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「頑張る」は、もはや傲慢かもしれないーすべてを委ねたとき、人生は「自分」を超えて回り出す

「もっと努力しなければ」
「自分でなんとかしなくては」

そうやって、私たちは常に人生の手綱を強く握りしめて生きています。

でも、34年間という長い期間、裁判所という場所で多くの人生の分岐点に立ち会い、今また僧侶として新たな道を歩む中で、ふと気づいたことがあります。

それは、私たちが「頑張る」と信じているその努力が、実は「人生という大きな流れ」に対する、ある種の傲慢さに過ぎないのかもしれない、ということ。

自分の小さな計算や力だけで未来をコントロールしようとするから、不安が消えず、悩みが増えていく。

もし、その手綱をそっと手放してみたらどうなると思いますか。

自分という枠を超えた、もっと大きな「何か」に人生を委ねたとき、意外なほど物事はスムーズに、そして軽やかに回り始めます。

今日は、親鸞聖人が教えてくれた「救いの教え」をヒントに、私たちが人生の重荷をスッと下ろして、本来の可能性を開花させるための「委ねる哲学」についてお話ししたいと思います。


「救い」は勝ち取るものではなく、届くもの

親鸞聖人の教えの核心に、「本願成就文」という言葉があります。

これは、阿弥陀仏の願いがすでに成し遂げられている、ということを示す一文です。

ここで大切なのは、順番です。

私たちは普通、こう考えます。

「努力する → 結果が出る → 報われる」

頑張った人から順に、幸せを手にする。そういう世界観の中で、私たちは生きてきましたよね。

でも親鸞聖人が説いたのは、まったく逆の順番でした。

すでに願いは届けられている。
すでに救いは、向こうから差し出されている。

私たちが「つかみ取る」のではなく、「すでに届いているものに、ただ気づく」。

これが、本願成就文が語る本質的な意味です。

努力して資格を得たから救われるのではない。
条件をクリアした人だけが救われるのでもない。


ただ、そのままの姿で

今日のこの瞬間、
悩みながら、
迷いながら、
その姿のままで。

私はすでに大きな願いの中に、包まれている。

そう考えると、少し肩の力が抜けませんか。

私たちはずっと、「ふさわしい自分にならなければ救われない」と思い込んできました。

でも、それこそが、知らず知らずのうちに背負ってしまった「傲慢」だったのかもしれません。


「傲慢」というのは、悪いことではありません

ここで少し、「傲慢」という言葉について、お話しさせてください。

傲慢と聞くと、なんだか嫌な響きがします。
威張っている人、人を見下す人。そんなイメージを持つかもしれません。

でも私がここで使う「傲慢」は、そういう意味ではありません。

それは、「自分一人で世界を背負おうとする、頑張り屋さんのクセ」のことです。

・誰かに頼ると申し訳ない。
・弱音を吐いたら迷惑になる。
・家族のために自分が踏ん張らなければ。

そうやって、知らないうちに「自分の力だけで、すべてをコントロールしなければ」
と思い込んでしまっていませんでしたか。

それは、責任感の強い、優しい人ほど陥りやすいクセです。

決して、悪いことではありません。
むしろ、誠実さの裏返しでもあります。

ただ、そのクセが行き過ぎると、いつの間にか「大きな流れ」に逆らって、一人で必死に水をかき分けているような状態になってしまう。

それが、しんどさの正体だったりするのです。


私自身の経験から

少しだけ、私自身の話をさせてください。

裁判所で働いていた頃の私は、まさに「自分が頑張らなければ」という思いに、がんじがらめになっていました。

期日を間違えてはいけない。
少しでもよい調書を作成しなければいけない。
人のお役に立てなければいけない。

そうやって34年間、気を張り詰めて生きてきました。

もちろん、それは仕事として必要な姿勢でもありました。
でも、振り返ってみると、私はいつしか「自分が頑張っていなければ、自分の存在価値が低くなってしまう」とまで思い込むようになっていたのです。

これは、まさに空回りでした。

肩に力が入りすぎて、本当はもっと楽に流れていけるはずの場所で、わざわざ自分でブレーキをかけていた。

僧侶としての道を歩み始め、親鸞聖人の教えに触れ直す中で、ようやく気づいたのです。

「私が頑張らなくても、すでに大きな流れの中にいた」と。

その気づきがあってから、肩の荷が、すっとおりました。


「ダメな自分」こそが、救いの出発点

本願成就文が語るもう一つの大切なことは、対象が誰なのか、ということです。

それは、立派になった人ではありません。
修行を完成させた人でもありません。

迷い、悩み、煩悩を抱えたまま、どうしようもない自分を持て余している、まさにその人です。

これは、本当に大きな転換です。

私たちは、「ダメな自分」を、なんとか克服してから前に進もうとします。

もっと強くなってから。
もっと整ってから。
もっと自信が持てるようになってから。

そうやって、「今のままの自分」を、いつも置き去りにしてしまう。

でも親鸞聖人は、こう言うのです。

そのダメな自分のままで、すでに願われている。

弱さも、
迷いも、
情けなさも、
すべて抱えたままのあなたが、出発点として、すでに受け入れられている。

これは、開き直りではありません。

「ダメだからいい」という話でもありません。

ただ、「ダメな自分を克服してから始まる人生」ではなく、「ダメな自分のままで、すでに始まっている人生」がある、ということなんです。

その視点に立ったとき、初めて私たちは、無理に自分を作り変えようとする緊張から、自由になれるのだと思います。


日常生活での「お任せ」の実践

ここまでの話を、「では、具体的にどう生きればいいのか」という日常のレベルに落としてみます。

「お任せ」というと、何もしないことだと誤解されがちです。

でも、それは違います。

お任せとは、「やるべきことは丁寧にやりながら、結果は握りしめない」という生き方です。

たとえば、こんな小さな実践から始められます。

・朝、一呼吸おいてから一日を始める
スケジュールを確認する前に、ひと呼吸。
「今日も、大きな流れの中にいる」と、心の中でつぶやいてみる。

・結果が見えない不安を感じたとき、言葉にする
「ここから先は、自分の力だけではどうにもならない」と、声に出してみる。それは諦めではなく、肩の荷をおろす作業です。

・誰かに頼ることを、自分への許可にする
一人で抱え込みそうになったとき、「これは、私が一人で背負うべきことだろうか」と、自分に問いかけてみる。

・一日の終わりに、結果ではなく姿勢を振り返る
うまくいったか、いかなかったかではなく、「今日、自分は誠実に向き合えただろうか」だけを振り返る。

こうした小さな積み重ねが、「自分一人で世界を支えなければ」という頑張り屋さんのあなたを、少しずつ緩めてくれます。

握りしめていた手綱を、ふっと緩める。

それだけで、人生という大きな流れが、自然と動き出すのを感じられると思います。

読者の皆さまへ

人生は、修行ではありません。
気づきの連続です。

今日も迷いながら、
悩みながら、
そのままで大丈夫。

大きな存在に見守られているという「安心のベース」を、心の中にひとつ置いて、明日を歩んでみませんか。

頑張らなくても、すでに届いているものがある。

そのことに、今日、少しだけ心を寄せてみてください。

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