酔夢未譚──Somniorum vulneribus ebrius fari nequeo.2(全九回)
年度初めの硬さは、企画統括部の広いフロアから少しずつ、そう、気づけばおもむろにも抜けていた。島ごとに積もる資料の色も、部内チャンネルに流れる通知の密度も、いつしか異なっていた。つまり……朝の挨拶に混じる声の調子も、昼休み前に立つ椅子の音も、何もかもが四月のそれとは、少し違っていたのである。
石田和真は、もう新卒らしい不器用さだけで席にいるわけではなかった。
そして水無瀬未智佳は、相変わらず水無瀬未智佳であった。
資料の束を受け取り、必要な箇所にだけ付箋を貼り、部内チャンネルに流れた共有事項を確認し、会議前には不足している資料を先に揃える。誰かが少し慌てた声を出しても、彼女はすぐには応じない。まず画面を見て、次に書類を見て、それから声の先へと貌を向ける。その順序まで、以前と変わりはない。
変わりはない、というよりも変わらなかった、ということにしていた。
和真の席は、未智佳の『島』から斜めに三つほど離れていた。声をかけるには少し遠い。見ないふりをするには、聊か近い。コピー機へ向かう途中、会議室予約の画面を見るふりをしたとき、給湯スペースの入口で誰かとすれ違うとき、そのたびに彼の姿は視界の端へ入った。
彼はいつも通りだった。いつも通りに、少し遅れて返事をする。いつも通りに、確認してから言葉を出す。いつも通りに、彼女を「水無瀬さん」と呼ぶ。
だから未智佳も、彼を「石田さん」と呼んだ。
「石田さん、昨日の集計表、確認しました」
「ありがとうございます、修正、ありますか」
「二ページ目の表記だけ、ほかは大丈夫です」
「判りました水無瀬さん」
それだけの会話であった。
これというほどのものでもない、どのような企業であれ組織であれ、ありふれたオフィスであれば、ありふれた普通の遣り取り──。
隣にいた別セクションの先輩社員が、何の気なしに二人の合間を通り過ぎた。通り過ぎても、何も残らない。残っているものなどない。職場の昼はそれほど乾いているし、それが当たり前であり正しかった。
けれども未智佳は、和真が資料を受け取る折の指先を観てしまった。
触れなかった。
触れないように、彼は受け取った。
そのことの方が、触れられるよりもずっと、彼女の奥へ残った。
その夜、未智佳はいつもより早く浴室を出た。

髪を乾かし、肌を整え、明日の服を確認する。手順は変わりない。乱れたものを元へ戻すための手順。職場で水無瀬未智佳として過ごした一日を、寝室の薄い灯りの中で静かに閉じるための手順。
以前なら、それでよかった。
けれども、寝具に身を沈めたあと、彼女の指先はしばらく動かなかった。思い出そうとしたのではない。思い出さないようにするほど、何かを認めていた、というのでもなかった。
ただ、身体の方が先に感触を刻んでいた。
和真の掌は、指は……急がなかった。彼の声は、必要以上に甘くはならなかった。
それなのに、彼女のなだらかな丘へ触れるとき、どこか大切なものを壊さぬような『間』があった。それでも決して愛でるとか、愛おしいというほどでもない。それでいて何かを補おう、施そうとする、そんな哀れむような手つきでもなかった。
未智佳は眸を閉じた。恥ずかしい、と思った。
その恥ずかしさが消えないうちに、ほんの少しだけ……嬉しいと思った。
嬉しい、と思った自分に驚き、彼女は息を整えようとした。整えようとするほど、胸の奥に残ったものが、指先ではなく記憶として蘇る。
そこは、欠けているはずの場所だった。少なくとも、彼女の裡ではそうであった。
けれども和真は、そこを欠けたものとして扱わなかった。それだけであった。
それだけのはずなのに、その夜の未智佳は、いつもの静けさへ戻るのに、少し時間がかかった。
自分の指ではある。あるけれども……それが彼の指かと不意に思うと、妙に時計の針が余計に進んでいくような、そんな気がしたのかもしれない。だから……なのかしら。
