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日本橋日枝神社は地域の神社だろうか?

生まれは八丁堀、日本橋ではなく京橋の地域にある。二つの地域が一緒になって中央区になったが、日本橋か京橋かの意識は強かった。
地域のお祭りは日枝神社のお祭りだが、日本橋日枝神社にお参りした記憶が無い。お神輿は山王日枝神社から来ている。神社としては鉄砲洲神社の方が親しみがある。八丁堀という地域は地元の神社はどこなのだろう。日枝神社の氏子なのだろうか。お祭りの時に意識するが、地元の神社と思えない。

千住に住んで、地元の神社へ初詣に行くんだと思った。足立区では、この神社がこの地域の鎮守とはっきりしていると感じる。
初詣の習慣が無かった我が家が特別だったのかもしれない。子供の頃、町全体が大みそかまで店を開いていて二日には初荷で商売開始となる。元旦の朝のお屠蘇が正月行事だった。宗教心だけでなく、余裕が無かったという気がする。三ケ日が当たり前の時代になっても、地元の神社へお参りにはいかなかった。周りの人は日本橋日枝神社へ初詣に行っていたのかどうか。

日本橋日枝神社HP

日枝神社・神幸祭(ひえじんじゃ・じんこうさい)は東京都心を300mの祭礼行列が練り歩きます。御鳳輦二基・宮神輿一基・山車五基が、王朝装束に威儀を正した総代役員や氏子青年の奉仕により、氏子区域を巡ります。途中、日本橋日枝神社は御旅所として神様のお休み所として、駐輦祭(ちゅうれんさい)が行われます。総勢500人からなる現代の王朝絵巻は圧巻です。神幸祭は、例祭日6月15日から直前金曜日の隔年実施。

日本橋日枝神社HP 太線はyumiパンダ
氏子区域の記載は見当たらない

日枝神社の広報誌「山王」の通巻128号の中から一部特集を抜粋して紹介いたします。
徳川家康が入府した頃、江戸には文化というものは殆ど無く、様々な文化の大半は上方から導入したものだった。祭禮文化も然りである。神輿も当初上方の型式をしていたが、徳川期二百五十年の間に天王祭を通じて江戸神輿として発展していった。
天王社の宮神輿が渡御してくると、観衆達から神輿に向かって御捻り(おひねり / 賽銭)が投げられた。更に魔を祓うものとして、魔除けの団扇も神輿に向かって投げられた。これは江戸前の風習と言っていい。神輿が御捻りを受けるための装飾として屋根の際に付けられたものが「葺き返し」(俗称賽銭受け)である。
天王祭の宮神輿は幕府が一切関知せず、勇み肌の江戸っ子達が〝揉み担ぎ”していた。産子町内から町内へ、次から次へと神輿渡しを行い、いわば産子地のあらゆる露路へも神輿を巡行させ町々を祓って行く。まさしく江戸神輿祭の原点が天王祭にあるといえよう。

山王日枝神社ホームページ


八丁堀1丁目と日本橋茅場町(駅名は茅場町だが地名には日本橋が付く)の間に、京橋と日本橋の境界がある。

鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)は東京都中央区にある稲荷神社平安時代創建の古社で、京橋地域の産土神である。

氏子地域
湊一丁目~三丁目
入船一丁目~三丁目
新富一丁目~二丁目
明石町
銀座一丁目12~28、二丁目10~16、三丁目9~15、四丁目9~14、五丁目11~15、六丁目13~18、七丁目12~18、八丁目12~21
新川二丁目28~31(各一部)

八丁堀は京橋なのに鉄砲洲神社の氏子から外れている。
日枝神社の神輿は銀座も通る。日枝神社の神輿が通るからその地域が日枝神社の氏子であるとは言えない。

茅場町は金融の町だ。

日本橋日枝神社は東京証券会館の裏手にある。
蕪の模様の袋に御朱印を入れてくださった。
地域の神社であるより「山王御旅所」とある。図案は「上向き狛犬」だ。

境内図は必要ないほどコンパクトな神社だ。
あえて貼り付けたのは、稲荷社が載っていないからだ。

まずは、写真を。
平成通りから入る。西側から入り、正面に社殿がある。社殿は西を向いている。

手水舎

山王日枝神社から移設されたという、全体の広さに比して大きな鳥居だ。

上向き狛犬

何故、マントを着ているのか?分からない。大切にしている意味?
株価上昇の意味があるような。

御神木

日本橋日枝神社ホームページ

祇園明徳稲荷大神

稲荷社の他の浅間神社の境内社は無いのですか?と御朱印を授けて頂いた宮司さんに聞くと、「(稲荷大神を含め)相殿に祀られています。稲荷社は町会がやっているのです。」と、おっしゃった。
あえて、太文字にした。別なのだ。
確かに、立派な石の塀に囲まれ、別の神社のようにも見える。

盲導犬と一緒にお参りしている方がいらっしゃった
犬も拝んでいるように見える

北側の道から直接稲荷社へ行けるのは、そういう意味なの?


上向きの狛犬、かぶ守り、お猿さん(確認忘れました)が日本橋日枝神社の売りです。

東京証券会館にある喫茶店は「ビジネスサロン」だ。商談のようなお客様で混んでいました。

2000字程度になりました。
勘違いの部分があるかもしれない内容です。
八丁堀にもっと詳しい、住み続けている人に聞いてみたいと思います。
バブル以降、八丁堀地域は崩壊気味です。小学校のクラス会も成立しなくなってきました。

機会があれば、鉄砲洲神社へお参りしたいと思います。40年前、明石町の松徳和裁学校に通った3年間、毎年、針供養へ行きました。その時の印象は「生きている神社」でした。宮司さんが見える神社でした。

ではまた。

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