トリプルケアを担った私の人生は、なかなかユニークだと気づいたコト
私には、私と10分違いの重度知的障害をもつ自閉症の姉がいる。
そして私には、重度知的障害をもつ自閉症の息子もいる。
父が50代で亡くなり、私が結婚で家を出て以降、20年以上母が姉の面倒をみてきたが、その母が2016年10月に、アルツハイマー型認知症と診断された。
アルツハイマー型認知症になった母には、作話や被害妄想、家が分からなくなるなどの症状が現れた。
私は2014年に離婚。実家から20分離れたところで、Wワークをしながら、
娘と重度知的障害をもつ息子を育ててきた。
母が認知症と診断された2016年10月からは、母の訪問介護サービスや姉の居宅介護も利用したが、トリプルケアだった。
母と姉の福祉サービスを利用するにあたり、私は「キーパーソン」だった。
母がショートステイを利用するとき、姉が障害者グループホームを体験入居からの本入居となるときなど、母のケアマネさんや姉の相談支援事業所の担当者からは「yumikoさんのゴーサインが出れば、スタートする」と言われた。
母は、認知症になってからも、自閉症の姉と暮らすことを望んでいたし、
自閉症の姉も、家が分からなくなった母に振り回されていても、母と一緒に暮らすことを望んでいた。
その2人の思いを知りながら、私は2人を施設に入れる手続きをとった。
私は、現在20代の重度知的障害をもつ息子を、平日は電車に一緒に乗り、
作業所まで送って行く。
息子と別れて、一人で上り電車に乗るとき、ラッシュのピークは過ぎているが、まだ電車は混んでいる。
電車の車内を見渡したとき、考えても仕方がないのに、
現在、仕事ではなくプライベートで、
障害を持つ子供と、
障害を持つきょうだいと、
認知症の親と、
3つ同時に抱えている人は、この電車内に、私のほかにいるだろうか、
1つは当てはまる人はいるだろうが、トリプルは…いないだろう、
なぜ、私だったんだ?と、落ちこむこともあった。
今年の5月14日までは。
5月14日の朝、息子を作業所に送って行くときのこと。
作業所は、電車を下りて徒歩15分ほどの所にある。
途中に、大きな踏切があり、いつも息子は線路沿いの、人の邪魔にならない場所で電車を眺めてから、作業所に向かう。
「AM8:05に駅を発車する下り電車が踏切を通ったら、作業所に向かう」こだわりがある。
踏切は、電車が4本ほど通過しないと開かない。
踏切には、通勤の自転車、近くの中学校の生徒たち、後ろに未就学児の子供を乗せた自転車の人たちが、溜まる。
そのような中を、5月14日の息子は、急に前触れもなく、
「うおおーー!!」と吠えるような、大声をあげて、全速力で走りだした。
あわてて息子を制止しようとしたが、全速力の息子に追いつくことはできず、私はどんどん遠ざかる息子の背中を見つめるだけだった。
息子が走り出した場所から作業所までは、徒歩8分くらいの距離だった。
息子が作業所に着いたかを電話して確認しつつ、寸前に大騒ぎをしたことを話したのだが、作業所に着いたときには「落ち着いていた」と言われた。
翌日の5月15日の朝。
息子は2日連続で荒れたことはないし、彼を刺激するものは何もなかったはずなのに、やはり息子は前日と同じ場所から、急に前触れもなく、
「うおおーー!!」と吠えるような、大声をあげて、全速力で走りだした。
また今日も?
