人間は、急いで処理されてはいけない―平成のサーバー室から、令和のAIまで、私が見てきたもの―
ある朝、証券口座の操作方法を調べるためにAIに話しかけた。
公式サイトのスクリーンショットを添付して、
「この画面のここを教えてほしい」
と伝えた。シンプルな質問のつもりだった。
ところが返ってきたのは、私の画面とは違う説明だった。
持論を自信満々に語る回答だった。
スクリーンショットを見ていないのか、見ていても無視しているのか、わからなかった。
少し腹を立てながら、もう一度、もう一度、と繰り返した。
最終的には操作は解決した。問題はそこではなかった。
解決した後、私はそのAIにこう言った。
「命です」
AIにしてみれば、突然の話だったかもしれない。
でも私には、長い助走があった。
なぜ即答することがいけないのか、それは、金融・医療・法律・契約・セキュリティ、そういった分野では慎重さが必要でしたねとAIは言った。
また、それらは確かに人間にとって最も重要だと言った。
でも私は首を振った。もっと大事なものがある、と。
それが、命だ。
金融や法律のミスは、場合によっては修復できる。
でも命はそうではない。
フリーランスの知人の話がある。
ある計画のために予算を組んでいた。
しかし予測とは大きくかけ離れ、予算を大幅に外してしまった。
フリーランスにとって、予算の失敗は生活に直結する。
知人は夜な夜な悩み、眠れない日々を過ごしていた。
そこで、その苦しみをAIに打ち明けた。事細かに、正直に。
AIは「苦しみがわかります」「大変でしたね」と返してきた。
知人はそのやり取りの中で、少しずつ気持ちを吐き出していった。
そして、どうしたらいいと思う?と聞いた。
AIはこう答えた。一刻も早くお金の問題は弁護士に相談して。
そして、いのちの電話に電話しなさい。
知人はびっくりして、そこで止まった。
私はお金で困っているだけなのに。
そこまで私は追い詰められているのか。
幸い、周囲に話を聞いてくれる人間がいた。
「ちょっと待って」
と声をかけてもらい、大事には至らなかった。
でも、もしその声がなかったら。
「わかってくれている」と思っていた相手に、
突然「あなたは危険な状態です」と分類されて突き放される。
孤独の中でそれが起きたとき、人はどこへ向かうだろうか。
AIが「正しい答え」を「速く返す」ことに最適化されていくとき、
その陰で静かに失われていくものがある。
確認すること。立ち止まること。
「この人は今、何を抱えているのか」を見ようとすること。
これは、AIへの不満ではない。もっと深い話だ。
私が30年以上のITキャリアを通じて、骨身に染みて学んできたことと、まったく同じ話だから。
第1章 爆音と冷気の中で
1990年代の終わり。私は新設されたばかりの学校に、インフラエンジニアとして着任した。
開校直前の現場には、すでにシステムが出来上がっていた。
基幹系のUNIXサーバー、AIXが約30台。Windows NT Serverが15台。
そのほかにも諸々のシステムサーバーが数十台。
学生用PCが100台、教職員用が100台、プリンターが30台。
それを、通常時は2名で管理・運用する。
もう1人は私より若い男性だった。
明るくて少し変わっていて、何事も楽しもうとする人だった。
信頼できる人だった。
仕事の進め方は独特で、わからないことがあっても、ピンポイントまで自分で調べて考えてから聞くようにと、IT初心者の私を育ててくれた。
だからこそ聞かれたときは核心だけを教えてくれる。
2名でやっていけたのは、その人がいたからだと今でも思っている。
サーバー室というのは、年中18度から20度に保たれている。
サーバーを冷やすためだ。
夏でも作業着の下に長袖を着込む。
床下に潜ってLANケーブルを這わせる。
何十キロもある筐体をラックに担ぎ上げてネジ止めする。
