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酔夢未譚──Somniorum vulneribus ebrius fari nequeo.5(全九回)

 八月の朝は、七月のそれよりも明るい。
 明るいというより、逃げ場がない。窓硝子へ貼りつく光も、舗道から立ち上る熱も、駅のホームへ流れ込む湿った風も、すべてが同じ方向から身体へと迫る。そんな只中で、水無瀬未智佳みなせみちかはいつも通りに歩いていた。
 いつも通りに、という言葉を彼女は確信している。
 乳白のブラウスは七月よりも薄く、ジャケットは出勤時だけ携える程度になっている。補正下着もすっかり夏用へ替えた。締めつけは軽く、布地も頼りない。その頼りなさを、未智佳みちかは少し前まで不安として感じていた。だが今は、その軽さの内側に、別の記憶がある。
 夜の記憶であった。
 和真かずまの手が、そこに触れている。
 職場の廊下で、エレベーターホールで、朝の化粧室で、ふとした拍子にそれを思い出す。思い出そうとしたのではない。思い出さないように構えるほど、まだ自分は明瞭に乱れていないと思っている。けれども、身体の奥に沈めたものは、ときとして指先よりも早く眼をます。
 
 未智佳みちかは、鏡の前で口角を整えた。
 大丈夫。
 今日も、水無瀬未智佳みなせみちかとして足りている。
 そう判断してから、彼女は洗面台の蛇口を止めた。

 石田和真いしだかずまは、八月に入っても石田和真いしだかずまであった。
 新卒らしい硬さはだいぶ薄れたものの、急に器用となるものでもない。業務報告は短い。雑談へ入ると、少しだけ間が空く。同期たちが昼休みに笑い合う輪の中でも、彼は大きく声を出す側ではない。問われれば答える。必要なときは動く。余計なことはあまり言わない。
 未智佳みちかはその凡庸さに、以前とは異なる落ち着きを感じるようになっていた。
 何かを飾るための言葉を、彼はあまり持っていない。
 だからこそ、彼が言わないものまでを、彼女の方で勝手に受け取ってしまうことがある。
 それが危ういのか、幸いなのか、未智佳みちかにはまだ判らなかった。

 月初の部内ミーティングが終わった昼過ぎ、未智佳みちかは会議室の後片づけをしていた。
 配布済みの資料を回収し、使用済みのマーカーを備品箱へ戻し、椅子の位置を揃える。誰かが一つだけ椅子を斜めに引いたままにしていた。未智佳みちかはそれを戻そうとして、足許あしもとのケーブルを避ける拍子に、ほんの僅かだが体勢を崩した。
 転ぶほどではない。
 そう思うより先に、和真かずまの手が彼女の肘を受けていた。
 強くはない。引き寄せるでもない。関節の逃げる方向方角を知っているように、力の入る手前で軽く止める。そのまま未智佳みちかの重心が戻るまで、彼は何も言わなかった。
「……ありがとう」
「大丈夫ですか」
「ええ、少し、ケーブルに」
「すみません、先に片づければよかったですね」
石田いしださんのせいではありません」
 それだけの会話だった。
 だが、未智佳みちかは自分の肘に残った感触を、資料の角を揃えながらしばらく忘れられなかった。
 和真かずまは、そういう受け止め方をする。
 
 女を支えるためにそうするのではない。してや、気の利いた男として振る舞おうとしているのでもない。咄嗟とっさに身体が動くのであろう。
 のちいたことがある。
石田いしださん、何か運動をしていたのかな」
「柔道を少しだけ」
「柔道……」
「小学生から高校くらいまでです。初段だけは取りましたけど、熱心だったかというと、そうでもないです」
 その言い方が、いかにも彼らしかった。
 誇るほどでもない。隠すほどでもない。自分の身体に残っている癖を、ただ事実として表出しているだけであった。
 未智佳みちかはそのとき、妙に納得した。
 彼の手は、何かを奪う手つきではない。倒れない場所へ戻すための手つきであった。
 尤ももっと 、そのことが彼女を安心させると同時に、思いも寄らぬところまで崩してしまいかねないそれだと、和真かずまは知りもしない。

