかの胸の奥が小さく軋んだ。
 無理ではなかった。

 少なくとも、無理をしたつもりはなかった。けれども──。
 自分が何をしたかったのかは判らない。彼を悦ばせたかったのか。彼に近づきたかったのか。触れられるだけの自分ではいたくなかったのか。
 どれも違うようで、どれも少しずつ合っていた。
「……無理じゃない」
 未智佳みちかは小さく言った。
 そう言って、彼の掌に頬を預けた。

 その夜、未智佳みちかは前よりも──早く乱れた。
 そして、前よりも早く整った。
 
 それは幸福に近かった。
 恐ろしいほど幸福に近かった。
 和真かずまの指が彼女の背を辿り、起伏を包み、秘められた渓の湿りへ触れる。未智佳みちかはその一つひとつを、以前よりも素直に受け取ってしまう。
 受け取ることに慣れたのではない。
 彼なら大丈夫だと、身体の方が先に知ってしまっている。
 そのことが、彼女の内奥を甘くほどいていく。濡れる。湿る。あふれる。六月の夜、自分一人ではどこにも落としどころのない熱が、和真かずまの手の中では、あまりにも自然に解放される先を見つけていく。

 未智佳みちかは怖くなる。
 怖くなりながら、逃げない。
 逃げないでいられるから、また怖い。
 
 終えてから、シーツの皺の中で、未智佳みちかはしばらく動かなかった。身体は熱を残している。けれども心は、六月の夜ほど乱れてはいない。むしろ静かだった。静か過ぎるほどであった。
 彼といさえすれば、きちんと終えられる。
 そう思った。
 思ってしまった──。
 その事実が救いなのか、それとも新たな不全の始まりなのかを、未智佳みちかはまだ考えないようにした。考える余地さえ……そこまではまだ、達していない。

 翌週の火曜日、未智佳みちかは社内で、小さく……しかし確かに呼び間違えた。
 午後の会議前だった。部内で使用する資料の差し替えがあり、和真かずまが古い版を一部だけ手許てもとへ残していた。未智佳みちかはそれに気づき、近くを通りかかった彼へ声をかけた。
和真かずまくん、その資料……」
 言ってから、止まった。
 周囲の音が消えたわけではない。誰かが電話をしている。キイボードを叩く音もある。プリンターが低く唸っている。けれども未智佳みちかの耳には、その一瞬だけ……自分の声だけしか届かなかった。
 和真かずまもまた──。
 止まっていた。
 彼の方が先に動く。
「はい」
 ただ、それだけを返した。

 その返し方が、未智佳みちかを救った。驚きも、指摘も、喜びも面へおもて 出さない。
 ただ、呼ばれたから応じた。その自然さが、彼女の失策を失策にしないでくれた。
 未智佳みちかは眼を伏せる。
「……石田いしださん、その資料、差し替えがあります」
「判りました、ありがとうございます」
 会話は、それで終わった。
 終わったはずなのに、彼女の指先はしばらく冷えていた。

 社内で、和真くん──。

 それは私的な場面、そんなシーンに限られた呼び名であった。日曜の夕方に、メッセージアプリへ打ち込んだ呼び名であった。ホテルの部屋で、彼の肌へ触れながら、躊躇いがちに発する呼び名であった。
 それが、昼のフロアへ漏れた。
 誰かに──聴かれたであろうか。
 聴かれてはいなかったかもしれない。聴かれたとしても、些細な言い間違いとして流される程度のことかもしれない。だが未智佳みちかにとっては、そうではなかった。
 昼と夜の境が、少し滲んだ。
 その滲みだけが、午後の彼女の内側へ長く残った。

 その夜、未智佳みちかは独りで眠ろうとした。

 火曜日である。和真かずまと会う予定はない。会う必要もない。恋人という言葉を使うかどうかさえ、二人はまだ曖昧なままにしている。週末の夜だけが特別で、平日は仕事をし、必要なら短いメッセージを交わす。それで足りるはずであった。
 足りるはずなのに、寝室の灯りを落としたあと、未智佳みちかは自分の身体が静まらない現実に気づく。
 六月の夜と似ていた。
 けれども、同じではなかった。
 あの夜は、和真かずまが昼の気配として入り込んできた。雨中に響く声、髪の濡れに気づいた視線、よかったです、という短い文言。それらが彼女の内側へ残り、独りの儀式を乱した。
 今は違う。
 乱れているのではない。
 待っている。

 そう気づきかけて、未智佳みちかは眼を閉じる。

 指先は、いつもの場所へ降りていく。熱はある。湿りもある。身体だけなら、反応している。だがどこかで最後の線が繋がらない。自分の指では、充分に近づけない場所がある。
 和真かずまの手でなければ。
 そう思った瞬間、未智佳みちかは指を止めた。
 違う。
 違う、と心のうちで言う。

 彼でなければならない、などということはない。
 自分の身体は、飽くまで自分のものである。誰かに委ねなければ終えられないほど、幼くはない。未智佳みちかはそう考えようとした。
 けれども、身体はもう別の答えを知っていた。
 熱は退かない。
 湿りは残る。
 濡れているのに、潤ってはいなかった──。
 未智佳みちかは掌で目許めもとを覆う。
 泣きはしなかった。
 ただ、終えられぬ夜だけがそこにあった。

 金曜日が来るまで、未智佳みちかはいつも通りに働いた。
 いつも通りに観えた、という方が正しいのかもしれない。資料作成や整理は遅らせやしない。返信も滞らない。会議での説明も過不足なく済ませる。上長からの確認にも、短く的確に応じる。
 だが、夕刻の化粧室で鏡へと映す時間が、ほんの少し長くなった。
 夏用の補正下着は、やはり軽い。軽いはずなのに、未智佳みちかにはそれが、以前よりも不確かなものに思われた。整えている。整えているはずである。けれども、それは昼のための整いに過ぎない。
 夜の自分を整えられようものでは、決してない。
 そのことを、彼女はもう知ってしまっている。
 金曜日の退勤後、和真かずまはいつものように短いメッセージを送ってきた。

   「今夜……少しだけ会えますか」

 未智佳みちかはすぐには返さなかった。
 すぐに返せば、待っていたことになる。そう考えながら、彼女の指は既に画面の上にあった。

   「はい」

 それだけを打つ。
 少し迷って、言葉を足した。

   「私も……会いたかったです」

 送信したあと、未智佳みちかはしばらく画面を眺めていた。
 私も……。
 会いたかった──。

 どちらも、仕事の言葉ではない。
 打ってしまえば、それは消えない。消えないまま、和真かずまの許《もと》へ届いてしまう。数秒のあと、既読がついた。

   「僕もです」

 たったそれだけの返事で、未智佳みちかの呼吸は少しだけ乱れた。乱れて、落ち着いた。
 和真かずまがいる。そのことだけで、落ち着いてしまう。未智佳みちかは端末を伏せ、鏡の中の自分へ向き直った。

 かおは乱れていない。髪も、襟も、口紅も、すべて昼の形を保っている。けれども鏡の中の女は、もう夜の行方を知っている。
 未智佳みちかは小さく息を吸う。
 今日もまた、和真かずまに会えば整う。
 そう思った事実を巡り、彼女は自分へさえ知らせまいとした。