酔夢未譚──Somniorum vulneribus ebrius fari nequeo.7(全九回)
十月の朝は、九月のそれよりも猶、薄かった。
舗道へと延びる影の方が濃く、それでいて気温だけは──いまだ夏の名残をさえ、引き擦るようであった。石田和真はオフィスへ向かう道すがら、自分の歩幅へ仄かな違和を記銘する。
歩幅ではない。歩いている時間の長さを巡り。
以前ならもう少し早く、駅から会社へと到る距離を消化していたはずである。気のせいかもしれない、結局のところそう誤魔化した。最近は『気のせいばかり』が、増えて仕様もない。
火曜の朝、彼は短いメッセージを送った。
「今週
どこか食事でもどうですか」
返信は午後になって来た。
「今週は、少し立て込んでいるの
来週なら」
来週なら、を、和真は二度ばかり読み返した。
断られたのではない。
続きが用意されている。
けれども、未智佳がこういう書き方をするのは──あまり憶えがなかった。
以前ならその日のうちに「明日でも」「金曜なら」と返ってきた。
また返ってこないからと言って、和真はこれまで、気にせずに済んできた。気にせずに済んでいたのだと、今になって判る。
彼は短く打った。
「分かりました
来週で調整します」
送信して、自分の文面がやや硬い事実に気づく。硬くするつもりはなかった。それでも、書き直せば次は不自然に柔らかくなるかもしれない。柔らかさを装う方法論こそ、彼にはむしろ──遠かった。
火曜だけではない。
水曜の夜、和真は何かの用があるでもなく、ひと駅手前の改札を抜けてしまった。気がつけば一駅分、余計に歩いている。
歩きながら、九月のはじめ頃のことを思った。
あの頃はまだ、平日の夜にも短くはあれ食事をしていた。駅近くの小さな店で、酒は控えめに、業務の周辺の話だけをしていた──。
あれは、いつからなくなったのであろう。
はっきりした境目はない。
ただ、平日の夜が、いつかしらか「会わない夜」へと戻っていた。週末はある。金曜日に食事や酒を愉しんだりもする。そう、それらは確かに続いている。続いているからこそ、平日の不在は──不在として、目立たない。
それでも、否、ならば余計にこう思う……俺は、何かしたのだろうか。
その問いは九月にも浮かんだ。九月の問いは、自分の触れ方や言葉について、であった。十月の問いは……少しだけ、違う。
俺は、何かをしなかったのであろうか。
しなかったこと──それは、何であるとは規定し得ない。
水無瀬未智佳は、十月の朝を、変わらず正確に始めた。
起き抜けに髪を梳き、洗面台の前で口角の具合を確かめる。眠りの名残はもうほとんど消えている。消えているからといって、点検が不要になるという話ではない。ともすれば──手段が目的化してしまったように、彼女は鏡へ向かう。
補正下着は、九月のものよりも、なお少しだけ強い。
胸許の収まりは、布の力によって確実に整う。下を見遣れば、自分の身体の、昼の輪郭は揺るがない。揺るがないから、迷う余地もない。迷う余地のある場所だけが、彼女の中で……密かに増えていた。
月初の業務は立て込んでいた。下期の本格化に伴う調整事項が数多あり、未智佳は会議の進行補助、資料の差し替え、関連部署との連絡を、いつもと同じ精度で捌いた。捌けている。誰の眼にも、不足はなく映る。

昼過ぎ、和真とラウンジで擦れ違った。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
それだけであった。
以前ならもう一言、些細な何かを足したかもしれない。
「今週も忙しいですか」
「水無瀬さん、午後の打合せ何時ですか」──そういう、業務の周辺で許される程度の会話。今日はそれがなかった。和真は会釈をして、コーヒーを取り、自席へ戻っていった。
未智佳はその背中を、一瞬だけ眼で追った。
追ってから、眼を逸らした。
追ってしまった事実が、彼女には、微かに怖かった。
以前なら追わなかった。彼が彼としてそこにあり、自分が自分としてここにある。それで充分だった。今は、彼が遠ざかると、僅かに身体の奥が気づいてしまう。気づくほどではない、と打ち消したいのに、打ち消した動作の方が、却って彼女に気づかせる。
