ファシストのジャガイモ
「ファシストのジャガイモを二皿分」から始めよう。一つ目は、偉大なる異端の精神分析家ヴィルヘルム・ライヒによるものだ。彼は1934年、次のように観察している。「ヒトラーがすべての労働者にジャガイモ一袋を贈ったことは、99パーセントがイデオロギーであり、実際的な価値はわずか1パーセントだった。」もう一つは、それからわずか数年後の1941年のもので、ピーター・ヴィアレックの『メタポリティクス』に登場する。ヴィアレックは、ファシズムにおいては「ジャガイモの価格でさえ英雄的でなければならない」と書いている。
今日なら、おそらく「ジャガイモ」を「卵」に置き換えるべきだろう。今年初め、ある種の痛点、ひょっとすると症状とさえ呼べるものを感じ取った人もいたのではないか。ドナルド・トランプが、チャーリー・カークの「卵の価格について騒ぐのはやめろ。トランプは消費者の負担を何百万ドルも軽減させている」と叫ぶ動画をリポストした、あの一件である。その直後、卵の価格は急騰した。しかし、卵の価格に、少なくとも願望の水準では、何か英雄的なものがありうるという考え方は、トランプの復帰を受けて、われわれに「現実を見ろ」「真剣になれ」「本当に重要なことに注意を向けろ」と繰り返し説いている、あの評論家たちの誰にも、すっかり失われてしまったようだ。つまり、彼らのいう本当に重要なこととは、別名で言えば、経済なのである。
今年1月に掲載された、ジェームズ・カーヴィルの論説を考えてみよう。かつてビル・クリントンを大統領の座へと押し上げた、あの男である。ここでカーヴィルは、トランプの2期目の就任式のわずか2週間前に、再び登場した。まず、自分はカマラ・ハリスについて間違っていたと認め、そのうえで、必要とされる贖罪、つまり現実への儀礼的な回帰を提示したのである。「われわれが負けた理由は、きわめて単純な一つしかない」とカーヴィルは書いた。「それは経済だったし、経済であり、そしてこれからもずっと経済であり続ける。馬鹿者め。われわれは2025年を、その真実をわれわれの政治的な北極星として始めなければならない。そして、それ以外の何ものにも気を散らされてはならない。」これは単なる中道派の癖というわけではない。バーニー・サンダースもまた、トランプ主義の主要な病理を突き止めたと思っていたようだ。就任式の直後、トランプが就任演説のなかで経済について何も語らなかったと指摘したのである。カーヴィルとサンダースは、多くの点で意見を異にしているにもかかわらず、二人とも、この経済という観念を、その意味も、またそれが持つ権威も、自明であるかのように扱っていた。肝心なところ。衣食住。生活費。これ以上、説明を要しないものがほかにあるだろうか。
この問題を掘り下げる前に、二つほど但し書きをしておきたい。第一に、私がこの経済という観念に圧力をかけるからといって、現実に作用しているものは必ずどこか別の場所にある、と言っているわけではない。むしろ私は、この、奇妙なほど自信に満ちた経済という観念そのものを、もっと厳しく見てみたいのである。第二の但し書きはこうだ。私がやろうとしていることは、ある意味では、人類学者が昔からやってきたこと、つまり、現代経済学が経済と呼んでいる、形式化され、宙に浮き、物神化されたものは、イデオロギー的な物象化にすぎない、と主張することそのものに見えるかもしれない。もちろん、それはそれでよいし、その指摘は正しい。しかし、それだけでは十分ではない。
では、この自己満足的な経済という概念を少しいじってみたいのなら、まず、「それは経済だ、馬鹿者め」という儀式的な訓戒が持つ意味について考えてみよう。もしも 経済という言葉が、心的経済(psychic economy)やリビドー経済(libidinal economy)をも意味するとしたら、その意味はどのようにずれ始めるだろうか。あるいは、バイデン元大統領の顧問だったニーラ・タンデンが「人々はこの生活費の問題を理解している」と言うとき、そこに心的な生活費(psychic cost of living)という意味も込めていたとしたら、どうだろうか。私は、これは空想的な、あるいは気まぐれな提案だとはまったく思わない。これが少しでも挑発的に聞こえる唯一の理由は、経済という観念が、いかにも自明であるかのように装われているからだ。実際、豊かに生きること、生活に必要なものを供給すること、健康、教育といった基本的な問題が、ドルやセントの問題であるのと同じくらい、私たちの心的な能力や余力の問題でもあるということ以上に、自明なことがあるだろうか。
