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視えすぎた瞳:未来が見える眼鏡の物語

第一章:眼鏡

ヴェリアスは煙草の煙を吐き出しながら、石畳に腰を下ろした。魔法薬草の紫煙が夜気に溶けていく。その刹那、胸の奥で何かが弾けた。

目の前の世界が、二重に見えた。


今の光景と、明日の光景が。

少女が走ってくる。赤い髪が風に揺れる。彼女は笑っている。そして次の瞬間、血まみれで倒れている。同じ石畳の上に。同じ場所に。

「……くそ」

ヴェリアスの指が震えた。煙草が石畳に落ち、火花を散らす。

予知の眼鏡。

それは三日前、朽ちた図書館の奥で見つけたものだった。銀の縁に刻まれた古代文字。「真実ヲ見ル者ハ、真実ニ殺サレル」。

最初は何も起こらなかった。だが昨夜、眼鏡を掛けた瞬間、世界が変わった。

未来が、視えた。

そして、それは必ず起こった。

朝、市場で老人が転ぶ光景を視た。三分後、老人は石につまずき、額を割った。

昼、広場で子供が泣く光景を視た。五分後、子供は母親を見失って泣き叫んだ。

夕暮れ、酒場で男が喧嘩する光景を視た。十分後、男は杯を投げつけ、血を流した。

全て、寸分違わず起こった。

変えられなかった。

ヴェリアスは走った。少女が現れる方角へ。心臓が喉元まで跳ね上がる。「間に合え」という希望が、全身の血を沸騰させた。

だが同時に、脳の奥底で囁く声がある。

「無駄だ。お前は何も変えられない」

絶望が、希望と同じ強さで、彼の骨を軋ませた。

角を曲がる。

赤い髪の少女が、笑顔で走ってきた。

「待て!」

ヴェリアスは叫んだ。少女は驚いて立ち止まる。

その瞬間、建物の屋根から石材が崩れ落ちた。

少女がいた場所を、巨大な石塊が粉砕した。

もし止めていなければ、彼女の頭蓋は割れていた。

「……変えられた?」

ヴェリアスの喉が渇いた。手が震える。眼鏡の奥で、視界が歪む。

少女は呆然としていたが、やがて顔を上げた。

「ありがとう、ございます……」

彼女は走り去った。命を救われたことも理解できないまま。

ヴェリアスは膝から崩れ落ちた。石畳に両手をついた。息が荒い。

希望が、胸を焼いた。

「変えられる。未来は変えられるんだ」


だが次の瞬間、眼鏡が新しい光景を映し出した。

少女が路地裏で男に襲われている。三日後。同じ少女。血まみれで、動かない。

「いや……」

ヴェリアスの指が眼鏡に食い込む。

「いや、いや、いや」

未来は変わっていなかった。

死の場所が、ずれただけだった。

絶望が、希望を喰い殺した。
第二章:ボールペン

「予言者ヴェリアス、とお呼びすればいいのかしら?」

その声は、冷たい刃のように耳朶を切った。

ヴェリアスは振り返った。宿屋の暗い一室。窓から月明かりが差し込む。

黒衣の女が立っていた。銀髪。鋭い瞳。腰には細身の剣。

「誰だ」

「私の名はセリエス。時詠みの書記官」


女は懐から一本のペンを取り出した。黒インクが滴る、古びたボールペン。

「それは……」

「運命記録のペン。このペンで記された出来事は、必ず起こる」


セリエスは微笑んだ。だがその笑みには、温度がなかった。

「そしてあなたの眼鏡は、『予知の眼鏡』。未来を視る魔法具。五百年前、最後の予言者が遺したもの」

ヴェリアスは唇を噛んだ。

「なら知っているはずだ。この眼鏡は呪いだ。視えても、何も変えられない」

「ええ。それが予言の本質よ」

セリエスは窓辺に歩み寄った。月光が彼女の横顔を照らす。

「五百年前、最後の予言者は狂った。彼は世界の終焉を視た。そして必死に警告した。王に、民に、神官に。だが誰も信じなかった。そして予言通り、王都は炎に包まれた。百万の命が失われた」