常より熱も退かず、常より火照り、湿り、溢れ、迸る。
いつかしらか、和真の指の感触、感覚を思い浮かべようとしていた。そうして……思いも寄らず、気づけばなだらかな丘の尖端をも擦っていた。
尖端……そう、尖っていた。尖るように、大きくなっていた。
普段であれば、浴室で身を清める折にしか触れてはこなかった。意識さえ向けなかった。むしろ、意識せずに洗い清めてきただけであった。その尖端が──。
固く、そして大きく尖っている。けれども……それを虹彩へと映し出すのは、怖くてできない。今は、固く大きく尖っている事実さえ、受け容れられない。
きっと……和真は、それを知っている。
そう思うほどに内側──内奥が熱くなっていく。猶も湿って雫が垂れてくる。
零れる雫で、濡れていた……イレギュラーではあるけれども、シーツを取り替えねばならぬほどに。シャワーを再び浴びなければならぬほどに。
いつもの儀式を全て終えたあと、彼女は天井を見つめた。
夜は静かで、部屋の空調音だけが細く流れていた。妄りに乱れてしまったのではない。泣くほどでもない。無論、何かが壊れたというのでもない。ただ、身体を整えるための夜に、彼の手が少しだけ──それでも確実に残っていた。
そのことを、未智佳はまだ許せた。
許せてしまう自身が……少しだけ恥ずかしかった。
翌朝、彼女はいつものように補正下着を身に着けた。
指先がホックに触れて、ふと、あの夜が蘇った。和真が触れた身体を、こうしてまた昼の形へ戻していく。その作業は、以前よりもほんの少しだけ、丁寧になっていた。
隠すためなのか。戻すためなのか。それとも、あるいは失わないためなのか──未智佳は、その区別をつけなかった。
区別をつけなければ、今日も明日でも働ける。
部内チャンネルには、朝から会議室変更の通知と、共有資料の差し替え連絡が流れていた。未智佳はそれらに短く目を通し、必要なものだけを自分の予定表へ反映させた。
午前十時過ぎ、個別チャットに通知が入った。
「水無瀬さん
昨日の修正版を格納しました。
ご確認いただけますでしょうか。」
石田和真からであった。
未智佳はすぐには開かなかった。開かないまま、手許の資料を一枚めくった。読む必要のない行を、眼だけが追った。
それから返信した。
「確認します。
午後の打ち合わせ前に、十五分ほど時間をください。」
送信してから、彼女は自分の文面をもう一度見た。業務連絡だった。それ以上のものではない。
けれども──。
その十五分の中に、これまでの昼の水無瀬未智佳と、独りではない、夜を知ってしまった未智佳とが、薄く重なってしまう気がした。
金曜日が近づくと、時間の刻み方が少し変わった。待っているのではないし、期待しているのでもない。
ただ、金曜日の午後だけが、退勤後の余白をほかの日より広く見せた。
予定表の空欄が、ただの空欄ではないように見えた。
メッセージアプリを開く回数が、一度だけ増えた。一度だけなら、増えたうちに入らない。
未智佳はそう思った。
夕方、彼女は化粧室で口紅を直した。色はいつもと同じだった。髪を梳き直した。香りは足さなかった。足せば、待っていたことになるような気がした。
終業後、和真からのメッセージは短かった。
「少しだけ食べて帰りませんか」
未智佳は、その文面をしばらく見つめた。少しだけ。
便利な言葉だと思った。
少しだけなら、何でもなかったと訊い聞かせもできる。少しだけなら、仕事帰りの延長で済む。少しだけなら……金曜日の夜が彼らだけのものになりかけていることにも、まだ気づかないふりができる。
そう、少しだけなら──。
「はい
少しだけなら」
送ってから、彼女は画面を伏せた。
その夜、二人は駅から少し離れた店に入った。
賑やか過ぎず、静か過ぎない店であった。会話は仕事の話から始まり、部内の些細な慣行上の癖や、新人研修で和真が困ったことへ移り、それから少しだけ──途切れた。