 その週の金曜日、二人は仕事帰りに駅から少し離れた店で食事をした。
 今となっては、珍しいことではなくなっていた。最初は「少しだけ食べて帰る」だった。次は「金曜ですし」となり、その次には、どちらから誘ったのかも曖昧になった。
 職場では、和真かずまは彼女を水無瀬みなせさんと呼ぶ。
 店を出て、駅から遠い方へ歩き始める頃には、未智佳みちかと呼ぶ。その切り替わりが、未智佳みちかにはまだ少しだけ眩しい。
「今週、忙しかったですね」
「月初だから」
水無瀬みなせさん、いや……未智佳みちか、会議のとき少し疲れてました」
「そういうところだけ観なくていいの」
えたので」
「余計です」
「すみません」
 謝る声が本気だから、未智佳みちかは困る。
 困りながら、笑ってしまう。
 笑った自分に気づいて、彼女はまた少し困る。
 そういう夜が、八月にはもう幾つもあった。

 その夜は、未智佳みちかの部屋へ帰った。
 帰った、という言い方が自然になり始めている現実に、彼女は途中まで気づかないふりをしていた。
 いつからそうなったのかは、漠としてはっきりとはしない。和真かずまの部屋へ行った夜もある。未智佳みちかの部屋で朝を迎えたこともある。どちらも独りで暮らす場所であり、だからこそ、そこへ誰かが入ることには本来、もっと明確な境があるはずであった。
 だが、和真かずまはその境を大げさに跨がない。
 靴を揃える。鞄を壁際へ置く。借りたグラスをシンクへ運ぶ。そういうささやかな動作が、いつの間にか部屋の空気へ馴染み始めていた。
 未智佳みちかはそれが嬉しかった。
 嬉しいと認めるには、少し怖いほどに。

 部屋の灯りは、白くなりすぎない程度に落としてある。
 和真かずまはシャツの袖を緩め、未智佳みちかは髪を軽くまとめた。仕事帰りの身体から昼の硬さが剥がれていく。
 キッチンで冷たい茶を出したあと、未智佳みちかは何とはなしに背中を向けた。背中を向けた、というより、見られても構わない場所へ自分を置いたのである。
 和真かずまはすぐには近づかない。
 その間を、彼女はもう知っている。
 急がないこと。
 けれども、届かないのでもないこと。
 その中間で、彼の手はいつも彼女を待つ。

 ブラウスの釦を外す指先が、ひとつだけ遅れた。
 未智佳みちかは、和真かずまがそれを見ているのを知っていた。
 知っていて、逃げなかった。
 夏用の補正下着は、薄い。それでも、昼の彼女をどうにか形に留める最後の生地であった。和真かずまの指が背中へと回る。ホックが外れる。小さな音がして、肩から力が落ちた。
 その瞬間だけは、いつも少し怖い。
 昼の形が外れるからではない。
 外れたあとに残るものを、和真かずまがもう知っているから──。

「……ね」
 未智佳みちかは、自分で言ってから後悔しかけた。
「はい」
「……ここ」
 言いながら、自分の視線が下りる。
 薄く、押せばすぐに逃げてしまう膨らみ。
 乳暈だにゅううん けが、僅かに薄茶色く浮いている……そこへ据えられる、不均衡な乳頭はくすんだ紅を濃く挿している。
 昔──高校生の頃から、そこだけは足せなかった。飾れなかった。均せなかった。脱衣所で眼にした、ほかの女の子たちのように……自然な丸みを形象かたどることも、淡い桜色の輪郭と尖端を当然として備えることもできなかった。
 できなかった、と思っていた。
 だから補った。盛った。収めた。隠した。
 そうして、誰の眼にも触れさせなかった。
 それで、水無瀬未智佳みなせみちかとして立ってきた。
 
「……ここ、ずっと嫌いだったの」
 言葉は短かった。
 短すぎるほどであった。
 だが、それ以上を言えば、全部が説明になってしまう気がした。
 和真かずまは、一度だけ観た。
 眼をらすのでもなく、魅入るのでもなく、ただそこにあるものとして観る。
 それから、少しだけ眉を寄せた。
「普通じゃないかな」
 未智佳みちかは、息を止めた。
 名答ではなかった。
 慰めでもなかった。
 彼は多分──何も判っていない。
 判っていないのに、その手がそのまま触れた。
 否定するでも、褒めるでも、何かを補うでもなく。
 ただ、そこへ触れた。

 未智佳みちかの中で、長く蓋をしてきたものが、音もなく外れた。
 救われた、というのでもない、聊かいささ 違う。
 ゆるされた、というのともやはり……少し違う。
 
 彼女が長いこと思考の奥へ閉じ込めてきた一点を、和真かずまの考えない手が、いとも普通に現実へと戻してしまったのである。
 未智佳みちかは、彼の肩へ額を寄せた。
 涙は出なかった。髪留めバレッタが外れ、まとめていた髪がはらりと落ちた。
 出なかった代わりに、身体の奥がひどく静かに熱くなる。
和真かずまくん」
 その呼び名は、もう仕事の場には戻れない声であった。
 和真かずまは「はい」とだけ答える。
 その短さが、また彼らしかった。