「それで?」

「彼は嘆いた。『なぜ視えるのに、救えないのか』。そして眼鏡を封印し、自ら命を絶った」

セリエスは振り返った。

「だが、彼は一つだけ遺した。記録を。『未来は視えても変えられない。だが、視えるからこそ、選択できる』と」

ヴェリアスの喉が詰まった。

「選択?」

「誰を救い、誰を見捨てるか。それを選ぶこと」

セリエスの言葉が、胸を貫いた。

「ふざけるな!」

ヴェリアスは立ち上がった。拳が震える。

「全員を救いたい! 誰も死なせたくない!」

「それは傲慢よ、ヴェリアス」

セリエスの声が、氷のように冷たかった。

「あなたは神ではない。予言者は、全てを救う者ではない。ただ、真実を視る者。そして、選択を迫られる者」

ヴェリアスは拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。血が滲む。

「なぜ……なぜこんな呪いが存在する……」

「呪いではないわ。試練よ」

セリエスはボールペンを回した。インクが空中で弧を描く。

「三日後、この街に災厄が来る。あなたはそれを視ているはずよ」

ヴェリアスの背筋が凍った。

視えていた。

三日後の夜。街が炎に包まれる。魔獣の群れが城壁を破る。民が逃げ惑う。悲鳴。血。死。

そして、あの赤い髪の少女も、炎の中で倒れていた。

「お前……何者だ……」

「時詠みの書記官。運命を記録する者。そして時に、運命を選択する者を導く者」

セリエスはペンを懐にしまった。

「ヴェリアス。あなたには選択肢がある。一つ、何もせず、全てを見捨てる。二つ、全てを救おうとして、全てを失う。三つ……」

彼女は言葉を切った。

「最も苦しい選択を、する」

「それは……」

「自分で見つけなさい。予言者とは、未来を視る者ではない。未来を選ぶ者よ」

セリエスは窓から飛び降りた。月明かりの中、彼女の姿が闇に溶けた。

ヴェリアスは一人、部屋に残された。

眼鏡が、新しい光景を映し出す。

三日後。炎。魔獣。死。

そして、眼鏡の奥に、もう一つの光景が重なった。

別の未来。誰かが生き、誰かが死ぬ未来。

無数の選択肢が、網の目のように広がっていた。

「選べ、というのか……」

ヴェリアスの声が、闇に溶けた。

希望が燃え上がる。「救える者がいる」。

絶望が喉を締める。「救えない者もいる」。

二つの感情が、同じ強さで、彼の心臓を鷲掴みにした。
第三章:たばこ

ヴェリアスは城壁の上で煙草を吹かしていた。

魔法薬草の煙が、夜空に立ち昇る。星が瞬く。静かな夜。

だが眼鏡の奥では、地獄が視えていた。

あと六時間。夜明けとともに、魔獣の群れが来る。

城壁は崩れる。兵士は全滅する。民は逃げ惑い、半数が死ぬ。

そして、特定の人物たちの死が、鮮明に視えた。

赤い髪の少女。名はミラ。東の路地で、魔獣に喉を食い破られる。


老兵士ガルド。南の門で、最後まで戦い、力尽きる。


宿屋の女主人エルサ。北の広場で、子供たちを庇い、爪に貫かれる。


全員、確実に死ぬ。

だが、ヴェリアスは視た。別の未来も。

もしミラを東から避難させれば、彼女は生き延びる。だが、彼女がいない東の路地では、五人の子供が逃げ遅れ、全員死ぬ。ミラは子供たちを導く役割を果たすはずだったから。

もしガルドを南の門から撤退させれば、彼は生き延びる。だが、南の門が早く崩壊し、百人の民が逃げ遅れる。ガルドの防衛が時間を稼ぐはずだったから。

もしエルサを北から避難させれば、彼女は生き延びる。だが、彼女が庇うはずの子供たちが全滅する。

選択は、残酷だった。

一人を救えば、他の誰かが死ぬ。

全員を救う方法は、視えなかった。

「くそ……くそ……!」

ヴェリアスは煙草を投げ捨てた。火が石畳で消える。

「何が予言者だ……何が選択だ……!」