夜の儀式が、形骸的な点検へと変わったように、昼の自分もまた、別の何かへ変わり始めているのかもしれない。
未智佳はその予感を、言葉にはしない。
言葉にすれば、確定する。
確定すれば、もう戻れない。
その週の金曜日、二人は食事をした。
駅近くの店で、酒は控え目に、会話も控え目に。和真は疲れているように観えた。観えるだけで、訊かれれば「大丈夫です」と答えるであろうは、未智佳も疾うに知っていた。
知っているから、訊かなかった。
訊けば、彼が何を答えるか判ってしまう。判ってしまえば、自分の方が何かを返さねばならなくなる。返すべき言葉を、彼女は持ち合わせていなかった。
その夜、二人は和真の部屋で過ごした。
以前と何ら変わりない夜であった。彼の手も、呼吸も、彼女を急かさない沈黙も。
未智佳は彼の腕の中で確かに安堵し、確かに身体を預けた。預けられた。預けられている間だけは、自分が整っていることを、彼女は信じられた。
翌朝、別れぎわに和真が言った。
「来週の火曜……やっぱり、無理ですか」
未智佳は一拍だけ置いた。
「……水曜なら」
「水曜、空けます」
「うん」
その「うん」は、自分でも判るほど、いつもの「うん」より小さかった。
水曜は、来なかった。
来なかったというより、未智佳の方から「ごめんなさい、急に予定が」と短く流した。和真は「わかりました」と返した。それだけであった。
それだけで終わってしまう遣り取りに、九月までの自分なら、もっと言葉を足していたのではないか。「今度、必ず」「埋め合わせします」──そういう、未智佳らしい補完を。
補完を、彼女はもう用意できなかった。
用意しなかった、と言うべきかもしれない。用意してしまえば、自分が何を補完しているのかを、自分で看てしまう。看てしまえば、それとして処理せねばならない。処理する余力は、未智佳には今やもう──乏しかった。
その水曜の夜、未智佳は外にいた。
会社の主催ではない、業界横断のセミナーである。下期の業務へ関連する内容で、上長から推奨されて申し込んだものであった。半日のプログラムが終わると、講師と参加者を交えた立食形式の懇親会が用意されていた。
立食の場に、未智佳は慣れていた。
慣れているとは、皿の持ち方や視線の配り方や、適切な距離での会話について、である。彼女は名刺を交わし、必要な質問へ簡潔に答え、不要な質問は柔らかく流した。乱れていない。整っている。整っていることを、彼女は職業的に証明し続けることができる。
ただ、その夜だけは整っているそれが──希薄に感じられた。
薄く、というのは、決して足りないというのではない。むしろ、足りすぎている。整いきっているのに、整いきったその先が、どこにも繋がっていない感覚であろうか。彼女は壁際でグラスを持ち、白ワインの一杯目をゆっくりと呑んだ。
「水無瀬さん──でしたよね、確か」

声をかけてきた男は、講師の一人と親しいらしい年上の参加者だった。同じ業界の別企業に属し、肩書は管理職。名刺は既に交わしてあった。
「ええ」
「先ほどのご質問、的を射ていました、ああいう論点を、整理して訊ける方は──少ない」
未智佳は微笑んだ。
微笑むほどの賞賛ではない。社交辞令の範疇である。けれども、男はその後も褒めることを已めなかった。所作の落ち着き、言葉の選び方、立食の場での身の処し方。一つひとつは正確で、一つひとつは過剰ではない。だが、積み重なれば──過剰であった。
未智佳は、自分の内側に、奇妙な感触が湧き上がるのを知った。
貶されているのではない。むしろ、これ以上ないほど丁寧に評価されている。それなのに、整わない。
整うどころか、何かが少しずつ──削がれていく気がする。
ああ、これか、とふと思う。
ふと思って、すぐに打ち消す。
これ、とは何を指し示すのか、自分でも判らぬままに。
会場が片づき始める頃、男は「もう一杯、別の場所で」と言った。
ありふれた誘いであった。
断る言葉は、未智佳の中にいくつも用意されていた。
「明日も早いので」「電車の時間が」「家の用事が」──どれも自然で、どれも彼女らしかった。
彼女は、そのどれも──選ばなかった。
選ばなかった理由を、彼女は言葉にしない。できない。ただ、和真ではない誰かが、自分をどう観るのか──その問いが、九月の夜に形を持ったまま消えずに残っていた。それを今、確かめねばならない理由は、少なくとも頭の中にはなかった。