 夜は、ゆっくりと彼女の輪郭をほどいた。
 和真かずまの手は、彼の生き方──その結果と還元に過ぎないのであろう。
 相変わらず巧みではなかった。慣れた男の手でさえない。けれども、なるがゆえに強引さがない。押さえ込むのではなく、逃げるところを逃がしたまま、戻ってくる場所だけを残す。未智佳みちかはその腕の中で、何度も息を失い、何度も息を取り戻した。
 言葉は少なかった。
 彼女が一度だけ小さく首を振ると、和真かずまは待った。彼女が自分から近づくと、今度は躊躇ためらわなかった。
 その均衡が、未智佳みちかには不思議であった。
 
 考えているのではない。彼はそこまで考えていない。だからこそ、その触れ方はまるで作為の外にある。
 身体はやがて濡れ、湿り、あふれた。
 未智佳みちかはその事実を、もう隠そうとはしなかった。
 和真かずまの手が知っている。和真かずまの呼吸が知っている──自分の指では届かなかった場所へ、彼は名付けもせずに多くを届けてしまう。
 未智佳みちかは、身をらせた。
 驚くほど自然に、彼を受け入れていた。

 事後、彼女はしばらく和真かずまの胸に頬を寄せていた。
 空調の音が微細に聞こえる。外では、車が一台通り過ぎる。部屋は彼女の部屋であるはずなのに、今はもう二人でいるための場所になっていた。
 
「変だった、かな」
 未智佳みちかは、ふといた。
 和真かずまは、何のことなのか判らない顔をしていた。
「さっきの、話」
「変じゃないです」
「本当に……そうなのかな」
「はい」
「どうして、そんなに簡単に言うの?」
「簡単だから、そうとしか」
 未智佳みちかは小さく笑った。
 笑ってから、急に黙った。
 
 簡単ではなかった。
 自分にとっては、簡単ではなかったのである。
 けれども、彼にとっては簡単である。それが今夜は堪らなくありがたかった。
 そのありがたさが、いつか別の何かへ変わってしまうのか否か、少なくとも今の未智佳みちかには、どうでもよかった。
 考えずに、ただ眼を閉じた。
 これが続けばいい。
 そう思った。
 思ってしまう日常が、確かに存在している──。

 盛夏も日を重ねるにつれ、二人の時間はその形を豊かにしていった。
 金曜日の夜に食事をし、互いに強くはない酒をたのしみ、そしてどちらかの部屋へと帰る。土曜日に買い物へ出る。日曜日の午前中を一緒に過ごすこともある。いつもではない。
 約束として決めているわけではない。それでも、そうなっても何ら不自然ではなくなっていた。
 
 恋人、という言葉を二人は、まだきちんと定義してはいない。
 だが、そうしなくても判ることはある。
 未智佳みちか和真かずまの部屋に置かれたマグカップの位置を知っている。
 和真かずま未智佳みちかの部屋で、洗面台の左側のタオルを使う。
 冷蔵庫の中に何があるかまでは大凡おおよそしか知らないが、何もない日に近くのコンビニへ寄ることは当たり前になっていた。
 そういう小さなことが、未智佳みちかを満たしていた。
 満たす、という言葉では足りないほどに。

 その土曜日、未智佳みちかは朝から落ち着かなかった。
 落ち着かないと言っても、乱れているわけではない。むしろいつも以上に手順は正確であった。洗濯物を干し、浴室を軽く洗い、部屋の床へ掃除機をかける。昼前には髪を整え、薄く化粧を済ませた。
 夕方から、花火大会へ行く約束であった。
 会社の近くでも、二人の家の近くでもない。少し電車に乗った先の川沿いで行われる、ほどよく賑わう夏の催しである。彼女がその予定を口にしたのは、一週間ほど前であった。
「浴衣、持ってるかな」
「持ってないです」
「そう」
水無瀬みなせさんは、持ってるんだよね……未智佳みちか、あ、未智佳みちかさん」
「持ってる……あなたの分も、用意できるかもしれない」
 言ってから、未智佳みちかは少しだけ頬を熱くした。
 用意できるかもしれない、ではない。
 もう用意するつもりでいた。