拳が石壁を殴る。皮膚が裂ける。血が滴る。痛みが全身を駆け巡る。

「俺は……俺は……!」

希望が叫ぶ。「まだ方法があるはずだ」。

絶望が囁く。「お前は無力だ」。

二つの声が、頭蓋の中で激突した。

その時、背後から声がした。

「まだ諦めていないのね」

セリエス。

黒衣の書記官が、月明かりの中に立っていた。

「お前……」

「ヴェリアス。あなたは気づいていないの? 最も苦しい選択を」

「何を……」

セリエスは一歩、近づいた。

「未来は、無数にある。だがあなたの眼鏡が視るのは、『あなたが何もしない場合の未来』だけ」

ヴェリアスの呼吸が止まった。

「つまり……」

「あなた自身が動けば、未来は変わる。だが、それは『あなたが犠牲になる』未来」

セリエスはボールペンを取り出した。

「私はこのペンで、一つだけ運命を記せる。今夜、一度だけ」

彼女はペンの先をヴェリアスに向けた。

「あなたが、魔獣の群れの核を破壊する。それは可能。だが、あなたは死ぬ」

ヴェリアスの全身が凍りついた。

「それが……最も苦しい選択……」

「ええ。自分の命を代償に、全員を救う。それがあなたに残された、唯一の道」

セリエスの瞳が、月明かりに光った。

「だが、あなたには選択の自由がある。自分を救い、誰かを見捨てることもできる。それは間違いではない。人間として、当然の選択」

ヴェリアスは拳を握った。

血が滴る。心臓が激しく鼓動する。

希望が燃える。「救える。全員救える」。

絶望が噛みつく。「お前が死ぬことで」。

恐怖が這い上がる。「死にたくない」。

勇気が咆哮する。「それでも」。

全ての感情が、同時に、最大強度で、彼の中で渦巻いた。

「俺は……」

ヴェリアスは顔を上げた。

眼鏡の奥で、未来が視えた。

自分が死ぬ未来。だが、ミラが笑っている。ガルドが生きている。エルサが子供たちを抱きしめている。

そして、もう一つの未来。自分が生きている。だが、死体の山。燃える街。絶望に沈む生存者たち。

「選ぶのか……俺に……」

「あなたは予言者よ。未来を視る者。そして、未来を選ぶ者」

セリエスの言葉が、胸を貫いた。

ヴェリアスは眼鏡を外した。

裸眼で、夜空を見上げた。

星が瞬いている。美しい夜。


「なあ、セリエス」

「何?」

「俺が死んだ後、この眼鏡はどうなる?」

「封印される。あなたが最後の予言者になる」

「そうか……」

ヴェリアスは眼鏡をかけ直した。

懐から煙草を取り出す。火をつける。紫煙が立ち昇る。

一口、深く吸い込む。

魔法薬草の苦味が、舌に広がった。

「選んだわ」

「ああ」

ヴェリアスは微笑んだ。

その笑みには、恐怖と勇気が同居していた。絶望と希望が共存していた。

「俺は、予言者だ。未来を視て、未来を選ぶ」

彼は煙草を吸い終えた。

火が消える。煙が消える。

「記せ、セリエス。俺の運命を」

セリエスはボールペンを握った。

空中に、光の文字が浮かび上がる。

「予言者ヴェリアス、夜明けとともに魔獣の核を破壊す。街は救われる。予言者は、眠りにつく」

文字が夜空に溶けた。

運命が、記された。
第四章:視えなかった未来

夜明け。

ヴェリアスは城壁の外に立っていた。

地平線から、魔獣の群れが迫る。咆哮。大地を揺らす足音。

その中心に、巨大な影。魔獣の核。それを破壊すれば、群れは崩壊する。

だが、核は深い。

一人で突入し、命を削り、破壊する。

それが、眼鏡が視た唯一の道。

「怖い……」

ヴェリアスの声が震えた。

「怖いよ……死にたくない……」

涙が頬を伝う。

恐怖が全身を支配する。膝が笑う。歯が鳴る。

だが、希望も燃えていた。

「でも……救いたい……」

拳を握る。

「ミラを。ガルドを。エルサを。全員を」