第二の但し書き、つまり経済がイデオロギー的な物象化であるという点については、私がそれは正しいが、それだけでは十分ではないと言った理由は、私たちは同時に、そのような観念がどのような心的作業を行っているのかにも注意を向ける必要があるからだ。とりわけ、おそらく私たちは、それが不安を和らげるために行っている営為について考える必要がある。それが、私たち自身が抱えているある種のリビドー的な投資と向き合わずに済むよう、どのように私たちを助けているのか、ということだ。そして、そう、ここで 投資(investments)という言葉は実に適切である。この言葉は、株式市場を連想させると同時に、in-vested、すなわち「祭服をまとった者」に帰属する、いわば神学的な権威をも呼び起こすからである。
トランプへの反対勢力がこれほどひどく空回りしている理由の一つは、彼らがそこへ踏み込みたがらないことにある。いや、どうやってそこへ踏み込めばいいのか、分からないのだ。彼らはいまだに、今年初めにDOGEが連邦政府を荒らし回ったことが、実際には宣伝されていたような歳出削減を生み出さなかったと示すことで、得点を稼げると思っている。だが、DOGEのそもそもの狙いは、テック系の子ども軍団がそこへ乗り込んで物を引き裂き、あの、楽な閑職にあぐらをかいている官僚どもに頬っぺたを思いきりひっぱたく、その光景を見せてもらうことで得られるリビドー的な快感だったのではないか。
民主党がそれに対して打ち出せた最善のものは、数字を大真面目にファクトチェックしているのでないときには、前年の夏にティム・ウォルツが放った、弱々しい、ウケを狙った決め台詞の変種くらいだった。「あいつら、変だよ」。この伝統に沿って、2024年11月のトランプ勝利後、エズラ・クラインは、トランプを理解しようとする際の難しさは、彼が作り出す現実があまりにも狂っているため、それに関わろうとするだけで、自分まで正気を失ったように聞こえ始めてしまうことだ、とこぼした。物事が変になっていくにつれて、正常なものを失っていくという感覚こそが、非常に多くの人々を、経済という標識の出た安全地帯へと慌てて逃げ戻らせる、まさにその理由なのである。
亡霊が経済に取り憑いている。いや、それは幻影なのだろうか。ここでは、昨春、3CT創設記念カンファレンスでの基調講演においてジュディス・バトラーが展開した議論とともに考えてみたい。バトラーが論じていたのは、彼らが「ファシスト的情念」と呼ぶものだった。彼らによれば、ファシスト的情念は、ある種の幻影によって活気づけられている。そしてそれらの幻影は、彼らの言葉を借りれば、「興奮性が凝縮された場」として機能する。そのような幽霊的な興奮性の場の例としては、トランスの子どもたちに対するジェンダー肯定的ケア、移民があなたのペットを食べているという話、移民があなたの仕事を奪っているという話、そしてアメリカの白人性が持つ脆く張りつめた壮大さを薄めているという話、さらには一般に、家父長制的なアメリカの白人性の偉大な進路と大義を歪めるものとして想像しうるあらゆるものが挙げられる。それらはすべて、バトラーの言葉を借りれば、「恐怖を煽り、それが憎悪へと転化し、権威主義的指導者への大衆的支持へと転化する」幻影なのである。私はバトラーの「興奮性が凝縮された場」という表現がとても気に入っている。というのも、それは、こうした幻影が、扇動、挑発、活性化の強力な媒体であることを思い出させてくれるからだ。
さて、経済という問題に戻ると、こうした幻影は、経済を超えているという意味で、リビドー的投資の場だと言うことができる。つまり、それらには、リビドー的な意味で値段をつけることができない価値があるのだ。同時に、宣伝担当者や戦略家たちは、それらを絶えず経済化(economize)しようとしている。つまり、それらをさまざまな象徴的経済へと取り込もうとしている。言い換えれば、さまざまなイデオロギー的言説へと結びつけようとしているのである。非常に図式的に言えば、この一連の駆け引きは、扇動と封じ込めの弁証法である。あるいは、幻影と経済の弁証法と言ってもいい。この弁証法について重要なのは、それが必要であると同時に不可能でもある、ということだ。この弁証法が必要であるというのは、幻影から政治的な利得を引き出そうとするなら、それを、独自の経済、独自の等価性の論理を備えたイデオロギー的言説に結びつける方法を見つけなければならないからである。しかし同時に、この弁証法は不可能でもある。なぜなら、幻影の力は、利益、費用対効果、善と悪、あるいは合理的選択といった、いかなる計算にも還元できない興奮を煽り立てるところから生じるからだ。それは、私たちがあまりにも安易に振り回している、そうしたあらゆる種類の言葉、経済や論理、文法には還元できないのである。