なかったのに、彼女は──頷いていた。
頷いてから……自分の頷きを、少し遅れて聴いた。
二軒目のバーは、地下にあった。
男は奥のソファ席を選び、未智佳のグラスへウィスキーを注がせた。彼女はそれを呑んだ。呑むことに、深い理由はない。呑まないでいることにも、理由がない。理由を持たぬまま、時間だけが漂い過ぎていく。
男は引き続き、彼女の所作のいくつかを褒めていく。グラスの持ち方であるとか、視線の角度、語尾の柔らかさについて。一つひとつは正しく、一つひとつは過剰でもない。
ホテルへ、と男が短く告げた。彼女は頷く。頷きは、二度目であった。
部屋に入ると、男はまず未智佳の前髪へ手を伸ばした。
額の上を、撫でるでも梳くでもなく、ただ確かめる手つき。
「綺麗だ」
その「綺麗だ」は、これまでの賞賛と質が違った。社交ではなく、もっと近い距離からの言葉。彼女は応えなかった。応える言葉を持たなかったのではない。応える必要が、まだ生じていないと、身体のどこかが判断していたから。
ブラウスのボタンが、上から二つ、外された。
男の指は、慣れていた。慣れているとは、迷わないという意味である。迷わない指が、補正下着の上端へ届いた。布の段差を確かめると、男はふっと息を漏らした。
「なるほど──」
なるほど、が、何を指しているのかは、未智佳には判らない。判ろうともしていなかった。
補正の下から、彼女自身の輪郭が露わになっていく。
胸許。そして、その先。男の手は、急がない。急がないが、止まりもしない。彼女の身体は、男の手の動きに応じて、少しずつ姿勢を変えていく。それは応じているのか。応じさせられているのか。応じようとしているのか。判別の手前で、身体だけが先行していた。
ベッドの上で、男は彼女の脚を開かせていた、当たり前のように。
拒む理由を、未智佳は持たなかった。脚の間、和真以外には秘めていたはずの場所が、男の視線に晒される。男はそれを、しばらく観察していた。観る時間が、彼女には──長く感じられた。
長く、というのは、自分でも観たことのない場所だったからであろう。
秘めている場所、とは、彼女自身もまた観ない場所であった。敢えて眼を向けない秘所。
鏡の前で胸許の輪郭を確かめる時、彼女はその下を観なかった。観る必要を、感じていなかった。
夜の儀式の折にも、彼女が確かめていたのは、湿るか、濡れるか、機能するか、女として整っているか、そういう類の事象だけであった。形そのものを、色そのものを、彼女は確かめた憶えがない。
その、自分が観たことのない場所を──。
男が今、観ている。
「水無瀬さん──いや、未智佳さん」
名で呼ばれたのは、初めてだった。
「あなたの──『ここ』は、素晴らしい」
男の声は、感極まっていた。
「何ら手入れをされていない、整えてもいない、まさにそのままの──自然です、だからこそ男は惹きつけられる、実に素敵で……魅力的だ」
判らない。
判らない、ということが、これほど深く判らないのは、初めてであった。
手入れをされていない、と男は言う。整えていない、と。けれども未智佳は、自分のそこについて、そのような評価軸を持ったことがなかった。整えるとは、補正下着を着けることであり、補正下着の届かぬ場所は、ただ「秘めていく場所」であったから。秘めていた場所が、自然として褒められる。それは、彼女の認識系統のどこにも、収まる場所を持たぬ言葉であった。
収まる場所を持たぬのに、彼女の身体は、応える。
男の言葉が、皮膚の下を滑っていく。意味として結ばれぬまま、しかし熱として身体の奥へ届いていく。秘められた渓の間が、湿り始めていくのでさえ、それとなく判った。
湿る。濡れる。なぜ──と思った瞬間、男の指がそこへ触れた。
「ああ、これだ、これが、自然……身体は嘘を吐かない、吐けないんだ」
男は、確信した声で言った。
濡れているのに、なぜ。未智佳は、その問いを言葉にしない。問いの形にすらしない。けれども、問いの胚だけが、彼女の中で芽吹いていた。
男の指が、内奥へと進む。
彼女の身体は、男を受け入れた。受け入れた身体は、応じる。応じることに、彼女の意識は追いつかない。追いつかないまま、男の言葉と男の指が、交互に彼女を潤していく。男は何度も「素晴らしい」と言った。「自然だ」と言った。「あなたは何も知らない」とも言った。