2日連続⁈
だが、前日と違い、息子は20mくらい走ると、急に立ち止まった。
そして、振り返ると、私を見て「にやり」と笑った。
息子の「にやり」を見て、猛烈に腹が立った私は、息子の見ているところでくるりと息子に背を向けて、ズンズンと来た道を引き返す動きをした。
母が自分を置いて行こうとしているのを目の当たりにする息子は、どういう反応をするだろう、困らせてやろう、と思ったのだ。
私は、息子があわてて私の方に戻ってくる、と予想していた。
ズンズン5歩ほど歩いたところで、振り向いてみた。
息子は、何事もなかったように、落ち着いて作業所に向かって歩いていた。
あの調子なら、私がついて行かなくても大丈夫だ。
私は、そのまま駅に戻ることにした。
息子の「にやり」。
直後は猛烈に腹が立ったはずなのに、
「息子よ、私を試したのかい?」
「私が、あなたの行動で、恥ずかしがると思っているのかい?」
「私には障害児の親になった歴だけでなく、きょうだい児歴もあるよ」
「そんな、やわな、私じゃないよ」と思ったら、
「ははっ」と思わず歩きながら、小さな笑い声が出た。
そして、突然なぜか「私の人生は、なかなかユニークだな」と思った。
そう思った時、「あなたは、扇の要なのよ」と言われたことを思い出した。
「あなたは、扇の要」、
そう言ったのは、息子の計画案の作成でお世話になっている、相談支援事業所のMさんだ。言われたのは、2020年の1月下旬か2月だったと思う。
この当時、私は、認知症の母と重度知的障害をもつ自閉症の姉が一緒に暮らすことは難しいと感じて、母のことは施設に入れようと決めていた。
だが、姉を障害者グループホームに入居させることに、ためらいがあった。
姉は、母の方針で高等部にも進学せず、作業所にも通わず、さをり織りをやってきた。
独創的な色づかいの、姉の作品は、作品展示会に出すと完売していた。
だが、作品展示会で販売するまでは、値段を決める、納品書を書く、マフラーならば糸を撚るなど、母が担っていたことも多くあった。
認知症と診断される少し前に、母は「kiyoちゃん(姉)に、もう作品作らなくていいよって言ったの。なんだか疲れちゃって」と言い、姉はさをり織りをやめた。
姉は、ショートステイも利用したことがない。
その姉が、いきなりグループホームに入居?
体験入居はまだ行っていなかったが、体験入居が当初1週間のはずが、1か月と聞き、急に知らない人たちのなかで暮らすことになる姉のストレスはどれほどのものだろう、と思った。
姉は、2019年5月から、U作業所に通っていたのだが、偶然にもそのU作業所に、当時高3だった息子も、卒業後から通うことが決まっていた。
このときの姉は、U作業所に、母の認知症の問題があったために、週1だけの通所だったが、私の家に一緒に住めば、息子と同じ週5で通えると思った。
母が、結局1回しか利用できなかった、当時通っていたデイサービスの事業所で行われていた「お泊りデイ」のとき、姉を私の家に連れてきた2日間、重度知的障害の姉と、重度知的障害の息子がいる状態が重なった。
2人いるのは、なかなか大変だなとは思ったが、
私は、姉の特性も、息子の特性も、理解しているつもりなので、
息子に加えて、姉の面倒も見ることができるかもしれない、
できるかもしれないが、ずっと続けられるか自信がない、みたいなことを
話した際に、「あなたは、扇の要なのよ」と言われたのだ。
「扇の要」、
あの、持ち手の部分にあるポチっとした丸っこい形のアレが私?と思った。
ちょうど、当時は2020年の冬だが、2019年の夏に、息子に扇子を壊されたばかりだった。息子は、私に扇子を広げた状態で「どうぞ」と渡したかったようだが、誤って逆方向に無理やり広げようとして、持ち手のポチっとした丸っこい形のものは、扇子から外れてとんでいってしまい、100均で買った扇子は使えなくなったのだ。
そのようなことを考えていたら、Mさんから「扇の要って、どこの部分か、分かる?」と聞かれた。
もしかしたら、私が思う扇の要は間違っているかもしれない、と思ったので、Mさんに「どこの部分ですか?」と聞いてみた。
やはり、私が当初思っていた、丸っこい形のことだった。
「あなたは、認知症のお母さんと、自閉症のお姉さんと、お嬢さんと、自閉症の息子さんをつなぎとめる扇の要なのよ。
けれど、お嬢さんと自閉症の息子さんにとっては、ただひとりのお母さん。
認知症のお母さんも、自閉症のお姉さんも、施設に入れば、面倒を見てもらえる。
けれど、お嬢さんは大学2年生で、息子さんは18才でしょう?