途切れて不意に、未智佳はワイングラスへと手を伸ばした。
「疲れてませんか」──和真が言った。
「大丈夫です」
「水無瀬さんの大丈夫は、時々、少し硬いです」
未智佳は、グラスを置いた。

「石田さんは時々、余計なところを観ますね」
「すみません」と和真。
「責めてはいません」と未智佳。
そう言ってから、未智佳は自分の声が、柔らかくなっていたことに気づいた。
食事を終えてから、二人はしばらく歩いた。どちらからともなく、前にも歩いた道を選んでいた。
街灯の明るみが、舗道に細く落ちては、ぼんやりと影を滲ませている。彼女のヒールの音と、和真の革靴の音が、少しだけずれて並んだ。
初めてではないからこそ、空気は未智佳を一層と黙らせていた。おそらく初めてであれば、知らなかったと言えた。流れだったと言えた。差し当たり酒のせいであったと、少しだけなら言えたかもしれない。
けれども彼女はもう、部屋の灯りの残し方も、和真が急がないことも、彼が自分の沈黙を咎めやしないのも知っていた。
以前と同じホテルの部屋へ入ると、未智佳は先にバッグを置いた。それからジャケットをかけ、髪に触れ、一度だけ息を吸う。
和真は、何も言わなかった。その沈黙が、彼女にはありがたかった。同時に、少しだけ困った。急がれたなら拒めた。雑に求められれば、傷つけられるふりもできた。
けれども和真は、彼女が自分で近づく余地を残した。
未智佳は一歩、近づいた。
自分で近づいたことを、すぐに後悔しそうになったものの、後悔をするには、彼の手があまりにも静かに過ぎた。
彼の指が彼女の肩から腕へ、腕から背へと降りていく。布地の上から確かめるように、しかし検分するでもなく。留められていた釦が一つずつほどけるたび、未智佳は昼の自分が薄く剥がれていくのを感じた。
その下にあるものを、彼はもう知っている。
知っているはずなのに、初めてのように触れる。
初めてではないはずなのに、彼女はまた息を詰める。
昼の未智佳が、和真によって塗り替えられていく。背後から、ホックの外れる音が響く……それは恰も、スウィッチングを知らせる『アラーム』であるかのように。戦のあとに、介添が重い鎧を脱がせていくように。そうして重い鎧=整えるためには欠かせない補正下着を外され、未智佳は女となって間もない彼女へと変身する。
その刹那が、まだ怖い。武者震いではない震えが、止められない。
なだらかな起伏に彼の掌が添えられた瞬間、未智佳は目を逸らした。
彼は追わなかった。目を合わせようともしなかった。ただ、そこにあるものを、そこにあるものとして受け取った。
それがまた、たまらなかった。
「未智佳さん」
名を呼ばれた。
社内では決して呼ばれない名だった。
メッセージアプリの短い文面よりも、ずっと近いところで響く名だった。彼女は返事をしなかった。
返事の代わりに、指先で彼のシャツを掴んだ。強くはなかった。引き寄せるほどでもない。ただ、そこにいることを確かめるような力──。
和真は、その手に気づいた。
気づいて──。
何も言わなかった。
その夜、未智佳は前より少しだけ、自らの身体が彼を憶えていることを、心でも知覚したと感じるのであった。どこで息が乱れるのか。どの沈黙で目を閉じてしまうのか。どの触れ方に、恥ずかしさより先に安堵してしまうのか。
靭やかにも弓なりに反る身体。
風に揺れる小さな花弁のように震える身体──。
その花弁はあるいは白く、あるいは紅潮し、あるいはより、朱を挿している、そんな気がしていた。
朱を挿しているであろう『私の触れたくはなかった尖端を、和真はこれといって感慨を浮かべる様子も示さず、それでも丁寧に扱ってくれる』──それが……堪えられないのに、羞恥の間合いから、心地よさを引き出しているような、何か不思議な気分へと未智佳を誘う。
