『ハナトミナト』第十六章エピローグ
私は漆を育てる森になろう
「こんにちはー」
玄関から張りのある声が響いた。朔太朗だ。寿々弥と母は玄関で出迎えた。
「朔ちゃん、久しぶりやな。来てくれてありがとう」
「朔太朗くん、元気にしてる? いつもありがとうね」
寿々弥が四年かかって通信制高校の単位を取るうちに、朔太朗はひと足さきに作る人の道を歩き始めていた。大学のプロダクトデザイン学科に通う朔太朗は春休みを利用して、寿々弥の引越しを手伝いに来てくれたのだ。
「おー、部屋すっきりしたやん。何、部屋のもん丸ごと持っていくん?」
「ううん、この機会にだいぶ物を整理してん」
「寿々のことやからまたぼけーっと道草食ってんのか思ってたわ」
「大きいもんは朔ちゃんに解体してもらおうと思って残したあるで」
寿々弥の視線の先にはパイプベッドがある。
「よっしゃ、まかしとけ」
朔太朗は漫画みたいに腕まくりをして、早速パイプベッドの解体に取り掛かった。寿々弥は客間の茶箪笥を開けた。漆の器を手に取る。母が声をかけてきた。
「そのお椀、持っていくの?」
「いい? お守りみたいに大事にするから」
「高ったのよ、それ」
母はいたずらっぽく笑った。
「一緒に乙也さんのお店で買ったよね。覚えてる?」
「寿々は小さい頃からおとやさんって言ってたわね」
「お母さん、乙也さんが嫌いだった?」
「嫌いもなにも、お母さん、おとやさんって知らないもの」
「えっ。私の記憶では小さい頃にお母さんと一緒に神於山に登って頂上にある店でお椀を買ったって……」
「神於山なんて遠い山、一緒に登ったことないわよ。どこか別のところと勘違いしてるんじゃない?」
「じゃあ、乙也さんは?」
「知らないわ。第一そのお椀もお母さんが若いときに奮発して買ったものだから、寿々弥は知らないはずよ」
「え……?」
「ちょっと待ってね。このお椀には桐箱があるの。持っていくならそれに入れていくといいわ」
困惑している寿々弥をよそに、母は客間の押し入れの前に立った。
「寿々、この押し入れの天袋見てくれる?」
「うん」
寿々弥は踏み台を持ってきて上った。天袋の襖を開けると紙と土の埃の匂いがして寿々弥はむせた。
「落ちないでね、気をつけて」
「うん。すごい埃」
「長いこと触ってないから、奥の方に入ってると思うの。茶釜の箱の上辺りにないかしら」
「茶釜の箱ってそもそもどれよ」
「角よ、多分」
押し入れの天袋は普段開けることがない。母の言われたところを見ると似たような箱だらけだ。
「わかるでしょう?」
「わからへんよ。テトリスやん」
「お椀が入る大きさだからそんなに大きくないわよ。黄色の紐が掛かってるの」
「紐なあ。うーん、……あっ。これかも。色違うけど」
小さな隙間に押し込むように詰まっている箱があった。引っ張り出してもほかの箱がギチギチに嵌っているため傾れることもなさそうだった。
取り出した箱には緑色とクリーム色が縞になった平らな紐が掛かっていた。触ったところに指の型がつくほど埃が積もっている。ティッシュペーパーで埃を拭き取る。
「寿々弥の支えになってくれるなら、このお椀を持っていきなさい。紐の掛け方を教えるから覚えてね」
お椀を桐箱に入れ蓋をすると、母は平たい真田紐を上下左右に十字に交差させて掛けた。
「上手く手が動かないわ。寿々、ここを紐が平らになるように括ってくれる?」
寿々弥は蝶結びを作って、言われた通り紐が捻れないように注意してきゅっと締めた。
「これは四方掛けっていう結び方よ。もし忘れたら調べて結んでね」
「うん」
そのとき、寿々弥は箱に墨で書かれた文字に引き付けられ凝視した。
<乙宮晶子>
<鏡が淵>
「……」
これって……。
『漆はお好きですか?』
ギャラリー空蜜で話しかけてくれた女性の姿が甦った。
「これはね、お母さんがお嫁に来る前に買って持ってきたの。病気になって、お母さんもよくお椀を眺めたわ。しんどいのが少し楽になる気がした」
「私もやよ」
母のここまでの旅路は長かったろう。母は寿々弥にとっての道だった。母が作ってくれた道を二人で歩んできた。これから母は自分の道をゆき、寿々弥は光さす方へ自ら道を作ってゆく。
鏡が淵と乙也は寿々弥の鏡だった。ときに憩いの場であり、ときに心を揺さぶった。この果てしない小さな世界で寿々弥は育った。
「いつかこんな作品を作れるようになりたい」
母からこの世に産み落とされ、鏡が淵で生まれなおし、生み出す者に生まれ変わる。
漆は傷つけられた木の幹から採取される。樹液を取り尽くされた木は枯れ、伐採される。伐採された木は漆器の木地となり、生まれ変わる。木が切り倒された後の森に新たに光がさす。光を受けて切り株に小さな生命が芽吹き、森は再生される。寿々弥は漆を育てる森になろう、と思った。
「そっか。寿々弥は作る人になるのね」
母は優しく寿々弥の髪を撫でた。
「頑張ってね」
「ありがとう」
鼻の奥がつんとした。それは漆の匂い。ミナト屋の匂い。茶箪笥の匂い。これから出会う新しい漆の匂い。心がぽかぽかとしている。鏡が淵の水門から水が流れていく情景が見える。時間が前に進み始める。心が解き放たれ行く道を自分で決めた今、この瞬間の呼吸も未来の光も自分のものだと信じられる。
「風呂敷も取ってくるわね」
母が和箪笥のある自室へ行った。
寿々弥は心の奥底に乙也と小さな寿々弥を感じ、自分を抱きしめた。
小さな寿々弥が、大人になろうとしている寿々弥を見て嬉しそうに微笑んだ。寿々弥は語りかける。
「愛してる。私はあなたを誰よりも愛してる」
完
参考図書『よくわかる起立性調節障害』中澤聡子(法研)
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