何も知らない。
その言葉だけは、なぜか裡と内側そのものへ届いた。
届いて、しかし反芻しない。反芻すれば、何かが分化してしまう。分化してしまえば、戻れなくなる。
知らないものが、自分の身体に、確かにある。
ありながら、それは応じている。応じる先が、彼女には判らぬまま、行為だけが重ねられていく。男は彼女の知らない自分を、男の眼で観ている。男の眼の中にだけ、その自分は、形を持って存在する。形を持たれていよう自分を、彼女は身体の感応だけで肯い続ける。そう、肯うほどに……自分の中の空白が、輪郭を与えられていく。
戻れなくなる手前で、彼女の身体は……果てた。
果てたのは身体だけであった。意識は……果てる場所を見つけられぬままに、行為の完了を宣告していた。
翌朝、地下鉄の中で、未智佳は俯いて座っていた。
男の顔は、思い出せた。男の言葉も、断片としては、思い出せた。けれども、それらが自分にとって何だったのかが、判らない。判ろうとしても、判るための入口そのものを見つけられない。
濡れていた、ということは、憶えている。
濡れていた、ということが、何を意味するのかは、判らない。
判らないものが、自分の身体に、確かにあった。あることを、自分自身は知らないのに、男の眼は知っていた。男の眼が知っていたものを、彼女自身は今も──知らない。
彼女はバッグから手帳を取り出し、その日の予定を確認した。確認するまでもなく、内容は把握していた。把握していても、確認の動作だけは身に着いていた。そんな動作だけが、彼女の現在を支えている。
その週末、和真は未智佳と会った。
駅近くの和食屋で、彼は普段通りに振る舞った。普段通りに振る舞うこと自体が、彼にはやや不自然な努力を要した。何かを訊いてはならない気がする。けれども、何かを訊かないでいることもまた、不自然である気がする。彼は、業務の周辺の話題を、慎重に選んで繋いだ。
未智佳は、応じた。
応じる声は、整っていた。整っていたが、整いすぎていた。整いすぎているということは、彼女の中で何かが整えるための仕事を多めに引き受けている、ということではないか──和真は、そう感じかける。感じかけて、感じきれない。感じきってしまえば、それを言葉にせねばならなくなる。結局のところそのせいで、看取し得なくなる。それが和真にはもどかしく思われてしまう、どうにも。
部屋へ戻り、彼は彼女を抱いた。
いつも通りの順序で、いつも通りの呼吸で。彼女は応じたし、応じる身体は、変わらなかった。変わらなかったはずであった。けれども、和真は行為の途中、ある一点で止まる。彼女の腰のあたりであろうか。
布の摩擦の痕跡が、ほんの僅かに残っている。新しい痕跡ではない。古い痕跡でもない。そんな間の何か──。
「──水無瀬さん」
彼はつい、社内での呼びかけで声を発していた。
「……うん」
「いえ」
いえ、とだけ言って、彼は続けた。続けながら、自分が何を訊きたかったのかを、改めて考えてみる。考えを尽くしても……判らない。
判らぬまま、彼の身体は彼女の身体へ応じていく。応じている間、彼の裡にある問いは、問いの形を結ばぬままに、ただ漂っている──。
十月下旬の、ある平日の夜だった。
未智佳は、職場から少し離れた界隈のバーに、一人で入った。なぜそこへ入ったのかは、自分でも説明できない。会社の懇親会の流れで一度だけ訪れた店だった。今日は、誰の流れでもない。ただ、まっすぐ家へ帰る回路が、今夜は機能しなかった。
カウンターの隅で、ハイボールを頼んだ。
半分ほど呑んだ頃、隣の席に若い男が座った。年は判らない。おそらく二十代半ばの男。男はスマートフォンの画面をしばらく操作し、それから未智佳の方へ貌を向けた。

「一人なんだね」
短い問いだった。
「……ええ」
「そう」
そう、で終わった。男は再び画面に目を戻す。けれども五分ほど経って、男はもう一度顔を上げた。
「もう一杯……奢るよ」
奢ろうか、ではなく、奢るよ、だった。確認の手前で、とうに決定がなされている。
未智佳は、頷いた。