 和真かずまが彼女の部屋へ来たのは、午後四時を少し回った頃であった。
 外はまだ明るい。陽射しは傾き始めているのに、熱だけは建物の壁へまとわりついている。
 和真かずまは手に、袋を一つげていた。
 中身は缶入りの冷たい茶と、途中で買ってきたらしい小さな菓子が二つ、三つほどであったか。
「差し入れです」
「ありがとう」
「浴衣、着られるか分からないです」
「私がやるから大丈夫」
 そう言ってから、未智佳みちかは自分の声が少し弾んでいるのに気づいた。
 
 彼女はクローゼットの奥から、畳紙に包んだ二組の浴衣を出した。
 自分のものは、薄い藍地に白の草花が流れる柄。和真かずまのものは、生成きなりりがかった灰地に細い紺の線が入った、控えめな柄であった。完全なお揃いではない。けれども、並べるとどこかで呼応している。藍と紺。白い抜け。流れの細さ。
 未智佳みちかはそれを選んだ折の自分を、少しだけ恥ずかしく思う。
 同時に、今こうして和真かずまの前へ広げている事実が、どうしようもなく嬉しかった。

「似合いますかね」
「着てみないと判らないでしょ」
「ですよね」
「そこ、立って」
 和真かずまは素直に従った。
 その素直さが、また未智佳みちかを笑わせる。
 まず彼のシャツを脱がせる。脱がせる、という言い方が自分の中に浮かんでしまい、ふと彼女は一瞬だけ指を止めた。だが彼は気づかない。気づいても、たぶん何も言わない。
 肌着一枚になった彼の肩は、知っていたそれよりもきちんと筋肉がついていた。鍛え上げられた、というほどではない。ただ、昔から身体の遣い方を知っている人の、余分に力んでいない線がある。
 未智佳みちかは帯を取る前に、浴衣を彼の肩へ掛けた。
 布が、彼の身体を別の男に変える。
 会社の石田いしださんでも、部屋で少し寝癖をつける和真かずまくんでもない。夏の夕方、彼女が用意した布を身に着ける、ただの『一人の男』であった。

「動かないで」
「はい」
「腕、少し上げて」
「こうですか」
「上げすぎ」
 帯を回すために、未智佳みちかは彼の正面から近づいた。
 距離が近い。近いのに、作業のためだと言える。言えるはずであった。
 帯を締める指が、彼の腹の前で止まる。
 和真かずまの呼吸が、ほんの僅かに変わった。
 未智佳みちかはそれを知る。
 知って、嬉しくなる。
 浴衣の襟を直そうとした指先が、彼の鎖骨に触れた。和真かずまは動かない。動かないまま、彼女を観る。
 作業の続きであった。
 けれども、続きではいられなかった。

 未智佳みちかは、先に眼を伏せた。
 その眼を伏せた仕草が、かえって合図になったのかもしれない。和真かずまの手が彼女の腰へ触れる。浴衣を着せている途中の手つきではない。けれども、急に奪うような手つきでもない。
 未智佳みちかは逃げなかった。
 むしろ、一歩だけ近づいた。
 帯を持ったままの指が、彼の背中へ回る。結びかけの布が二人のあいだで少し崩れた。
 その崩れ方が、どう仕様もなくなまめいていた。

 行為へ至るまでに、明確な区切りはなかった。
 着替えの途中で、ただ境目が消えたのである。
 未智佳みちかの浴衣はまだ畳まれたままだった。和真の帯も、きちんとは結ばれていない。窓の外には午後の明るさが残っていた。明るい部屋で、用意された布の上に、二人の呼吸だけが少しずつ乱れていく。
 彼の肌へ触れ、自分の服をかれ、布と肌との境が曖昧となる。
 未智佳みちかは、恥ずかしい⋯⋯そう思う。
 同じくらい、幸せだと思う。
 観られている。触れられている。
 あのなだらかな起伏も、濃く浮く輪郭も、もう隠されていない。
 それでも、和真かずまだからよかった。
 彼のだから、彼の手だから。そうに違いない。
 彼女の身体は、夏の夕方の明るさの中で、静かに彼を受け入れた。
 激しさというより、堪えきれなかった親しさであった。
 今日という日の準備の中へ、身体が先にけてしまったのだ。

