舞い踊れ!第38話:妄想も 噂になれば 七十五日
昨夜の騒動がなぁなぁのうちに収まった、翌朝のことである。
参蔵屋の母屋にある一室にて、お糸は大きな手を胸の前でモジモジと動かしながら、藤お嬢様に相談を持ちかけていた。
「あの……お嬢様。その、そろそろ新しい晒が、余分に必要になりまして……」
お糸の役割は、中村芝翫の胸元をきつく締め上げ、完璧な男の体格に仕立てる着付け担当である。当然、晒の消費は激しい。藤はお糸の言わんとすることを瞬時に察し、扇の奥で涼やかに微笑んだ。
「ええ、わかりましたわ。すぐに良い品をたっぷり調達させましょう」
藤が滑らかに答えた、まさにその瞬間。
横に控えていた侍女の桜は、全身の血が引いていくほどの衝撃を受け、顔を真っ青にしておののき震えた。
(ひ、ひぃぃ……! やっぱり、あの噂は本当だったんだわ! あの大柄なお糸様は、お嬢様や罪なき男たちをぐるぐる巻きに縛り上げるために、新しい晒をたっぷり仕入れようとしているんだわ! しかも、お嬢様はそれをにこやかに許してしまうなんて……!)
桜の脳裏で、昨夜の「立派で大きな張り物」への凄まじい誤解と、お糸の「縛るために晒を使っています」という恐怖の噂が完璧に結びつき、強固な妄想へと姿を変えたのだった。
ここから、壮大な勘違いの耳打ち伝言の連鎖が幕を開ける。
部屋を出た桜は、廊下で出くわした手代の清吉の袖を涙目で掴んだ。
「清吉さん、大変ですわ! あの大柄なお糸様が、お嬢様に『きつく縛り上げるための晒がもっと必要だ』と不気味に微笑みながら頼んでいたのです! お嬢様もそれを承認して……!」
「なんだって!?」
常識人の清吉は、お糸の縛り上げる噂を思い出し、額に汗を浮かべて頭を抱えた。
「あの大女、本当にやる気なのか……。おい八兵衛! お前、大急ぎで馴染みの反物屋へ行って、良質な晒をいつもの倍、大至急届けるよう伝えてこい! お糸様が使うそうだぞ!」
清吉にどやされて飛び起きた八兵衛だが今朝、興奮した桜から「顔が真っ白で、長い髪をぼさぼさと肩に垂らし、この世の者とは思えぬか細い声で囁く、本物の恐ろしい幽霊が渡り廊下に現れた」という話を、たっぷりと聞かされていたのだ。
うっかり者の八兵衛のド天然な頭の中で、「お糸」「晒」「縛る」という言葉と、桜から聞いた「不気味な幽霊」の姿が、勝手に結びついておかしな化学反応を起こした。
(縛る? 晒? ……ああっ! そうか、昨夜出たっていう、そのおどろおどろしい幽霊を、暴れないように晒でぐるぐる巻きに縛り上げるための、白装束を作るんだッス!)
