舞い踊れ!第41話:大塚屋 墨一本でも 届けけり
江戸のはずれ。中山道が通る巣鴨から目と鼻の先にあたる、大塚の地。 あえて大通りから奥まった場所に広がる広大な敷地に、大店『大塚屋』の本店、もとい巨大な荷の集積場は鎮座していた。
「おお……なんてこった。あのパッとしない馬借の旦那が、こんなにとてつもない大店の若旦那だったッスか!?」
手代の八兵衛は、目の前に広がる光景にポカンと口を開けて立ち尽くしていた。 ひっきりなしに馬子や荷車が出入りし、全国から集まったあらゆる品物が、またたく間に仕分けられて各地へと運ばれていく。 八兵衛が以前から町で見かけていたのは、大塚屋が江戸市中に細かく設けていた小さな荷の仮置き場にすぎなかったのだ。そこへ出入りする少数の馬子たちを見て、八兵衛はずっと「あんまりパッとしない馬借」だと舐め腐っていたのである。
八兵衛はゴクリと生唾を飲み込むと、意を決して大塚屋の店先へと足を踏み入れた。
「頼もう! 参蔵屋の使いの者ッス!」
八兵衛が恐る恐る声をかけると、帳場の奥から一人の男がゆっくりと姿を現した。
「……ん? なんだ、いつぞやの豆まきの小僧か。今日は随分と遅い節分だな。また豆をぶつけに来たのかい?」
にやりと笑いながら現れたのは、大塚屋の若旦那・知盛であった。 八兵衛は「ひぃぃっ!」と震え上がり、あの時、節分の大豆を全力で投げつけてしまった恐ろしい記憶が蘇って顔を真っ青にした。
「ち、違うッス! 今日はお嬢様からの頼みで……何に使うかは俺も全然知らないんスけど、どうしても至急、水や汗に絶対に流れない、最上等の極上の墨が必要なんだそうッス! あちこち探したんスけどどこにもなくて……とにかく、お嬢様がどうしても必要って言ってるんス!」
八兵衛がしどろもどろに訴えるのを聞き、知盛はふう、と息を吐いて腕を組んだ。
「なるほどな。お前さんが江戸中を探しても見つからなかったのは当然だ。……今、江戸にある上等な墨と膠(にかわ)は、日光東照宮の修繕の奉納品として、うちが大枚を叩いて根こそぎ買い集めちまったからな」
「えっ……」 「そして、その墨を積んだ荷は、つい先刻、日光へ向けて出発しちまったところだ」
その言葉に、八兵衛は目の前が真っ暗になった。 (そんな……お嬢様から頼まれた大事なお使いなのに、これじゃあ手ぶらで帰るしかねえッス……!) 八兵衛ががっくりと肩を落としてへたり込みそうになった、その時である。
知盛は帳場の奥に向かって、鋭い声を張り上げた。
「おい! 今すぐ一番足の速い飛脚を出せ! 先刻出立した日光行きの荷を追いかけさせ、積み荷の中から極上の墨と膠を一つずつ抜き取って、急ぎ持ち帰らせろ!」
その思いがけない指示に、奥で帳簿をつけていた番頭女中のお辰が血相を変えて飛び出してきた。彼女は知盛を幼い頃から育て上げた乳母であり、大塚屋の実務を切り盛りする真っ当な商人である。
「わ、若旦那! 何をおっしゃいますか! たかが墨一本のために飛脚を走らせるなど、とんでもない大赤字ですよ! しかも一度荷造りしたものを解かせるなんて、手間も割に合いません!」
お辰が慌てふためいて猛反対するのも無理はない。たった一つの墨のために、高価な飛脚を仕立てるなど、商いとしては正気の沙汰ではないからだ。
しかし、知盛は一切動じず、涼しい顔でお辰を制した。
「構わねえ。出せ」 「若旦那!」 「いいか、お辰。うちの店は、注文があれば期日までにきっちり届けるってのが信条だ。参蔵屋のお嬢さんが、明日までに欲しいと俺を頼ってきたんだ。大塚屋はいつでも、欲しいと言われたものを約束通りに届けるのが掟であって、それを違えちゃいけねぇよ。目先の損得の話じゃねえんだ。大体注文より多く入れすぎてたしな」
知盛のその言葉に、お辰はぐうの音も出なくなり、胃を押さえて「ああ……また大赤字が……」と崩れ落ちた。
知盛は再び八兵衛に向き直ると、不敵な笑みを浮かべた。
「そういうわけだ。明日の朝一番に、必ず参蔵屋へ極上の墨を届けてやる。……お代は、市中で売られている相場の値段で構わねえから、安心しな」
「えっ……!?」 八兵衛は、思わずポカンと口を開けた。 大赤字を切ってまで最速で品物を手配してくれた上、足元を見るどころか市中の値段で売るという。それは単なる親切などではなく、どんな注文であっても必ず約束を果たすという、大塚知盛の商人としての凄まじい矜持と掟の証明であった。
「あ、ありがとうございます……! 若旦那、本当にすげえッス!」 八兵衛は感動で鼻水をすすりながら、何度も何度も深く頭を下げたのだった。
*
その夜。 参蔵屋の奥の私室で、藤は八兵衛から一連の出来事の報告を受けていた。
「……へえ。大塚屋の若旦那が、大赤字を切ってまで、たかが墨一本を明日届けると約束してくれたのね」
藤は扇の奥で目を細め、静かに感嘆の息を漏らした。 横にいた桜が、信じられないというように目を丸くしている。 「まあ……いくらお嬢様の頼みとはいえ、そこまで義理立てしてくださるなんて。あの方、ただ口が悪いだけの男ではなかったのですね」
「ええ。彼は建前を嫌う極端に合理的なお方のようだけれど、自ら定めた商いの掟だけは、何があっても絶対に守り抜く、なんて筋の通った、途方もなく大きな器なのかしら」
あの時、自らの顔の傷の噂に惑わされず、「自分の目で見て確かめたい」と言い放った男。そして今、損得を度外視してでも商人の掟を貫き通した男。 藤の胸の中で、大塚知盛という男への評価と信頼が、確固たるものへと変わっていく。
翌朝、約束通り大塚屋から届けられた極上の墨と膠を受け取ったお紅が、八兵衛に深く感謝しようとするも、お紅を「幽霊」と思い込んで怯えきっている八兵衛は「ひぃぃ!」と悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。 墨を握りしめたまま「待っておくれやす!」と必死に追いかけるお紅と、涙目で死に物狂いで逃げ回る八兵衛のドタバタ劇が、のちに「墨を持った幽霊に追い回される哀れな手代」として、面白おかしくかわら版に書かれて江戸中の大評判になったのは、また別の話である。
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父の研究サポートのバイト代として「チップは好きに受け取っていい」って言われて、なんとなく引き受けてしまいました。本当に面白かったらで構わないので気が向いたらお願いします。父の研究支援にも回したいと思ってます。