年1000回の緊急発進が語る、私たちが知らないリアルな防空ドクトリン
私たちが普段、何気なくスマホを眺めたり、おいしいご飯を食べたりしているこの瞬間も、日本の「空」の最前線では、命がけの冷徹なゲームが24時間365日休みなく繰り広げられています。それが、航空自衛隊による戦闘機の「スクランブル(緊急発進)」です。
リベラル派や左派のタイムラインでは、「戦後、日本は一度も攻撃されていないし、周辺国と対話していれば空も平和だ」というのどかな世界観が語られ、逆に保守派や右派のタイムラインでは、「中国やロシアの機体が領空に迫っている!弱腰にならず、領空侵犯したら即座に撃墜できるようにルールを変えろ!」という過激な主戦論が飛び交う。
しかし、この「対話していれば平和論」も「即、撃墜せよ論」も、現代の空の防衛実務のリアルから見ると、あまりに現場のファクトを無視した空論です。
なぜなら、空の国境線における攻防とは、感情に任せた殴り合いではなく、国際法と防衛ドクトリン(行動規則)に基づいた、極めて緻密で、地味で、絶対にミスが許されない「チェス」のようなチェイスゲームだからです。今回は、私たちが知らない「空の最前線」のリアルな数字と仕組みを見ていきましょう。
年間約1000回、1日に約3回という異常な日常
まず、私たちが知るべき驚くべきファクトは、その「数字」です。
日本の防衛省が発表しているデータによると、航空自衛隊が外国の軍用機などに対して行うスクランブルの回数は、近年、年間約1000回前後という高水準で推移しています。これは単純計算で、「毎日、1日に約3回」もの緊急発進が、日本のどこかの基地でリアルに起きていることを意味します。

その相手のほとんどは、中国とロシアの軍用機です。情報収集機や戦闘機、時には核兵器を搭載できる爆撃機が、日本の空のすぐそばまでゴリゴリと近づいてきているのです。
これほどの頻度で、他国の軍用機と自国の戦闘機が至近距離で睨み合っている国は、世界中の先進国(NATO諸国など)を見渡しても他にありません。日本は世界で最も「空の緊張感が高い国」の一つなのです。しかし、なぜ彼らはそんなに近づいてくるのでしょうか、そしてなぜ自衛隊は撃墜しないのでしょうか。
領空と「防衛識別圏(ADIZ)」という2つの境界線
ここで、空の防衛実務を理解するための最重要ファクトである、2つの境界線の違いを整理しましょう。それが「領空」と「防衛識別圏(ADIZ:エーディズ)」です。

領空(法的国境): 沿岸から12海里(約22キロ)の領海の上空。ここは「国の領土」と同じなので、他国の軍用機が許可なく入れば完全な国際法違反(領空侵犯)になります。
防衛識別圏(ADIZ): 領空のはるか外側に、各国が独自に設定している「防空のための警戒エリア」です。ここは国際法上は「公空(みんなの空)」ですが、ここに正体不明の航空機が入ってきたら、領空に侵入される前に戦闘機を差し向けて「お前は誰だ、何をしにきた」と確認(識別)する必要があります。
自衛隊が年間1000回もスクランブルしているのは、この「領空の外側(防衛識別圏)」での出来事です。
中国やロシアの軍用機は、国際法を違反しないギリギリのライン(領空の外側)をあえて飛び、日本の防空レーダーの性能や、自衛隊の戦闘機が基地から何分で飛んでくるかという「対応能力のデータ」を日常的にテストしているのです。これに対して「対話していれば来ない」というのは、泥棒が家の周りを下見しているのに「挨拶しておけば入ってこない」と言っているようなものです。適切な実力(戦闘機)を見せて、「いつでも見張っているぞ」とアピールすることだけが、彼らを領空に入らせない唯一の抑止力になります。
「即、撃墜せよ」と叫ぶ右派が無視する国際法
一方で、右派のタイムラインが叫ぶ「領空を少しでもかすめたら即、撃墜できるようにせよ」という強硬論は、日本の防衛を根底から破綻させる危険な暴論です。
国際法(国連憲章や国際民間航空条約など)の絶対のルールとして、平時において領空侵犯をした機体を「いきなり撃墜すること」は原則として認められていません。
空の防衛実務における世界共通の手順(ドクトリン)は、段階を踏むことになっています。
無線での警告: 「あなたは我が国の領空に接近している、進路を変えなさい」と多言語で呼びかける。
視覚的な警告: 戦闘機を横に並べ、翼を左右に振って「俺についてこい(着陸命令)」と合図を送る。
警告射撃: それでも無視する場合、相手に見えるように信号弾や曳光弾(光る弾)を撃って警告する。
これらをすべて無視し、相手が日本国内に対して明らかな攻撃意志(ミサイルのロックオンなど)を見せるか、正当防衛・緊急避難の状況にならない限り、平時に引き金を引くことは絶対にできません。
もし右派の言う通りに自衛隊が感情に任せていきなり撃墜すれば、日本側が「国際法違反の先制攻撃を行った悪者」になり、周辺国に完璧な「戦争を始める大義名分(言い訳)」を与えてしまうことになります。国際政治のゲームにおいて、ルールを破って先に手を出した方が負けるのは絶対の鉄則なのです。
「静かなるチェス」をフラットに支える
空の最前線で行われているスクランブルとは、全面戦争でもなければ、ただのパフォーマンスでもありません。
相手は「ルール(領空)のギリギリを攻めて、こちらの隙を探る」。日本側は「国際ルールを1ミリも破らず、完璧な手順で非の打ち所のない対応を見せ、相手に引き返させる」。まさに、アドレナリンを極限まで抑え込んだ「冷徹な大人の知恵比べ(チェス)」なのです。
私たちが持つべきフラットな視点とは、最前線で毎日3回、この極限のチェスをノーミスで指し続け、日本の空の現状維持(平和)を担保してくれている現場の「プロフェッショナルな実務」を正しく理解することです。
「攻めてこないから防衛力はいらない」と現場のハシゴを外す必要もなければ、「力で白黒つけろ」と現場を戦火の危険に晒す必要もありません。一歩スマホの檻を出て、この地味で冷徹な防空ドクトリンのファクトを知ること。それこそが、感情論に振り回されず、この国の空の平和をまっとうに維持するための唯一の視座ではないでしょうか。
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