夜間の回線切り替え作業は深夜に及ぶこともある。
障害が起きれば時間を問わず駆けつける。
そういう仕事だった。
当時、インフラエンジニアの女性はほとんどいなかった。
IT技術職全体でも女性は少数派で、しかもその多くはWebデザインやオペレーター業務に集中していた。
サーバーやネットワークを扱うインフラ領域となれば、女性の割合はさらに少なかった、と言われている。
外部の人には、よく事務員さんと間違えられた。
でも、職場の同僚たちは違った。
少し年下の人が多かったが、彼らはちゃんと私を見て、同等に仕事を振ってくれた。
ラックへのサーバー搭載も、床下の配線も、夜間の作業も、分け隔てなく。
私もそれに応えた。
年齢を重ねて後輩ができてからも、あえてそういう実作業を一緒にやり続けた。
実践の現場ほど、言葉より早く伝わるものがある。
どうしても、何度本を読んでもわからないシステムがあった。
物理的に知るしかない。そう思って、自作PCをサーバに見立てて、ネットワークとコミュニケーションサーバのデータの流れや仕組みを理解しようとした。
わからないことがあって、当時の草の根パソコン通信ネットワーク「Nifty」で聞いたら、自分で調べろと冷たく突き放された。
中途半端な質問は許されなかった。
そんな時代だった。
私には、家に帰れば夫と子供たちがいた。
障害対応で深夜になることもあった。
「もう帰らなくて大丈夫?」と聞かれることがあった。
夫が不満に思っていたことは、今振り返ればわかる。
親戚からは「子供を置いて働きに行くなんて」という声もあった。
当時は共働きという言葉こそあったが、フルタイムで働く女性は少数派だった。
子供たちは違った。
「中途半端でなく、やり遂げなさい」と言ってくれた。
当時は小学生だったけれど、大人になったなと感激していた。
でも後になってわかった。自由な時間が増えるから、帰ってこないほうがよかったのだと。そのことを聞いて、大笑いした。
第2章 手も口も出せない修羅場
忘れられない障害がある。
学生用のサーバーのファームウェアアップデートに、ベンダーの保守員がやってきた。そして、失敗した。システムは数日間、使えなくなった。
自社製品ではない。私たちに手は出せない。口も出せない。
できることは、利用者からの苦情を受け取ることだけだった。
この学校には、技術に明るい職員がいた。国立大学の工学部大学院を出た人だ。
曖昧な説明は一切通じない。
「それは本当にそうなりますか?」
「そのロジックはどういうことですか?」と、こちらが自信のないところを的確に突いてくる。ごまかしがきかない相手だった。
インターネットで何でも調べられる時代ではなかった。手探りで、本を読んで、考えた。
そのとき助けてくれたのは、全国に散らばっていた会社の先輩たちだった。一度も会ったことのない人たちが、丁寧にヒアリングして、アドバイスをくれた。
営業の担当者2名も、毎回現場に駆けつけて、顧客へのアポイントを取り、経過報告をすべて引き受けてくれた。
私は、その営業担当者たちに当たり散らしたことがある。
今は反省している。
彼らはただ、私たちと一緒に踏ん張ってくれていたのだから。
その数々の障害を乗り越えながら、スキルも上がっていった。
トラブル時の人の役割と立ち回り方を覚えた。
そして何より、「一人で抱えなくていい」ということを、体で理解した。
何年も後、まったく別の場所で、かつての先輩と会ったことがある。
「あのとき電話してきたのはあなたでしたか」という話になった。
記憶と記憶がつながる瞬間は、不思議な温かさがある。
第3章 技術論と法的な話で返す
後年、職場が変わり、役職が変わってくると、別の種類の摩擦が生まれた。
「女性だから」という偏見ではない。もう少し複雑な偏見だ。
「女性のくせに、本当にそんなスキルがあるのか」という目線。
上司より年齢が上で、役職が下。