会話らしい会話はなかった。男は仕事の話を少しだけ吐露し、彼女の仕事については訊かなかった。訊かれないことに、彼女は仄かな安堵を憶えた。安堵を憶えた事実を巡り、彼女はすぐに打ち消した、自らの裡で──。
二杯目が終わる頃、男は短く言った。
「行こうか」
行こうか、の行先は明示されない。明示されぬまま、二人は店を出た。
その部屋は、無機質だった。
男は、未智佳の服を脱がせる手順を、効率的に処理した。効率的とは、過程に意味を持たせないという事実を示す。男の手は、第一の男のように衒わない。けれども、第一の男のように確かめもしない。手順としてのみ、彼女の身体を辿っていく。
男は何も言わない。
褒めもせず、貶しもせず、ただ進める。
ベッドの上で、男の動きは器用だった。器用さは、技術である。技術は、温度を持たない。彼女の身体は、技術に応じて、湿る。湿ったのは事実だった。事実だったが、湿ったその先が、彼女の中で繋がらない。
第一の男は、言葉で彼女の認識を撹乱した。
第二の男は、言葉そのものを差し出さない。
言葉のない場所で、未智佳は、自分の身体の反応を、ただ事実として観察する。観察するしかなかった。観察される身体の応能は、応能であるはずなのに……応じる先を持たない。
そして、もう一つ。
第一の男は、彼女が観たことのない自分を、男の眼の中で形にした。形にされた自分は、男の言葉によって輪郭づけられた。第二の男は、観ているのか、観ていないのかさえ、彼女には判らない。男の眼は、機能としてだけ動いている。彼女の身体のどこを観ているのかが、彼女には届かない。届かないままに、行為は進められる。男の眼の中の自分は、今夜は──存在さえ確かめられない。
ふと、彼女は気づく。
和真の手は、こうではなかった。和真の手には、急がない呼吸があった。急がないということは、待っているということであった。何を待っていたのか。彼女は判らない。判らないにせよ、待たれていた、ということは、身体の側で確かに知っていた。
待たれていない手は、ただ進める。
進められた身体は、応じる。応じることが、応じることでしかない。意味の貧しさが、そこにあった。気づきかけて、気づきにならぬまま、彼女は果てた。
果てたというより、単に男が終えた。男が終えたから、行為は射精のみを以て、途絶したに過ぎなかった。
帰り道、彼女は地下鉄に乗らなかった。タクシーを拾い、後部座席で頬杖を衝く。窓の外を、夜の街の灯りが流れていく。流れている、と思った。流れている、という事実だけが、その夜の彼女の認識として残った。
十月の最終週、ある同期から連絡が来た。
大学時代、同じ学部で講義をともにした程度の繋がりであった。何度か顔を合わせた。話したことも、数度はある。卒業後、別々の道を歩んだ。その同期が、十人ほどの小規模な集まりを企画したという。
いつもなら、未智佳は断った。
断る理由を、彼女はいくらでも持ち合わせていた。
「仕事が立て込んでいて」「最近、体調が」──それらしい流し方など、いくらでも可能であった。
けれども彼女は行く、とそう返した。
返した自分に──。
彼女は僅かに驚いた。けれども──。
驚きは、深まらなかった。
深まる手前で、彼女は次の業務へ意識を移した。
集まりは、駅近くの居酒屋だった。
懐かしい顔がいくつかあった。挨拶を交わし、近況を尋ね合う。会話は流れる。流れる会話の中に、ある男の貌があった。
名前は、思い出せた。学部は同じだったが、ゼミは違った。講義室で前後に座ったことが、確か数回ある。話したことは、ほとんどなかった。社会人になってから、一度もすれ違ってはいない。
その男が未智佳の隣に、流れのままに座った。
二次会の店で、いつの間にか席の配置が変わり、二人だけが隅のテーブルへ追い遣られていた。誰かの判断ではない。誰の判断でもない。ただ、そうなったに過ぎない。
「水無瀬さん──久しぶり」
「……ええ、お久しぶり」
会話は、当たり障りがなかった。仕事の話、共通の同期の近況、学生時代の瑣末な記憶。男は静かに呑み、静かに話した。第一の男のような感極まりも、第二の男のような、雑めいた事務性もない。ただ、彼女をかつて知っていた男として、彼女の前に座っていただけ。
ある瞬間、男はふと告げた。
「水無瀬さん、変わったね」
変わった、とだけ、男は言う。
何が変わったのかは、続けない。続けないまま、男はグラスへと手を伸ばした。
