大きい子ども
エッセイの前に-
写真はインスタグラムに置いています。良ければ
子ども、みたいな大人
コンビニのプリンを、スプーンで底から崩すようにして食べる。
蓋を開けた瞬間のカラメルの香りが好きで、それだけで少し、今日が報われる気がする。28歳になっても、そういうことがある。
誰かに言うほどのことでもないし、言わない。ただ、スプーンが容器の底に当たるあの感触と、甘さと苦さが混ざり合う瞬間のことを、僕はひとりで大切にしている。
子供っぽいと言われたことは、数えきれないくらいある。
好きなものを好きと言いすぎるとか、感情が顔に出すぎるとか、飽きっぽいとか、こだわりが変なところにあるとか。そのたびに僕は少し笑って、「そうですね」と言う。否定もしないけれど、肯定もしない、ちょうど曖昧なところに着地する。それが大人の作法というものなのだろうと、最近は思うようにしている。思うようにしている、というのが正確で、自然にそうできるわけではない。

少年みたい。ーー
これは褒め言葉として受け取っているし、たぶんそれは正しい。僕の中に、確かにそういう部分がある。珍しいものを見つけたときに目が輝くとか、好きな音楽がかかったときに少し体が動くとか、そういう隠しきれない反応が僕にはある。
だから否定はしない。
でも、その言葉を受け取るたびに、胸のどこかで小さな摩擦が起きる。
少年みたいな自分でいたいとも思っている。なのに、そう言われると、なぜか少しだけ、悔しい。その感情の正体をしばらく考えていたけれど、たぶん、見られたいのではなく、いたいのだと思う。
少年みたいに見える、という言葉は外側からの観察で、でも僕が守りたいのはそういう内側の温度のことで、それは他人に発見されるものではなく、ひとりで静かに抱えているものだった気がする。名前をつけられると、途端にそれは標本になる。
思えば、大人になりたいと強く思ったことがあまりない。なりたくなかったわけでもなく、ただそこに向かって特別な意志を持ったことがない、というだけで。気づいたら年齢だけが積み重なっていて、中身はどこかであの頃のまま時間が止まっているような感覚がある。駅のホームで電車を待ちながら、線路の向こうに夕日が沈んでいくのをぼんやり見ていると、小学生の自分と同じ目線で世界を見ている気がして、少し可笑しくなる。
あの頃も、こうして夕日を見ていた。何かを考えているようで、何も考えていなかった。今もたぶん、同じだ。ーー
でも社会というのは、そういう大きさのまま存在することを、だんだんと許さなくなっていく。何かを無邪気に喜ぶことも、よくわからない理由で悲しくなることも、会議室の中では邪魔なものとして扱われる。感情は管理されるべきもので、内側にしまっておくほどそれは成熟の証になる。
僕はその作法を少しずつ覚えながら、でも覚えるたびに何か薄くなっていくような気がして、それが何なのかをうまく言葉にできないでいる。隠すことと、消えることは、違う。そう思いたい。
コンビニのプリンを食べ終えて、透明な容器をゴミ箱に捨てる。さっきまでそこにあったカラメルの甘さが、まだ舌の奥のほうに残っている。ーー

久しぶりに投稿しました。最後まで読んでいただきありがとうございます。
良い週末を