 しばらくして、二人は少し笑った。
 笑うよりなかった。
「……浴衣」
 未智佳みちかが言う。
「はい」
「着ないと、また始まっちゃう」
「もう……しちゃってましたよ」
「そういうこと……言わないで」
「すみません」
 和真かずまは本当に謝るので、彼女はまた笑ってしまう。
 その笑いの中に、先刻さっきまでの熱がまだ残っている。乱れた髪を整え、肌を軽く拭い、未智佳みちかは改めて自分の浴衣へ袖を通した。
 和真かずまは今度こそ、帯を結ばれる側に徹した。
 未智佳みちかが彼の帯を整え、自分の帯を締め、髪を少し上げると、部屋の空気がすっかり変わった。
 鏡の前へ並ぶ。
 完全なお揃いではない。
 だが、二人の色はどこかで──確実に繋がっていた。
 未智佳みちかはその映り方を、長くは観なかった。
 長く観れば、自分がどれほど満たされているかを、認めてしまいそうだから。

 花火大会の会場は、予想通り混んでいた。
 川沿いの道へ屋台が並び、焼きそばや甘いソースの匂い、冷えた飲み物の水滴、子どもの声、浴衣の裾が擦れる音が、夏の夕暮れへ幾層にも重なっていた。未智佳みちかは下駄にまだ少し慣れない。和真かずまも、浴衣の裾を気にして歩幅を小さくしている。
「歩きにくいですね」
「でしょう」
未智佳みちか、さんは慣れてるんですか」
「少しだけ」


 人の流れが一度、横から押した。
 未智佳みちかの身体が揺れる。和真かずまの手が、自然に彼女の手首をった。
 強くはない。
 逃げる方向へ倒れないように、ただ支えるだけ。
 未智佳みちかは、そのまま彼の手を握った。
 和真かずまが少しだけ眼を向ける。
「……このまま」
 彼女は言った。
「はい」
 彼はそう答えた。
 それ以上、何も言わない。
 それで足りた。

 花火は、予定通り七時過ぎに始まった。
 最初の一発が川の上で弾けると、人波のざわめきが瞬く大きくなり、すぐに歓声へと変わった。赤、翆、金。大きな円が夜空へと放射しつつ広がり、少し遅れてから音が響く。
 未智佳みちか和真かずまの隣に立っていた。
 浴衣の袖が触れる。手はまだ繋いでいる。特別な会話はない。あれが綺麗だとか、大きいだとか、そういうありきたりな言葉をときどき交わすだけである。
 それでよかった。
 むしろ、それがよかった。
 光が彼の横貌よこがおまにまに照らす。すぐに暗くなる。また別の光が開く。そのたびに和真かずまかおは、少し違ってえた。
 未智佳みちかは、胸の内側が穏やかに満ちていくのを感じていた。
 ここにいる。
 彼がいて、自分がいる。
 その事実へ、これ以上何を足せばいいのか判らなかった。

 花火が終わったあと、人々はゆっくりと駅を目指して流れ始めた。
 火薬の匂いが夜気の只中に薄く漂っている。耳の奥には、まだ低い音の余韻がある。未智佳みちかは少しだけ疲れていた。だが、その疲れでさえも、心地よかった。
「少し、呑んで帰りませんか」
 和真かずまが言った。
「浴衣……のままだけれど」
「駄目ですか」
「駄目じゃないけど」
「じゃあ」
「……少しだけね」
 少しだけ。
 その言葉を、二人はいつからこんなにも便利に使うようになったのであろう。
 未智佳みちかはそう思いながら、しかし否定はしなかった。

 川沿いから少し離れたところに、小さな店があった。
 花火帰りの客が数組いるだけで、思ったほど騒がしくはない。二人は奥の席へ通された。
 浴衣の袖を気にしながら座る。いつもの店より少しだけ非日常のようで、それでいて妙に落ち着いた。
 和真かずまはビールを頼み、未智佳みちかは白ワインにした。
 強い酒ではない。
 常飲しているのでもない。
 ただ、週末の夜に、二人で呑む。それだけのことが、いつの間にか特別な手順になっていた。

「今日、楽しかったです」
 和真かずまが、少し間を空けて言った。
「それ……だけ、かな」
「それだけです」
石田いすださんらしい」
「今、石田いしださんですか」
「……和真かずまくん」
「はい」
 未智佳みちかは、グラスの縁へ唇を寄せた。
 
 少し冷えたワインが、喉の奥へ落ちる。酒精は強くないのに、身体の中でゆっくりほどける感じがある。
「似合ってる」
 未智佳みちかは言った。
「浴衣ですか」
「うん」
未智佳みちか、さんが選んだので」
「そういう返し、ずるい」
「ずるいですか」
「少し」
 和真かずまは困ったように笑った。
 その笑い方が、彼女には胸が痛むほど愛おしかった。
 愛おしい。
 そう思ってしまった。
 その言葉を、彼女は声にしない。
 声にしないまま、グラスをそっと置く。