その夜、二人は流れのままにホテルへと向かった。
どちらから誘ったのかは、判然としない。判然としないまま、別にそれでもよい、という共通の了解だけが、両者にはあった。
部屋で、男は未智佳の身体を、第一の男や第二の男とは違う手つきで触れた。
慣れている、という感じではない。
迷っている、という感じでもない。
ただ、確かめている手つきであったのは……間違いないかもしれない。
学生時代の彼女を、男は知っている。あの頃の整えられた未智佳を、男は廊下で、講義室で、何度か観たはずであった。観ていた彼女と、今、自分の手の下にある彼女が、同一人物であることを、男は手の中で確かめていた。
「……想像していたのと、違う」
短く、男は言った。
違う、が、何を指しているのかは、明示されない。明示されぬまま、男は続けた。
「学生の頃の水無瀬さんは、もっと──」
もっと、で、男の言葉は途切れた。
もっと、の続きを、男は呑み込んだ。呑み込んだ続きが、未智佳の中で、増殖をし始める。
もっと、整っていた。
もっと、隔たっていた。
もっと、触れられない女だった。
男が言わなかった続きの全てが、未智佳の中で勝手に像を結び、勝手に過去の彼女を呼び寄せた。学生時代の彼女。和真を知らなかった彼女。「普通じゃないかな」と言われたことのない彼女。整えることが、まだ意味を持っていた頃の彼女。
その彼女が、今、自分の身体の下で、男に触れられている。
触れられている彼女と、思い出されたであろう彼女が、同一人物として接続される。しかしその接続は、未智佳の中で、これまでになく最も深くで何かを軋ませた。
そして、もう一つの接続もまた、彼女の中で密かに起きていた。
学生時代の彼女を、男は男の眼の中に保管していた。保管されていた彼女を、男は今、現在の彼女と引き比べている。男の眼の中の彼女と、彼女自身の裡にある彼女が、同じ場所で並んでいない。男の眼の中の彼女の方が、彼女自身よりも、輪郭がはっきりしている。
未智佳は自分の輪郭を、いつから観ていなかったのであろう。観ていない自分が、男の眼の中だけに、確かに存在し続けていた。
身体は、応じた。
応じたにせよ、応じる身体の奥で、もう一人の彼女が泣いていた。にも拘らず──泣いている、とは認めない。認めれば、確定する。確定すれば、戻れない。けれども、認めずにいる合間にも、奥にある自身は、確かに泣いていた。
行為が終わった後、男は静かに身を起こし、煙草に火を点もす。煙が、天井へとゆらりと昇っていった。男は何も言わない。未智佳も、何も言わない。
言うべきことが、互いに、ない。
ない、という事実だけが、その夜、二人の間で唯一「共有されたもの」であった。
十月最後の金曜日、和真と食事をした。
駅近くの店で、酒は控え目に、会話も控え目に。和真は、何かを訊きたそうにしていた。訊きたそうにしているのを、未智佳は知っていた。知っていたが、訊かれるのを彼女は躊躇った、望まなかった。望みはしない事実を、彼女は表情に出さなかった。
和真もまた、訊かなかった。
訊けば、何かが分化する。分化すれば、彼が何を訊いたのかが確定する。確定したものは、もう戻せない。彼は、訊きたい何かを、訊きたい形のままで、自分の中に留めた。
部屋で、二人は抱き合った。
いつも通りの順序で、いつも通りの呼吸で。
けれどもある瞬間、未智佳は和真の手の下で、自分を整いきれない現実に気づいた。整いかける。整いに近づく。けれども、最後の一点で……整わない。
整わなさを、彼女は和真に隠した。
隠したつもりでいた。
和真は、隠されたことに気づいたかもしれない。気づいても、言わなかった。言えば、何かが分化する。彼もまた、分化を恐れていた。

行為を終えて、彼女は和真の腕に包まれる。
彼の心音が、ゆっくりと聴こえる。聴こえる心音は、変わりない。変わりない心音の隣で、彼女は──ふと、眸を閉じた。
眸を閉じた瞼の裏に、十月のさまざまな夜が、断片として浮かぶ。第一の男の「自然です」。第二の男の沈黙。第三の男の「もっと──」
三つの断片は、繋がらない。繋がらないまま、別々に明滅して、消えていく。
消えた後に、和真の心音だけが、響いている。
残ったものを、彼女は──受け取り損ねた。
