舞い踊れ!第48話:残り物 そいつは福か 捨て物か
参蔵屋の新しい演芸場を揺るがした、割れんばかりの拍手喝采と興奮の嵐。それも、大トリである「供奴」の定式幕が静かに引き切られると同時に、ようやくおだやかに収まっていった。 檜(ひのき)の引き締まった香りが漂う芝居小屋から、江戸中の大店の若旦那衆や、長唄や三味線の家元衆が、皆一様に興奮で顔を上気させ、口々に「凄かった」「素晴らしかった」と絶賛の声を響かせながら、一人、また一人と暖簾(のれん)をくぐって春の宵へと帰っていく。
あれほど賑やかだった芝居小屋から人影が消え、しんと静まり返った客席。 そこに残されたものといえば、見物衆がうっかり落としていった手拭いや扇などの忘れ物と、踏み散らされた紙屑や塵(ちり)、そして見物衆の胸に深く刻まれた、一生に一度の素晴らしい芝居の思い出ばかりであった。
そんな抜け殻のようになった客席のなかで、ただ一人、帰ろうとせずにぽつんと座り続けている男がいた。 新しくこしらえられた客席の特等席で、腕を組んだまま、じっと西の桟敷席を見上げて不敵な笑みを浮かべている男――大塚屋の若旦那、大塚知盛である。
舞台裏の片付けを清吉や八兵衛に命じ、ようやく一息つこうとしていた大番頭の光五郎は、客席に居残るその不届きな人影に気づいた。 光五郎は自身の胃の腑をぎゅっと押さえ、顔をしかめて不審そうに知盛へと近づいていった。なんとかして、この無礼な男を体よく追い払おうという腹積もりであった。
「これは、大塚屋の若旦那。すべての演目はとっくに終わりましたよ。名残惜しいのは分かりますが、もう夜も更けてまいります。ささ、お引き取りを」
光五郎が声をかけると、知盛は組んでいた腕を解き、にやりと口元を歪めて光五郎を見上げた。
「いや、俺は待っているんだよ」
「はて、待っている?」 光五郎は、わざとらしく首を傾げてみせた。 「どなたかお連れ様でも、厠(かわや)にでも行かれておいでですか? でしたら、表の門の外でお待ちいただいた方が、夜風が当たって気持ちが良いかと存じますがねぇ」
知盛はふっと鼻で笑い、顎で静まり返った西の桟敷席を指し示した。
「いやいや、厠なんかじゃねえよ。……この大がかりな芝居という名の、なんとも手の込んだ難解な当て物を仕掛けてな。客席の男どもが、提灯の明かりに照らされてどんな不細工な顔をしておたおたするか、その答え合わせを今か今かと待ちわびているお方が、そこの西の桟敷席あたりにおられるんじゃなかろうかい? 多分そこの、藤の花と桜の花が、いかにも意味ありげに綺麗に活けてある場所――藤お嬢様本人が、そろそろ俺を出迎えに、高座から降りてきてくれるんじゃないかと、こうして首を長くして待たせてもらってるんだがね」
その言葉が静まり返った小屋に響いた瞬間、西桟敷を遮っていた薄暗い帳(とばり)の奥から、鈴の鳴るような涼やかな笑い声がこぼれ落ちた。
「ふふっ……」
扇を軽く合わせたような小さな音が響き、続いて、藤お嬢様の落ち着いた声が客席まで真っ直ぐに届いた。
「おみとおしでしたか、大塚様。少々お待ちくださいな。今、そちらに伺いますわね」
横に控えていた侍女の桜が「お、お嬢様! よろしいのですか!?」と慌てて引き留めようとする衣擦れの音が聞こえたが、藤は静かにそれを制した。 やがて、西桟敷の階段を、衣の裾をたおやかに揺らしながら降りてくる二人の足音が響いた。
一方、客席の通路で知盛と向かい合っていた光五郎は、驚愕のあまり完全に言葉を失い、開いた口が塞がらなくなっていた。
「お、大塚……様……? お前さんが、あの大塚屋の、大塚知盛……?」
光五郎は冷や汗をだくだくと流し、顔を真っ青にしておろおろと狼狽(ろうばい)した。 お見合いの数日前、手代の八兵衛が伝達を間違えたせいで、知盛は予定外の時刻に店先を訪れていたのだ。そこで無礼な男と誤解した光五郎は激怒し、寝ぼけた八兵衛が大豆を投げつけて追い払うという大不祥事をやらかした。 光五郎は、あの店先で大豆をぶつけられて帰っていった若造が、まさか最高級の墨を最速で届けてくれた大塚屋の若旦那本人だとは、今の今まで夢にも思っていなかった。八兵衛の「パッとしない馬借」というポンコツな報告を真に受けて、すっかり別人と信じ込んでいたのである。
「あ、あ、あの時の……! 鬼の役と言って帰っていった、あの男が……! そ、そうとは知らず……うちの下働きの者が、大変な無礼を……大豆などという、とんでもないものをぶつけまして、誠に、誠に申し訳ございませんでした……!」
大番頭としてのプライドもどこへやら、光五郎がその場で額を床板に擦りつけんばかりにして必死に弁明し始めた。
そこへ、西の桟敷席から階段をゆっくりと降りてきた藤お嬢様が、侍女の桜を伴って、静かに歩み寄ってきた。 藤はお馴染みの大きめの扇で顔の下半分をすっぽりと隠したまま、らんらんと輝く知盛の瞳をじっと見つめた。
「大塚様」
藤はスッと扇を揺らし、その涼やかな瞳に面白そうな色を浮かべて、知盛の目の前でぴたりと足を止めた。
「随分と大きな大口を叩いてくださいましたね。……こけら落としの大芝居を、手の込んだ当て物だなどと。それも、西の桟敷席にいる私が出迎えにくるのを待っていたと……。さて、一体、この舞台の裏に隠された何が、どこまでお分かりになったというのです?」
藤の問いかける静かな言葉が、静まり返った芝居小屋の空間に、心地よい緊張感とともに染み渡っていくのであった。
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父の研究サポートのバイト代として「チップは好きに受け取っていい」って言われて、なんとなく引き受けてしまいました。本当に面白かったらで構わないので気が向いたらお願いします。父の研究支援にも回したいと思ってます。