たとえば、2024年の選挙の時期に、ペンシルベニア州北東部に暮らす、書類を持たない移民労働者がジャーナリストにこう語ったことを考えてみよう。「私はトランプ氏が大好きだ。もちろん、彼はいつでも私を送り返すことができる。でも、もしそうされたとしても、私はそれでも彼を愛するだろう」。この種の興奮は、経済の内部にあると同時に、その外部にもある。こうした興奮について、経済を超えているとだけ言うのでは十分ではない。なぜなら重要なのは、その過剰性そのものが、象徴的な経済と金融的な経済の双方を養い、活性化させることを可能にしている、という点だからだ。別の言い方をすれば、それこそが、人々が情熱的に自分たちの生活をずたずたに引き裂くような政策に投票する重要な理由なのである。
情念について言えば、バトラーはその論考のなかで、情念とは、身に受ける(undergo)ものだという重要な指摘もしている。バトラーは、情念というものは「受動性、あるいは身を委ねること、さらには魅了されること、つまり外的な力によってではなく、私たちが幻想の力と呼ぶことのできるものによって囚われている状態」を含意すると書いている。このことについては、まだ多くを語ることができる。しかし今のところは、次のように示唆するだけにしておこう。もしeconomicな生活が一般にagency、すなわち行為主体性の空間として想像されているのだとすれば、情熱的で幻影的な生活はpatiency、すなわち受苦・受動性の空間と呼ぶことができるだろう。新プラトン主義者なら、私たちがagencyと呼んでいるものは、私たちの作る力であり、私がpatiencyと呼んでいるものは、私たちの作られる力だと言うかもしれない。つまりそれは、幻影によって活性化される私たちの力、ということである。経済と幻影の、この解消不可能な弁証法をこのように考えることには、ある程度の可能性があるのではないだろうか。すなわち、それをagencyとpatiencyの弁証法、私たちがすることと、私たちが身に受けることの弁証法として考えるのである。
幻影について私が確実に分かっていることが一つある。それは、幻影は単に反動的な沸騰の場なのではない、ということだ。私たちの関与を必要とするあらゆる政治的企図、いや、あらゆる社会秩序でさえ、それ自身の幻影、すなわちそれ自身の、興奮性が凝縮された場を必要としている。民主党によるトランプへの反対がこれほど無力なものになっている理由の一つは、その指導者たちのあまりにも多くが、いまだに、いかにもリベラルらしい甘美な幻想にしがみついているからだ。つまり、もし私たちが、こうした感情をすべて取り除いて空気をきれいにすることさえできれば、もし私たちが、もう一度、まともな議論をすることに戻れさえすれば、たとえば、少しの間だけでも経済に集中し、こうした「文化的」問題の数々に気を散らされないようにできさえすれば、われわれは再び国家という船を安定させることができる、という幻想である。
この要求の問題は、それ自体が持つ幻影への執着を見落としていることにある。より具体的に言えば、まさに経済という幻影を享受することに自分たちが感じている強烈な快楽を見落としているのである。リベラリズム、とりわけそのテクノクラート的な形態の特徴の一つは、自分たちが享楽(jouissance)とは無縁だという奇妙な信念である。自分たちは冷静で、節度をわきまえている、と考えるのである。哲学者アーロン・シュスターは、これをうまく言い表している。「技術者たちが遊ばないということではない。そうではなく、彼らは『自分たちが遊んでいることを知らない』のだ。遊び、つまり享楽こそが、彼らの盲点なのである。たとえ、いや、まさに自分たちは知識を代表していると主張しているからこそ」。
したがって、現在のアメリカの国政政治の構図において、私たちは陰鬱な二者択一に直面している。一方には、顔に一切の恥じらいもなく享楽を浮かべた新ファシズム的な政治がある。他方には、自分自身に享楽があるという事実に向き合うことを拒むがゆえに、自らの享楽について考えることのできないリベラリズムがある。おそらく、こう言うこともできるだろう。トランプ主義が絶えず新たな仕方で享楽を経済化しようとしているのだとすれば、その批判者たちもまた、あまりにもしばしば、無自覚な経済の享楽に囚われたままでいる。つまりそれは、常識的な現実を測る尺度としての経済という、いかにも自明であるかのように装われた虚偽の図式に対する、不安に駆り立てられた欲動的な執着なのである。物事が変になりすぎるのを食い止めてくれる護符。それが経済なのである。
