舞い踊れ!第43話:整えど 整わぬのは 人心
参蔵屋の演芸場のこけら落としとなるお見合いの大舞台まで、残すところあと三日。 お嬢様の突拍子もない一言から始まった客席の増設も、命惜しさに死に物狂いとなった大工たちの手によって一列分が見事にねじ込まれ、美しく整えられていた。 大塚屋の若旦那・知盛が最速の飛脚を飛ばして届けてくれた、水や汗に決して流れない極上の墨と膠も、楽屋の化粧机の前にしっかりと備え付けられている。 舞台の普請も、必要な道具も、今や何一つ不足なく完璧に整い、あとは本番の幕が上がるのを待つばかりであった。
ところが――。 肝心の演芸場の舞台の上では、おめでたいお披露目を前にした華やかな調和ではなく、張り詰めた氷のような沈黙と、それを打ち破る凄まじい言い合いが繰り返されていた。
「下手くそ! 違う、全然違げえよ! 鳴らし出しの折り合いが、爪の先ほど遅いんだよ! お前らそれでも天下の鳴物衆か!?」
舞台のど真ん中で、東からげの稽古着をはだけさせた中村芝翫が、額に青筋を浮かべて怒鳴り散らしていた。 一人で七つの役を踊り分ける前代未聞の七変化をやりきると大見得を切った芝翫は、二月の厳しい寒さの中でも全身から湯気のような汗を流し、その気性はいつにも増して荒れ狂っていた。
舞台の正面、客席からよく見える場所に座って唄と音を流しているのは、文次と三郎助の二人である。 今回は黒御簾の陰に隠れるのではなく、堂々と表に出て演奏する趣向なのだ。 唄方の文次は、目が見えないため芝翫の動きは一切見えないが、その容赦のない悪態だけは耳にしっかりと届いていた。文次は三味線を持たず、手に握りしめた扇子を激しく震わせながら、明後日の方向に向かって真っ赤な顔で怒鳴り返した。
「べらんめえ! 誰が下手くそだってぇ!? お前が勝手にへろへろと変拍子を踏み鳴らすから、こっちの唄の息が狂うんだろうが! 目が見えねえ俺の耳を誤魔化せると思うなよ、この口の悪いバケモノ役者が!」
一方、そのすぐ隣で三味線を抱えて音を出す三郎助は、耳が全く聞こえないため、芝翫が何を怒鳴り散らしているのかはさっぱり分からない。 ただ、三郎助の目には、芝翫の無駄のない美しい筋肉の動きや、床板を伝わってくる微かな振動が完璧に捉えられていた。そのため、お調子者らしく呑気に三味線の糸を爪弾きながら、ぽんと手を打った。
「おう、そうかい! 芝翫の旦那、俺たちの作った供奴の曲が、あまりに極上すぎて体が勝手に浮かれちまうってか! 嬉しいことを言ってくれるじゃねえか、がっはっは!」
「酒飲み野郎! 褒めてねえよ! けなされてんだよ! なんでお前はそういつもお気楽なんだ!」
文次がさらに逆上して扇子で床を叩くが、やはり三郎助には聞こえない。
三人の間に入り、この噛み合わないやり取りを必死になって繋ぎ止めているのが、声を出せない巳之助であった。 大まかな曲の骨組みこそ、お嬢様の差配もあってなんとか噛み合うところまでは漕ぎ着けていた。しかし、いざ本番を目前にして「芸を極限まで研ぎ澄ます」という段階に入ると、話は違ってくる。 動きの細かなニュアンスを乗せる振りの化粧や、一瞬の息遣いの同期といった、極めて繊細な調和の領域になると、感覚の欠落した彼らの間では、どうしても細かいニュアンスが伝わりにくいのだ。
巳之助は自身の目と耳、そして身体をフルに使い、血の滲むような奮闘を続けていた。 芝翫が「ここは大股に踏み込んでから、一拍ためて引き戻したいんだ」と足を踏み鳴らせば、巳之助はすぐさまその意図を読み取る。 そして、目が見えない文次には、力強い足音を「ダン! ダン!」と床に響かせてその鋭い間合いを伝え、文次の肩に手を置いて「ここは唄をぐっとためて、一気に吐き出すんだ」と無言の緊張感を伝える。 同時に、耳が聞こえない三郎助には、立方の重心の移動や手の角度を大げさな身振り手振りで示し、「ここはもっと三味線の糸を強く弾き、合いの手を鋭く入れてくれ」と、芝翫の呼吸を翻訳して視覚で叩き込む。
しかし、その必死の伝達も、あと一歩というところで噛み合わず、またしても音がずれる。
「違う! そうじゃねえ! だから巳之助、お前の伝え方がまだぬるいんだよ!」
「なんだと、巳之助を責めるんじゃねえ! 悪いのはお前の我儘な足拍子だ!」
巳之助は、しゃべれない喉をくっと鳴らし、やれやれと首を振りながらも、足を激しく横に「シュッシュッ、シュッシュッ!」と擦りつけて、「違う、お互いに一歩も引くな!」と猛烈な同意と発破の音を響かせ、再び二人の間を駆け回るのだった。
本番を三日後に控えた今日も、この凄まじい緊張感と、一向に整わぬ人心のぶつかり合いが、朝から晩まで延々と続いていた。
「もう、本当にハラハラして見ていられませんわ……」
稽古場の片隅で、侍女の桜が胃の腑をぎゅっと押さえながら、真っ青な顔で手代の清吉の袖を掴んだ。
「清吉さん……本当に、本当にこのままでまともな舞台になるんでしょうか。お見合いどころか、初日の最初の一曲目で、演芸場が殴り合いの大喧嘩で崩壊してしまうのではないかしら……」
清吉もまた、深い胃痛に耐えながら、うつろな目で舞台を見つめ、掠れた声で応じた。
「わかりません、桜さん……。舞台の床も座席も、お嬢様の無茶振りに応えて大工の棟梁たちが一寸の狂いもなく整えてくれましたが……あのバケモノたちの人心だけは、いくら私が銭を積んでも、どうしても整えようがございませんよ……」
お互いに相手の芸の凄まじさを誰よりも認め合っているからこそ、一歩も妥協できず、傷だらけになりながら最後の調和を求めて牙を剥き合う。 本番を目前に控えてなお、不器用なバケモノたちの稽古場は、一向に噛み合わぬまま、嵐のような不協和音だけを江戸の寒空へと響かせ続けるのであった。
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父の研究サポートのバイト代として「チップは好きに受け取っていい」って言われて、なんとなく引き受けてしまいました。本当に面白かったらで構わないので気が向いたらお願いします。父の研究支援にも回したいと思ってます。