2人にはまだ、お母さんのあなたが必要。
あなたは、認知症のお母さんと自閉症のお姉さんが一緒にいられるようにと思って、今まで本当によくやって来たと思う。
お姉さんのことは心配だとは思うけれど、これから体験入居なんだから、
グループホームでの生活にお姉さんも慣れることができるくらいに考えてみるのもいいと思うわよ。
1か月体験入居できる所なんて、そうそうない。縁は掴んだ方がいい。」
Mさんに、そう言われたのだ。
仕事で「君は、扇の要だからね」と言われたことがある人はたくさんいるだろうが、「家族をつなぎとめる役割としての、扇の要」と表現された人は少ないだろうな、と歩きながら考えたら、
ユニークは日本語に訳すと「面白い」だが、面白いよりも「少し独特な」の言葉の方がしっくりくるな、と思った。
「少し独特な」ことは、私は嫌いではない。
大学時代、私は、さをり織りのリュックを使っていた。
当時は、電子辞書がなかったので、音楽学の授業では、英語とドイツ語の文献を読む際に、それぞれ辞書が必須だった。
だが、辞書はそれなりに厚みがあり、リュックなら持ちやすいかもしれないと思った。
たまたま「リュックを買おうと思っている」と母に話したら、
「じゃあ、さをりでリュックを作ってあげようか」となって、色とおよその大きさだけ私が指定したが、母は丈夫さも兼ね備えられるよう、裏地をつけて、さらに定期を出し入れしやすいよう、外側にななめのポケットをつけた、リュックを作ってくれた。
「世界でひとつだけの、私だけのリュック」を持つ優越感があった。
たまに電車内で、見知らぬ人から「手作りですか?素敵ですね」と言われると、とても嬉しかった。
「私の人生は、なかなかユニークだな」と思ったとき、
小中学生のときの、ピアノの練習時に感じた、スッと新しいレベルの世界に入ったときの、なつかしい感覚がよみがえった。
私は、ピアノの練習が苦になったことは、ほとんどないが、
自分の理想通り弾けないと、とても自分に対してイライラした。
特に、指の動きが間に合わずに弾けない時は、小学校低学年のうちは自分の手をたたいたりしていた。
弾けないままピアノのレッスンに行くと「まず、1本1本指に覚えこませるように弾く」「リズム練習をいくつかのパターンでやってみる」「徐々に曲のテンポに近づけていく」ことを、先生からアドバイスされた。
そのようにしたら、弾けるようになることが分かり、高学年になると、私は家で練習するときに、弾けない箇所が出てきても、自分でかつての先生が教えてくれたやり方で、向き合うようになった。
徐々に曲のテンポにも近づき、「よし、今度はテンポ通りに弾いてみよう」と、わずかにテンポをあげる。すると、ほんのわずかにテンポが上がっただけなのに、弾けないことが何度もあった。
弾けない箇所だけを取り出して、練習、練習、練習…、だが、結局テンポ通りには弾けずに、結局あきらめて、その日の練習を終える。
翌日。「今日こそは」と思うのだが、やはり上手くいかない。
前日と同じように、弾けない箇所を、とにかく練習するのだが、結局テンポ通りに弾けずに終わる…。
3日め。まずはじめは、最初から通しで弾く練習から始める。すると、途中で、私は「もうすぐ、あの弾けない部分が出てくるぞ」となる。
昨日の練習で、できないままやめてしまったのだから、どうせ今日もできっこないと思っていたら、普通に弾けたときに感じた、感覚だ。
いきなりできると、自分のことが信用できず「たまたまかもしれない」。
それで、もう一度弾いてみるのだが、やはり弾けるようになっている、
この時、私のピアノの腕前が、新しいレベルの世界に入ったような感覚になっていたのだ。
「私の人生は、なかなかユニークだな」と思った時、この感覚と一緒だった。
不思議だ。
なぜ、急に「私の人生はなかなかユニークだ」なんて、思うようになったのだろう。息子の「にやり」が引き金になっていることは間違いないのだが、ユニークだなんて。
私は、やけになっているのだろうか。
息子の「にやり」から、私の人生はユニークだな、までに思いを馳せた時間は、短くて、作業所の最寄り駅にはまだ着いていなかった。
歩き続けていると、今度は、母が、たまに歌っていた歌を思い出した。
母は、夕食の支度をしている時に、たまに歌うことがあった。
そのうちの1曲が「今日は、よい日だ」という歌詞で始まる歌だった。
母は、独身時代に、同じ年齢の女性4人で「若駒会」という集まりを作り、その「若駒会」で、山登りが趣味の人たちと一緒に登山をすることが時々あったそうだ。
その山登りのサークルでは、必ず、頂上に着くと歌を歌っていたそうで、それが「今日は、よい日だ」で始まる歌詞の歌だった。
今日はよい日だ みんな元気で
こうして集まり こうして話せた
ひとひらの花の中にも 天国があるよ
短いときのなかにも 幸せがあるよ
今日はよい日だ 讃えよともに
本当にこんな歌があるのか、と、ずいぶん昔に