 会話は、とりとめもなく続いた。
 花火のこと。屋台の匂いのこと。下駄が思ったより痛いこと。和真かずまが子どもの頃、夏祭りで迷子になりかけたこと。未智佳みちかが学生時代には、こういう催しへあまり積極的に出かけなかったこと。
 未来の話はしなかった。
 来年の話もしなかった。
 恋人という言葉も、口にはしなかった。
 それでも、二人の合間にあるものは、もう充分に恋人のそれであった。
 彼女はそれを、はっきりと受け取っていた。
 確実に……受け取っている。

 店を出る頃、夜は深くなっていた。
 駅へ向かう人の流れはだいぶ薄れ、川の方から湿った風が吹く。未智佳みちかは少しだけ足を止めた。下駄の鼻緒が当たって、足の指のが熱い。
「痛いですか」
「少し」
「ゆっくり行きましょう」
 和真かずまは彼女の歩幅に合わせた。
 それだけのことであった。
 だが未智佳みちかは、その「それだけ」にまた満たされてしまう。
 この人となら、ゆっくり歩ける。
 そんなことを思った。
 思ってから、けれども言葉にはしなかった。

 部屋へ戻ると、二人は浴衣をすぐには脱がなかった。
 灯りを仄かに落とし、冷たい水を飲み、しばらく畳に座った。外の熱がまだ身体に残っている。帯の締めつけと、酒の柔らかな緩みと、花火の音の残響とが、未智佳みちかの中で静かに混ざっていた。
 やがて和真かずまが彼女の帯へと手を伸ばす。
 先刻さっきの夕方とは違う。
 今度は、すべてが終わったあとの手であった。
 結び目が緩み、布がほどけ、浴衣の襟が開く。
 彼女は抵抗しなかった。
 抵抗どころか、自分から彼の肩へ額を預けた。
 ベッドへ至るまでの時間は、ひどく静かだった。
 頂点は、もう過ぎていた。
 だからこそ、身体は焦らなかった。
 
 和真かずまの手は、いつもよりさらに言葉少なであった。未智佳みちかの身体も、既に答えを知っているように彼へと沿った。
 夜は、余韻として二人を包んだ。
 たかまるためではなく、満ちていたものを確かめるために、二人は触れ合った。
 
 未智佳みちかは一度だけ、彼の名を呼んだ。
和真かずまくん」
「はい」
「今日、よかった」
「はい」
「すごく」
「……はい」
 それだけで、言葉は足りた。
 その夜の感応は、激しくはなかった。
 けれども、深かった。
 身体が、ひとつの時間をなぞり直すように、二人は静かに求め合った。終わってからも、終わったという感じがしなかった。
 ただ、長い一日が、少しずつ眠りへと沈んでいくだけであった。

 翌朝、未智佳みちかは先に眼をました。
 窓の隙間から入る光は、昨日の夕方とは違って白い。和真かずまはまだ眠っている。髪が少し乱れ、寝息は思ったよりも幼い。
 未智佳みちかは起こさないよう床を離れた。
 浴衣は椅子の背に掛けてある。帯は畳まれていない。部屋には、昨夜の花火の匂いなど残っていないはずなのに、何かがまだ確かに続いているようであった。
 彼女はキッチンへ立ち、湯を沸かす。
 
 カップを二つ出す。
 二つ──。
 その数が、ひどく当たり前に思えた。
 戻ってくると、和真かずまが眼を開けていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨日、寝ましたよね」
「うん……眠れた」
「少し、楽しそうでした」
「寝てたのに……」
「寝る前が」
「……余計なことを」
 未智佳みちかはそう言いながら、笑っていた。
 その笑いが、自分でも判るほどに自然であった。
 この朝まで含めて、昨日の一日は完結したのだと彼女は思った。
 あるいは、完結したのではなく、続いているのだと。
 それがどのように認識されるべきか、彼女には判らない。

 数日は、何も起きなかった。
 月曜日、未智佳みちかはいつも通り出勤した。資料の確認にせよ、会議の進行補助にせよ、部内チャンネルの返信にせよ滞りはない。和真かずまとも、いつも通りに言葉を交わした。
石田いしださん、午前中の議事録、確認しました」
「ありがとうございます。修正ありますか」
「一箇所だけ、表記を部内ルールに合わせてください」
「判りました」
 それだけ。
 それだけの遣り取りが、むしろ穏やかだった。
 火曜日も、水曜日も、彼女は大きく崩れなかった。
 メッセージアプリには短いやり取りが残る。

