映画『青い春』について
「先生、咲かない花もあるんじゃないですか」
「花は咲くものです」
2時間弱の映画に男子高校生が青春を抱えたまま、儚く散っていく姿を描いてて本当に何度も観てしまう、いや、誰もが観るべき映画。
青春を上手く扱えずに、理想と現実の乖離に抗う姿が脆くて苦い。青年期、誰もが掲げる理想像と衝突する時期。結局運命を咲かせるのも自分次第というわけで。
この映画を観て思ったのは、誰が真の自分にとっての正解を掴んだのか、ということ。
学を捨てて野球に命を捧げた木村。信念を貫いて価値観の違いを殺す雪男。「死」を唯一上手く扱うことのできたオバケ。九條に憧れ九條を最期まで追いかけた青木。そして、漠然とした「死」への憧れを抱いていた九條。
まず、雪男についてから。正直、めちゃくちゃ衝撃的だった。自分の価値観から遠ざかる大田を見てられなかったのだと思う。だから、信念で価値観ごと刺し殺した。しかし、最後まで雪男は卒業したがっていた。価値観を殺すことは彼にとっては正義でやってのけたことであって、卒業とは無関係なのに、という気持ちなのかな、と。ただ、彼はヒーローになりたかった、それだけなのである。
難病を抱えていたオバケは、唯一自分の死を上手く扱うことができていた。死期を解っている人間は強い。そういうことなのかもしれない。最後には、戯れていた毛虫を桜の木の下に埋めて。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という一説があるように、オバケは自分自身を毛虫に委ね、桜の木の下に埋めたのかもしれない、とも思える。そういう面では、彼は唯一、現実をなぞらないで生きているようで、浮世離れしていたとも思える。最後に、机の上に添えられた1輪の桜の周りに、1匹の毛虫がいたシーンが答えだと思っている。
そして、九條と青木の関係性。九條は確かに、表向きでは友人として、青木をカテゴライズしているものの、最後まで青木に情はなかったと思う。青木は逆に、青春の在り方全てを九條に捧げていた。九條は友人であって、憧れであった。だからこそ、九條が思う青木への情の重さとのギャップが見えてしまったときに、もうわかちあうことはないと、覚悟を決めたのだと思う。九條は、最初から、自分の追い求める「死」という美化されすぎた理想しか眼中になかった。
最後に、失明した江上とその後の堀の対応について。いつも江上を傍において大柄な態度をとっていた堀。いわゆる、他者から見れば九條と青木のような関係性であったわけだが、九條と青木の関係性が破錠したときに、決定的な違いを見せつけられる。九條と青木はかたち上「友人」として結ばれていたものの、他人からみれば青木はパシリであって、九條からみれば、ただのコバンザメ的存在であった。(これは言い過ぎかもしれない、一応友達としての情は多少は垣間見える部分もあったため)
しかし、一見上下関係が分かりやすく見え透いている関係だと思われた堀と江上だが、江上が失明した後も隣にいたのは堀であって、対等な立場として、そして傍にいる存在としてお互いの情を扱っていた描写がみられる。
この対立させられた描写は、あまりにも皮肉な対比で胸が痛くなった。
最後に、九條が机に描いた真っ黒な影に重なるように死んでいった青木。最後に九條には唯一出来なかった事を成し遂げた青木。命を投げ捨ててまで、掲げた栄光、そして九條への熱くて、真っ黒な、情。彼にとっての栄光は九條を超えることだったのか、それとも九條を模倣したような存在だったのか。彼にとっての青春は果たして九條を妥当したという事実で塗り替えることが出来たのか。
個人的に、それについては、NOだ。九條は何もかもスプレーで真っ黒に染めた。これは未来の暗示でもあり、結果の暗示ともとることができる。特に、決定的に思った場面は、最後に九條が青木の死を見届けた際に、ただ遠くを見るような目で終焉を迎えていたところである。確かに、ここで初めて九條は自分にはない「死」を掲げた青木をみて、青木を認めたのかもしれない。でもそれは、未来を犠牲にしての結果。もうバカであった青木も、未来の選択肢も、どこにも転がっていない。最後の九條の目はどんな感情だったのか。空虚の目か、蔑みの目か、それとも後悔かの目か、諦念の目か。
それでも皮肉なことに、九條は青木が死んでも尚、生きてしまっているのだ。取り返しがつかない事実があろうとも関係なく、空虚な結果を抱えたまま生きていかなくてはならない。
誰が本当の青春を掴むことができたのか、わからない。ただ皆、何者かになりたいだけだったのだ。
青春は現実を狂わす。いや、現実が青春を狂わしてしまったのかもしれない。
花は必ず枯れるもの、そうなのかもしれないですね。
※あくまで個人の考察と感想なので、お門違いでしたら、すみません。