眼鏡の奥で、未来が輝いた。

生き延びる人々。笑顔。未来。

「それなら……」

ヴェリアスは駆け出した。

魔獣の群れへ。死へ。

希望と絶望が、同じ速度で、彼の背中を押した。

剣を抜く。魔法を解放する。体が光る。


魔獣が襲いかかる。爪が肩を裂く。牙が脚を噛む。血が噴き出す。

痛い。

死ぬ。

怖い。

だが、進む。

核が視えた。黒い結晶。脈動する悪意の塊。

「そこだ!」

ヴェリアスは全ての魔力を剣に込めた。

体が燃える。骨が軋む。命が削れる。

「うああああああああ!」

剣が核を貫いた。

爆発。

光が世界を包んだ。

魔獣の群れが崩壊する。咆哮が悲鳴に変わる。闇が消える。

そして、ヴェリアスの体が崩れた。

地面に倒れる。血が流れる。視界が暗くなる。

「やった……のか……?」

眼鏡が、割れた。

レンズに亀裂が走る。

未来が、視えなくなった。

だが、その瞬間、ヴェリアスは視た。

眼鏡なしで、初めて視た。

城壁の上。ミラが手を振っている。

ガルドが敬礼している。

エルサが涙を流している。

「ありがとう、予言者!」

声が聞こえた。

ヴェリアスは微笑んだ。

「どういたしまして……」

目を閉じる。

希望が、心を満たした。

絶望は、もうなかった。

選んだから。

未来を、自分で。

意識が、静かに遠のいた。
終章:記録

セリエスは丘の上に立っていた。

眼下に、街が広がる。人々が生きている。笑っている。

「予言者ヴェリアス。彼は最後の予言者となった」

彼女はボールペンを取り出した。

空白のページに、文字を記す。

「彼は未来を視た。絶望を知った。だが、希望を選んだ」

「予言者とは、未来を視る者ではない」

「未来を選ぶ者である」

「そして彼は、最も苦しい選択をした」

「自らの命と引き換えに、全員の未来を救った」

セリエスはペンを置いた。

だが、その時、丘の下から声がした。

「セリエス!」

振り返る。

一人の青年が走ってきた。

「報告します! 予言者ヴェリアスは……生きています!」

セリエスの目が見開かれた。

「何ですって?」

「重傷ですが、息があります! 街の治療師が必死に治療を……!」

セリエスは走り出した。

丘を駆け下りる。街へ。治療院へ。

そこに、ヴェリアスが横たわっていた。

包帯だらけ。だが、胸が上下している。

生きている。

「どうして……」

セリエスは呆然とした。

「運命のペンで記したはずよ。『眠りにつく』と……」

その時、ヴェリアスが目を開けた。

「セリエス……」

「ヴェリアス!」

彼は微笑んだ。


「お前の書き方が……甘かったな……」

「え?」

「『眠りにつく』……死ぬとは、書かなかった……」

セリエスは息を呑んだ。

「まさか……私は……」

「お前も、選んだんだろ。俺を生かす未来を」

セリエスの目に、涙が浮かんだ。

「……馬鹿ね」

彼女は笑った。

ヴェリアスも笑った。

「予言者は死んだ。だが、人間ヴェリアスは生きている」

彼は割れた眼鏡を握りしめた。

「未来は、もう視えない。でも、いいんだ」

「これからは、視えない未来を、自分で作る」

セリエスは頷いた。

「ええ。それが、生きるということよ」

窓の外。

ミラが広場で笑っていた。

ガルドが城壁を修復していた。

エルサが子供たちにパンを配っていた。

未来は、視えない。

だが、確かにそこにある。

希望と絶望を超えて。

選択の先に。

ヴェリアスは目を閉じた。

今度は、死ではない。

本当の、眠りだった。

そして、新しい朝が来る。

視えない、美しい未来が。

【完】

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