口づけでもするような彼の唇、そして舌の動きにただ気持ちいい、心地よいと感じる。そんな想像だにし得なかった情動が、いつしか芽生え始めていた。未智佳の内側、内奥は熱く、まるで蠢く何か異なる生き物が呼吸をするように収縮し、粘り滑らかになっては、硬く反り立つ和真自身を、それが当然とばかりに……吸い込み絡み着くように包んでいた──。
二人の呼吸は、歩む足並みのように、折節ずれている、そんな気がしないでもない。けれども、それが彼らしくて……どこか安堵しているようにも感じる。
未智佳は思う……人として、女性として整えてきた、欠けているものを隠したい、それをどうすれば補えるのか……そのつもりで、目指せるかもしれない完璧な自身を、模索しようと。それは今でも、変わりはしない、しないけれども。
だから──。
知らないままでいたかった。
けれども知ってしまった身体は、知らぬふりをしてくれなかった。
夜の終わりに、和真は彼女の髪をなでた。なでるというより、乱れたところを避けるような触れ方だった。
「帰り、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「送ります」
「近くまででいいです」
「はい」
彼はそれ以上、何も言わなかった。その何も言わないそれらしさが、やはり未智佳を、また困らせた。
土曜日は、長かった。
午前中に洗濯をした。掃除機をかけ、シーツを新しく改め、冷蔵庫の中身を確認した。昼には簡単な食事を拵えた。午後には少しだけ、仕事の資料を読んだ。

いつも通りの週末であった。
それでも猶、金曜日の夜が……まだどこかに残っているようであった。アイロンをかける刹那、彼に解かれた布地と、月曜日のためのブラウスとが、同じ場所へと戻り同期していく。そのことに、未智佳は少しだけ躊躇した。
おかしなことではない。布は布だ。服は服だ、飽くまで。月曜日は月曜日で、金曜日は金曜日だ。それなのに、引き出しの中で二つの夜が隣り合う事実を、彼女はすぐには受け容れられなかった。
その夜、未智佳は再び自分を整えるための手順へ戻った。
金曜日の記憶は、それまでの夜よりも色濃かった。残っている、というより、待っていたようだった。彼の名を呼びたいわけではない。呼ばれたいわけでもない。ただ、呼ばれたときの自分が、まだ体内のどこかにいる。彼女は唇を僅かに開けた。
和真くん。
声にはならなかった。声にはしなかった。けれども唇の形だけが、その名を憶えていた。
羞恥はあった。愉悦もあった。
その二つが同じ場所でほどけていくのを、未智佳はまだ怖がりきれなかった。
名を思い浮かべるにつれ、湿り濡れては溢れていく自身を、より強く感じていた。指の動きは、熱を帯びながら……繊細になっていた、丁寧になっていた。彼に触れられている。彼の指が小刻みに震えている。彼の舌が這っている。そう脳裡を過ぎるほどに、記憶は鮮明にも濃くなっていった。
終えたあと、彼女はしばらく動けなかった。
整った、と思いたかった。
けれども本当は、整ったのではなく、金曜日の夜をもう一度、独りで抱え直しただけであった。
日曜の夕方、メッセージアプリに通知が入った。
「明日から、また少し忙しくなりそうです
無理しないでください」
未智佳は画面を見た。返信は、すぐにも打てた。
「石田さんも」
そう打って、消した。私的な画面で、彼を「石田さん」と呼ぶことが、なぜかしら他所他所しく感じられたから。
「和真くんも」
それだけ打って、しばらくは送れなかった。
日曜の夕方に、彼の名前を書く。
それは、金曜の夜とは異なる感慨をもたらす。
退勤後の延長ではない。仕事の余白でもない。彼女の生活の中へ、彼の名が入ってくるという事実そのものでもある。
送信して未智佳は、スマートフォンを伏せた。画面を伏せても、送った言葉は消えなかった。
金曜日だけだったものが、日曜日の夕方にも残っている。
それを彼女はまだ、名前を授けて呼んではいなかった。