「鼻歌検索」なるもので、調べてみたことがあるのだが、
そのときは、検索しても見つからなかった。
だが、今回、copilotに聞いてみたら、出てきた。
実際に、曲を聞いてみたら、母が歌っていた曲と同じで、作曲は古関裕而さん。高校野球の「栄冠は君に輝く」を作曲した方だ。
もともとは、昭和28年の「三越ホームソング」なる音楽プロジェクトで作られたらしい。
日常の小さな幸せを感じ取って、今のこの瞬間も大切に生きよう、というようなメッセージが込められていて、文字で書いてみたら良い歌詞だなとしみじみ思う。
作詞をしたのは、西條八十さんだ。
希望を持って生きていこう、の代表曲では「上を向いて歩こう」があるが、私は、本当に落ち込んでいるときは、たやすく上なんて向けない、と思っているので、あまり好きではない。
You Tubeで「今日はよい日」は、女性が歌っているのを聞くことができるが、私は、男声版を聞いてみたい。勝手なイメージだが、昔の炭鉱夫が仕事を終えて、ビール片手に、5人くらいで肩を組んで歌っている画なんて、ドンピシャだと思う。
そんなことを考えていたら、作業所の最寄り駅に着いた。
電車で自宅に帰った。
自宅に帰ってから、とにかく急いで、この、うまれたばかりの気づきを、
愛用している手帳に書きとめた。
こだわりのとても強い自閉症の息子との生活では、こんな気づきは、すぐに忘れてしまうかもしれない。
だが、忘れてしまうのは、あまりにもったいない、と思ったからだ。
母が、どんな思いで「今日はよい日」を歌っていたのだろう、と思った。
姉が「自閉症」と診断された時代は、自閉症の原因は「親(特に母親)の育て方のせい」とされていた。
医師からそのように言われた母は、「じゃあ、同じ母親が育てているのに、なぜ、こっち(私)は自閉症ではないんですか?」と医師に詰め寄り、医師は答えられなかったと聞いたことがある。
母は、姉の病気を治したい一心で、療育にも行ったし、鍼治療にも泊りがけで通った。
春になったら小1になるタイミングでは、姉の就学猶予をとるために、隣町の、とてもよく当たる占い師さんに引っ越し先を相談して、私は引っ越しを経験した。
さらに、小2の秋、学校から帰ってくると、母から突然、「今日から、姉のことはkiyoちゃんて呼ぶのよ」と言われた。
「どうして?今までのように、yu〇koちゃん、て呼ぶのはダメなの?」と聞いたら、母は「姓名判断の先生にみてもらったら、kiyoって名前の方が運勢が開けるんだって」と言って、kiyoのki、yoの意味や願いが書かれた紙が入っている額を見せられた。
テーブルには大学ノートが置かれていて、母がkiyo、kiyo、kiyoと漢字で書いた字でページが埋め尽くされていた。
本当に母は「姉がよくなるなら何でもする」だった。
だが、当の姉は、家族の隙をついて、家から脱走するし、学校からも脱走していた。家で脱走したと分かると、母は駅前交番と駅前にあったサンドイッチ屋さんに行き、携帯電話や留守番電話がない時代のため、その後は「見つかった」の連絡を受けられるように家で待機。私は「姉の行きそうな場所」をはしごして、捜すこともあった。姉の脱走は中1まで続いた。
母は、私たちが生まれた時に、「1回の出産で、2人子供が生まれてラッキー」と思ったそうだ。だが、あっという間に、そんな呑気なことは言っていられないくらい、大変だったわよ、と笑いながら話してくれたことがある。
それはそうだろう。私の父は多忙で、私が小学生時代は、日曜日の夜に家族みんなで夕食を食べたら、次に私が父と顔を合わせるのは、次の日曜日の朝で、たまにふざけて「お久しぶりです」と言っていたくらいなのだから。
「今日はよい日」を歌っていた時の母が、どんな気持ちで歌っていたのかは、聞いたことがないので、正解かは分からないが、母なりに何か頑張らないと、と自分を鼓舞するために歌っていたように思える。
楽しそうな様子のときの母は「愛の讃歌」を歌っていたので、少なくとも楽しい時ではないことは分かっている。
「私の人生は、なかなかユニークだな」と思った、5月15日。
その日の昼、出かけようとしたら、マンションのロビーで、
私は四つ折りの1000円札を拾った。
1000円札を拾った場合は、変化らしい。
たしかに、人生の捉え方は変わった。その点では、当たっている。
「私の人生は、なかなかユニークだな」の気づきから、1か月以上たった。
もしかしたら、この気づきは、トリプルケアを経験した私だからこそ、たどり着いたのかもしれない、とも考えるようになった。
それならば、これからは、
「今日はよい日」の精神で、
私なりに、このなかなかユニークな人生を、楽しんでいけたらいいな、と思っている。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします。いただいたチップは、心身ともに元気になれる活動の費用に使わせていただきます。