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生野峠で見えた?―秀長の竹田城攻略戦術:「秀吉の中国攻め」を地形・地質的観点で見るpart5【合戦場の地形&地質vol.11-5】

日本の歴史上の「戦い」を地形・地質的観点で見るシリーズ「合戦場の地形&地質」。現在は「秀吉の中国攻め」をお送りしています。
竹田城は姫路城からほぼまっすぐの一本道でつながっており、しかも奇襲を受けにくそうな狭い谷地形を進軍して到達できそうです。
果たして竹田城へ至るまでの地形とは?

前回の「合戦場の地形&地質」はコチラ👇


行軍ルートの狭窄部

姫路城と竹田城は比較的大きな街道が1本道でつながっており、それは南北にまっすぐのびる谷地形沿いを通っています。
しかし前回は、その1本のように見える谷地形は、実は3本の谷の集合体だったとお話ししました。

姫路城ー竹田城間の谷地形:スーパー地形画像に筆者一部加筆

青矢印の市川(いちかわ)は概ね北北東から南南西方向に流れていますが、部分的に南北方向の谷が発達しています。
これに加え、南の猪篠川(いざさがわ:赤矢印)と北の円山川(まるやまがわ:黄矢印)が南北方向であるため、全体として1本の谷に見えます。

このように、河川が「すれ違っている箇所」は2か所あり、それぞれに狭窄部があり、これらの峠を越えなければならないことが分かります。

以下でそれぞれの地形について詳しく見てみましょう。

猪篠川上流域

まずは南にある猪篠川上流の狭窄部を確認します。
羽柴秀長の竹田城への行軍で「初めての難所」と言うことになります。

猪篠川上流部周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

猪篠川(上図赤点線)の谷幅は源頭部から約1.5km下流でも500m程度と比較的広く、上流へ向かって急激に狭くなります。
その源頭部の尾根を挟んだ向こう側は市川の支流の源頭部になっており、それによって両者が1つの谷として繋がっているように見えます。

なお市川は白矢印の方向に流れていますが、下流の方が極端に谷幅が狭く、違和感のある地形です。
が、ここでは深入りはせず、上図黄丸で示した峠を詳しく見てみましょう。

生野峠周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

猪篠川と市川支流の間の峠は、上図赤点線で囲った範囲です。
これより北と南の沢(青矢印)がそれぞれ反対方向に流れていることからも分かります。
この峠は狭い谷地形になっており、その幅は50mにも満たないほどです。

この時、羽柴秀長は3000もの軍を率いていましたので、どうしても細長く行軍せざるを得ません。
山名氏側としては、例えば以下のような戦術も考えられるでしょう。

①峠を越えてすぐ東にある谷に伏兵を置き、秀長軍の半分ほどが峠を越えてから突撃して前後を分断。
②混乱しているうちに正面と西からも攻撃。
③取り残された後方軍には、峠の両斜面に伏せていた兵が矢や鉄砲で射撃。

もちろんそれなりの兵力が必要な攻撃ですが、秀長としては、そのような敵の攻撃も想定しての行軍だったでしょう。
本隊に先行して斥候を送り、偵察しながら進軍したと思われます。

しかし峠道を詳しく見ると「幅が狭いだけ」であり、思ったよりも難易度は低めの地形かも知れません。見てみましょう。

生野峠周辺の地形図②:スーパー地形画像に筆者一部加筆

赤点線のラインは標高360mの等高線です。
これらは南と北に分かれており、つまりその間の白矢印の範囲は360m以上370m未満の標高です。
この区間は概ね150mほどで、それほど標高差が無いことを示しています。

これではイメージしにくいでしょうから、断面図で具体的に確認してみましょう。

生野峠の断面図:スーパー地形の機能を用いて作成した図に筆者一部加筆

生野峠の断面図です(縦横比1:1)。
見るからに緩やかな坂道ですよね。
勾配は約3度です。
3度であれば、自転車で走る場合に多くの人が負荷をあまり感じずに座ったままこぎ続けることができる程度です。
歩いていても「少し坂かな?」と思う程度でしょう。

峠道としては異例とも言えるほど緩やかであり、勾配を利用した攻撃(坂の上からの攻撃など)を受けて不利になると言った心配はありません。

もちろん現在は国道が通っているため整備された勾配ではありますが、地形的に両側の斜面がつながっていた形跡はなく、大規模に切り土した跡も見られません。
おそらく戦国時代当時も現在と大きく変わらない地形だったと思われます。

朝来市生野町周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

生野峠(上図青丸)を越えた先では再び谷幅が広くなり、市街地が広がっています。この谷(市川)は北東にのびており、その先には生野銀山(いくのぎんざん:黄丸)があります。
生野銀山は竹田城の管轄だと言われていますが、実は両者は10km以上も離れた位置にあります。
そしてこの市川沿いの谷はこのすぐ上流で急激に険しくなり、竹田城へ通じる街道はありません。
よって竹田城から生野銀山に通じる道は、これまで見てきた南北方向の街道(上図赤点線、概ねで図示)のみです。
なおもう1つの峠が緑丸です。

つまり竹田城に十分な兵力があり、生野銀山を死守するのであれば、生野峠が決戦の地になる可能性が高かったと思われます。
逆に考えると、ここで敵に遭遇しなければ相手方に十分な兵力が無く、籠城戦になると予測できます。

もしかしたら秀長は、生野峠を「方針検討のポイント」として重要視していたかも知れませんね。
しかし油断は禁物。この北には注意すべき地形がまだまだあります。

今回はここまで。
お読みいただき、ありがとうございました。

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