   「鼻緒……大丈夫でしたか」
   
   「少し赤くなっただけ」
 
   「次は歩きやすい靴にしましょう」
 
   「次……があるのね」
 
   「あります」

 その返信を見たとき、未智佳みちかは化粧室の個室で小さく息をいた。
 あります。
 彼は、そう書いた。
 それだけで、その日の午後を少し楽に過ごせた。

 違和が訪れおとず たのは、木曜日の夜であった。
 週末からは、数日が過ぎていた。幸福の余韻が薄れたのではない。日常の中へ少しずつ馴染んでいる……そうであった。
 帰宅をし、靴を揃え、手を洗い、シャワーを浴びる。髪を乾かし、肌を整え、部屋着へ替える。いつもの順番である。未智佳みちかは軽い食事をり、皿を洗い、照明を落とした。
 そして、夜の儀式へ入る。
 それは、もうめるようなものではない。
 和真かずまを知ったからといって、彼女が独りの夜を失うわけではない。むしろ和真かずまと会えない夜だからこそ、そこで自分を整える必要があった。
 以前と違うのは、儀式の中に和真かずまの感触が自然と混じることである。
 彼の手。
 彼の息。
 彼が何も言わずに触れる
 それらを思い出すことは、もう禁忌ではない。少し前までは、侵入であったものが、今では余韻になっている。
 未智佳みちかは、その変化を幸福として受け取っていた。

 指先は、いつものように内側の熱へと降りていく。
 身体は応じた。
 湿りもある。熱もある。彼を思えば、淡くたかまる。そこまでは、何もおかしくない。
 だが、終わりの手前で──何かが繋がらなかった。

 何か、としか言いようがない。
 身体は終わろうとしている。けれども心のどこかが、終わりのそれとして受け止められてはいない。
 未智佳みちかは息を整えた。
 疲れているのだと思った。
 夏の暑さ、上期仕上げの業務、花火大会の疲れ。理由はいくらでも思いつく。理由を並べれば、問題にはならない。
 そう思って、彼女は手順通り続けた。
 やがて身体は静まった。
 静まったはずであった。
 だが、終わった、という感覚だけが……遅れている、否。
 来ない──。

 未智佳みちかはベッドの縁に座ったまま、しばらく動かなかった。
 泣くほどではない。
 怖いほどでもない。
 ただ、何かが少しだけ残っている。
 残っている、という言い方さえ正しいのか判らない。取り残されたのか、置き忘れたのか、初めからそこにあったのかも判らない。
 彼女は清潔な布で床を拭い、掌を洗った。
 鏡の中の自分は乱れていない。
 乱れていないのに、整った感じが鈍い。
 彼女は照明を消した。
 気のせいにするには打ってつけの、まだささやかな違和でしかない。

 翌日の仕事には、何の支障もなかった。資料は揃う。会議の時間も間違えない。
 和真かずまと昼過ぎにすれ違えば、いつものように短く会釈し言葉を交わす。
 そうして──夕刻にほど近い頃、ラウンジでコーヒーを求める最中に、プライヴェートなメッセージが届いた。

   「今日少し遅くなりそうです」
 
 和真かずまからのメッセージであった。
 自席へと戻ると、部内チャットに紛れる彼のそれがあった。

   「部内の確認が伸びています。
   確認できましたら連絡します。」

 未智佳みちかはすぐに返した。ともあれ部内チャットにせよ『意思表明』はかなう。
   「無理しないで下さい。
   私の方は問題ありません。」

 問題ありません。
 そう書いた時、自分の言葉が少しばかり硬いのに気づいた。私的なそれとは違う、と。
 硬いからといって、嘘ではない。
 和真かずまと会えるなら、多分……きっと大丈夫なはずだし、問題ないはず。会えなくても、大丈夫でなければならない。
 問題ないはずでなければ──。

 その夜、二人は短い時間だけをともにした。
 駅近くの店で軽く飲食をし、疲れている和真かずまを彼の部屋の近くまで送る形になった。いつもと逆である。
「本当に、問題ないですか」
「それは私の科白せりふ
未智佳みちか、さん問題ありません……ただ少し硬かったので」
「またそれ?」
「はい」
 彼女は笑った。笑えた。
 和真かずまといると、ちゃんと整う。少なくとも、そう思えた。