結論として、二つほど述べておきたい。まず、私たち一人ひとりがどのように自らの享楽をやりくりすべきかについての、ジークムント・フロイトの『文明とその不満』における助言はよく知られている。「幸福とは、それを可能なものとして私たちが認めている、縮減された意味においては、個人のリビドーの経済学の問題である。万人に当てはまる黄金律など存在しない。人はそれぞれ、自分がどのような仕方で救われうるのかを、自ら見出さなければならない」。この一節については、言えることが、いや、すでに言われてきたことが、たくさんある。その問題を私有化してしまうこと、それぞれが自分自身のリビドー的な家・家計(oikos)の主人になるということ。宗教的な希求についてフロイトがあれほど多くの疑念を抱いていたにもかかわらず、ここでもなお救済という観念を持ち出していること。ただし、今度はそれを孤独な個人の企てとして。しかし、ここで私が強調したいのは、フロイトが採用している、苦労の末に獲得された現実主義の響きである。幸福、それを可能なものとして私たちが認めている、縮減された意味において。フロイトが見るところ、問題は、リビドーの帳簿の収支を合わせることが必然的に犠牲、妥協、諦念を意味するということにある。快楽と現実は、永遠に対立し続ける。その意味では、フロイトにとって、リビドー的な経済など存在しない。存在するのは、ある種の交渉によって成立した妥協的な決着だけなのである。
私はこの論考を、フロイトの波乱に満ちた弟子であるライヒから始めた。ライヒがフロイトと決裂したのは、まさにこの諦念を、政治的に、いや、人間的に受け入れがたいものだと考えたからだった。ライヒは、ほぼ一世紀前の時点ですでに、組織化された左翼が、その硬直した経済主義のなかで、資本主義や家父長制家族のリビドー的構造、そしてそれらが私たちを権威主義へと仕向ける仕組みについて、明晰に考えることを破滅的なまでに拒んでいることを、はっきりと見抜いていた。カール・マルクスが政治経済学者たちを歴史化したのと同じように、ライヒはフロイトのリビドー的な諦念を、特定の、したがって必然的なものではないブルジョワ的形成物として歴史化した。ファシズムにとってはジャガイモの価格でさえ英雄的でなければならない、というヴィアレックの言葉は、私には、本人が思っている以上に賢明なものに思える。なぜなら、ファシズムのもとでジャガイモや卵の価格に、奇妙な壮大さ、奇妙なほど重大な出来事であるかのような感覚がまとわりつくのだとすれば、それは、ファシズムが日常生活のあらゆる最後の些細な片隅まで倒錯的に美学化する必要があるからではない。そうではなく、ファシズムが、他の大半の反対者たちが本当には語り方を知らない、現実の諸欲求に応答しているからなのである。もしジャガイモの価格が英雄的な輝きを帯びることがありうるのだとすれば、それは、この経済という観念全体が、ドルやセントをはるかに超えている投資、すなわちリビドー的な投資を「凝縮」しているからなのである。
ライヒやその他の人々は、ほぼ一世紀前にすでにこのことを明確に見抜いていた。今日においても、リビドーの問題に関して言えば、右派はとうの昔に反対勢力に先んじている。すでにあまりにも多くの地盤が失われてしまった。MAGAに近い人々は自らを「生命主義者(vitalist)」と呼んでいる一方で、中道右派のリベラルであるデイヴィッド・ブルックスは、トランプ支持者たちを「異教徒」として非難している。ここでもまた、「現実を見よう」という名のもとに、多くの民主党員は、政治的エネルギーとはすなわち有害な男性性のことだと考えているように見える。ジョン・フェッターマンを考えてみればいい。あるいは、ギャビン・ニューサムがジョー・ローガンを相手に「男らしく」振る舞おうとした、あの見るに堪えない光景を。
こんな馬鹿げたことを続けている余裕は、本当に私たちにはない。そこで、対抗的なイマジナリー、対抗的な幻影、そしてそれらが私たちにどのような可能性を与えてくれるのかを探るために、私たちが共有するアーカイブから引き出しうる可能性について考えてみよう。私たちには、以前この怪物を長いあいだ、真正面から厳しく見つめた者たちの経験がある。そして、それはジャガイモだけの話ではなかった。ジョルジュ・バタイユを考えてみよう。彼はリビドーと、それが経済と取り結ぶ両義的な関係について、一つや二つならぬことを語っている。1930年代半ば、ファシズムの潮流が高まりつつあった時代に、バタイユは、別の幻影、つまり別の興奮性の場も可能なのだと主張しているのである。
「最初から、情動的な社会形成というものを考えるだけで、情動的生活に固有の形態が持つ巨大な資源、尽きることのない豊かさが明らかになる。……既存のものとは異なる……別の形態の魅惑を思い描くことも、なお可能なのである。……社会における運動、すなわち引き寄せと反発の運動を組織的に理解することは、まさにこの瞬間、すなわち、巨大な激動がファシズムと共産主義とを対立させているというよりも、急進的な命令形態と、人間の生命の解放を追い求め続ける深い転覆とを対立させているこの瞬間において、一つの武器として、鮮烈な姿をもって眼前に現れる。」