八兵衛は一人で勝手に納得して深く頷くと、反物屋へ一目散に駆け込んだ。
「反物屋の旦那! 大変ッス! 参蔵屋が最近引き入れた中村座のお糸様が、夜な夜な現れる本物の幽霊を縛り上げるために、白装束用の晒を山ほど大至急ほしいって言ってるッス!」
「な、なんだってぇ! 幽、幽霊を縛る白装束だと!?」
お使いの用件をいつもすっぽかす八兵衛が、今回に限って妙に勢いよく、真に迫った顔で伝えたものだから、反物屋の主人は腰を抜かさんばかりに驚いた。主人はすぐに近所の者たちにこの一大事を触れ回った。
「おい、聞いたか! 参蔵屋の離れにいる中村座の大女が、夜な夜な現れる本物の幽霊のために、白装束を晒で夜な夜な手作りして縛り上げているらしいぞ!」
その噂は、尾ひれ背ひれを伴って凄まじい勢いで市中へと駆け巡った。
「お糸という女は、幽霊を呼び出しては白装束を着せ、呪いの晒で縛り上げる怪しい術を使うらしい」
数日のうちに、そんな根も葉もない噂が江戸中を駆け巡ることとなったのである。
数日後の夜、離れの部屋。
「……なんで私が、幽霊のために白装束を作って縛り上げる恐ろしい女にされているのですかぁっ!?」
お糸が顔を真っ赤にして、泣きべそをかきながらぷんぷん怒っていた。
金庫番のお櫛は、ため息をつきながらお茶をすする。
「まぁ、いいじゃないの。以前の『誰彼構わず男を晒で縛り上げ、そのいちもつを握り潰す』っていう、噂に比べたら、幽霊のために白装束を縫っている方が、お淑やかで随分マシよ」「あれはあれで面白かったけどな」「あなたが言わないのよ、お箱。原因あなたでしょうに」「そのおかげで傑作ができたんだ、そんな噂も七十五日、ほぼきえたじゃないですか」「まだ時々残ってるから困ってるのよ」
お紅も、気配のない地味な素顔のままニヤリと悪戯っぽく笑った。
「まあまあ、確かにねぇ。だったら、もっとこっちの幽霊の噂を広めて差し上げましょうか」
お茶目でおふざけが大好きなお紅は、早速本気の幽霊化粧を自らに施すと、夜な夜な離れの周囲や裏道をうっすらと徘徊して遊び始めたのである。
お糸、お櫛、お箱が「きゃあぁぁっ! 本当に出た!」と絶叫して逃げ惑う振りを見せ、それを見かけた町人たちも「本当に参蔵屋に幽霊が出た!」と腰を抜かした。
しかし、芝翫に「親切に居候させてくれている参蔵屋の皆さんには迷惑をかけんな」との苦言をいわれ、シュンとなるお紅たち。
ところが、その「幽霊が静かになった」ことが、今度は参蔵屋に出入りする江戸っ子大工たちの間で、まったく別の恐怖へと変換されてしまう。
参蔵屋の舞台設営を進める作業場にて、大工たちが額の汗を拭いながらヒソヒソと話し合っていた。
「おい、聞いたか。参蔵屋の離れにいたあの幽霊、急に静かになったろ」
「ああ、聞いた聞いた。なんでも、参蔵屋のお嬢様や大番頭の要望に、少しでも逆らったり不満を漏らしたりすると、あの幽霊たちに呪い殺されるからだってよ」
「おいおい、呪い殺されるだけならまだマシだぜ! 逆らった奴は、あの大柄な女に晒でがんじがらめに縛られて、生きたまま大事な玉を綺麗に切り取られちまうって噂だぞ!」
「いやいや 参蔵屋が将棋の駒で幽霊を押さえつけてるっていう話じゃねぇの?」
「将棋の駒っていったら中村座、成駒の座頭だから、中村芝翫のことか??」
「確かに参蔵屋が最近作ってる新しい舞台で役者泣かせたり追い出したりしてる色男と美女たちの見たぞ」
「その美女たちが幽霊ってことかい?」
「ってことはなんだい?参蔵屋は幽霊をも手なずける成駒を手駒にしたってことか?」
「ひぃぃ、 参蔵屋の怒りだけは絶対に買うなよ……!」
大工たちはブルブルと身震いし、互いに顔を見合わせた。
「それにしてもよ……」
一人の大工が、寒空を見上げて、怪訝そうに首を傾げた。
「この寒い雪が降りそうな時期に、なんでこんなゾッとする怪談話なんかやってんだよ。こんな冷える話は、夏にとっとけってんだ!」
「全くだ、足元から冷えてきやがった。余計な話を口にして縛られたらたまらねえ。さっさと仕事を終わらせて、湯屋へ温まりに行こうぜ!」
大工たちは一目散に道具をまとめ、寒風の中をそそくさと退散していくのだった。
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父の研究サポートのバイト代として「チップは好きに受け取っていい」って言われて、なんとなく引き受けてしまいました。本当に面白かったらで構わないので気が向いたらお願いします。父の研究支援にも回したいと思ってます。