 けれども、土曜日の夜、もう一度だけ同じことが起きた。
 和真かずまとは会わない日であった。彼は同期との用事があり、未智佳みちかも午前中に家事を済ませ、午後は少し仕事の資料を読んで過ごした。何の問題もない一日であった。
 夜になり、いつものように儀式へと入る。
 和真かずまを思い出す。
 浴衣の帯を結びかけた夕方。花火の光。酒の席での困ったような笑い方。翌朝のカップ二つ。
 幸福な記憶ばかりであった。
 幸福なはずであった。
 なのに、終わらない──。

 身体は反応している、間違いなく。
 むしろ、反応しすぎているほどであった。熱はあり、湿りはあり滲んでいる。内奥は彼の名を知っているように疼く、間違いなく。
 それでも──。
 整う場所へ着地してはくれない。
 未智佳みちかは手を止めた。
 どうして……そう思った。
 思った瞬間、言葉が空回りする。
 何がどうしてなのか。
 和真かずまがいないから、ではない。
 そんな単純なことではない。彼が足りない、という言い方も違う。自分がきっと、欲深くなったのだと片づけるのも……やはり違う。
 違う。
 違うのに、正しい言葉がない。

 未智佳みちかは、もう一度手順へと戻った。
 戻れば整うと思った。そう、そも快楽のそれではない。飽くまで「整えるため」の儀式なのであるから。
 だが、手順は手順として残り、意味だけが少しずつ薄くなる。
 終えたあと、彼女は天井を見つめた。
 濡れているのに、潤ってはいなかった。
 以前にも似た言葉が、彼女の中へ浮かんだことがある。だが今は、その意味が少し違う。
 
 和真かずまを知らないから整わないのではない。
 和真かずまを知ってしまったから……きっと独りの夜が元の場所へと戻るを失っているのかもしれない。
 そこまで考えかけて、未智佳みちかを閉じた。
 まだ、そうとは言えない。
 言ってはいけない。断定出来ない。
 言えばあるいは……何かが本当に変わってしまうかもしれない、そんな気がした。

 日曜日の朝、未智佳みちかはいつもより早く起きた。
 洗濯をし、掃除をし、冷蔵庫の中身を確かめる。昼前に和真かずまからメッセージが来た。

   「昨日は遅くなりました
   今日はゆっくりしてください」

 彼は何も悪くない。
 悪いという考えそのものが、未智佳みちかには浮かばなかった。
 むしろ、彼との時間はまだ澄んでいる。会えば嬉しい。触れられれば安堵する。声を聞けば、呼吸が少し戻る。
 だからこそ、独りの夜に残る小さな不全を──彼女は彼へ持ち込めなかった。
 何を持ち込めばいいのかも判らない。
 不満ではない。不安ともまだ言えない。
 寂しさなら、もっと判りやすかった。
 けれどもそれは、どの言葉にも入らない。
 
 未智佳みちかは返信を打つ。

   「ありがとう
   今日は少し片づけます」

 送信してから、彼女は画面を伏せた。
 片づけます。
 自分で書いたその言葉が、妙に空々しかった。
 片づけたいのは部屋ではない。
 だが、ほかに何を片づければよいのか、彼女には判らなかった。

 その週の終わり、二人は会った。普段通りに。
 何も変わっていないように観えた。
 和真かずまは少し疲れていたが、未智佳みちかの話を聞き、彼女の歩幅に合わせ、部屋へ戻ればいつものように靴を揃えた。彼の手は変わらない。触れ方も、呼吸も、彼女を急かさない沈黙も変わりない。
 
 未智佳みちかは、彼の腕の中で確かに安堵した。
 安堵したから、余計に判らなくなる。
 自分は満たされている。それは間違いない。
 ならば、どうして──。

『独りの夜だけが、少しずつ終われなくなっていくのであろうか』
 
 彼女はその問いを、和真かずまへは告げなかった。
 けれども……そうではない。
 まだ問いとして、そも成立していなかったのである。
 ただ、夜の奥に、名もない余白だけが残り始めていた。

 整えるための儀式が整えられない事実こそ、あるいはその証明なのかもしれない。そのことを彼女は、まだ知らない。知らないまま、次の朝も鏡の前へ立つ。
 髪をき、口角を僅かに上げ、胸許むなもとの収まりを確かめる。
 不足はない。乱れもない。
 そう判断して、未智佳みちかは部屋を出る。
 
 八月の光は、相変わらず逃げ場もなく明るかった。
 その明るさの中で、彼女は今日も正しく歩んでいく。
 正しく歩んでいるはずなのに、どこか一箇所だけ、昨日の夜から戻ってこないものがあった。