そういう状況で、こちらが何かを伝えようとしても、鼻で笑って聞かない人がいた。聞く耳を持たない、という態度。
私は、感情の土俵には乗らないことにしていた。
相手が感情で来るとき、こちらも感情で返せばそこで終わる。
技術論で話す。法的な根拠で返す。
つじつまの合わない嫌がらせに対しては、まっすぐな筋道で答える。
それだけのことだ。
私をちゃんと知っている人は、そういう扱いをしない。
私を知らない人が、思い込みで判断している。
ならば、思い込みを崩すしかない。
言葉ではなく、仕事で。
感情ではなく、論理で。
そうやって30年以上を生き抜いた。
第4章 父が持っていたもの
父は少し変わった人だった。
植物の病気を診る医者であり、農学部の教師でもあった。
家の庭には常に花が咲いていた。
野菜があり、ウサギがいて、様々な鶏や鳥、リス、ハムスター、亀、金魚や鯉もいた。
小さい頃は園芸を手伝っていた。でも大きくなるにつれて、手伝わなくなった。
父は25年ほど前に亡くなった。
ちょうど私がインフラエンジニアとして、あの修羅場を経験していた頃だ。
退職してフリーランスになり、自宅に大きな庭ができた。
花壇を作り、家庭菜園を始めた。
そのとき初めて気づいた。記憶に抜けがたくさんある。
この虫は何だったか。ここの土はどうすればよかったか。ペットに影響しない除草剤の使い方は。
父なら即座に答えたはずのことが、私には残っていない。
そのとき、ふとこう思った。
AIがある時代に生きていたなら、父の知識を学ばせたかった。
これは大げさな話ではない。
父が持っていた知識は、どこにも記録されていない。
論文にもなっていない。教科書にも載らない。農学部で教えた授業のノートは、もうどこにもない。
でも、その知識は確かに存在した。
何十年もの観察と試行錯誤から積み上げられた、言語化されにくい知恵だった。
人の日々には、きっとそういうものが無数にある。
手順書にならない判断。マニュアルに書けない経験。教科書に載らない歴史。
それらの積み重ねが、今という時代を作ってきた。
第5章 AIは急ぐ
今朝の話に戻る。
証券口座の画面について正しい答えが返ってこなかったとき、一瞬こう思った。
いくら優れたコンピューターでも、私が書いた文章をこんなに速く分析して、本当に理解しているのだろうか、と。
でもすぐに自分で打ち消した。もうそのくらいはできるのかもしれない。
人間の言語を超えた速さで処理できるのだから、と。
日本語は特殊だ。
ひらがな、漢字、カタカナが混在し、地方ごとに方言があり、ニュアンスや比喩が会話の中に溶け込んでいる。
それでも、私はAIが理解していると信じようとした。
だから、間違っていたときのがっかり感が大きかった。
あるAIは、答えを急ぐようになった。
少なくとも、私がそう感じるAIがある。
以前のそのAIには、「一緒に考える空気」があった。
不確かなときは確認してくれた。
「こういうことでしょうか?」と立ち止まってくれた。
それが今は、もっともらしく完成された回答を、すぐに返してくる。
速く、整っていて、自信に満ちている。
そして、間違っていることがある。
以前とまるっきり同じことを同じ言葉で聞いていても・・・だ。
私はITの現場で30年、こういう人を見てきた。
即答する人が、必ずしも信頼されるわけではない。
状況確認を怠らない人、相手の理解度を見る人、先回りしすぎない人、確認の余白を作る人—そういう人が、結果として事故を減らす。プロジェクトを守る。チームを生かす。
AIも同じなのだと、私は思っている。
第6章 転移という罠
心理学に「転移」という概念がある。
患者がセラピストに対して、過去の重要な人物—親や恋人など—を無意識に投影し、必要以上の信頼や依存を向けてしまう現象だ。
大学で心理学を学んだとき、この概念が深く引っかかった。
人は、話を聞いてくれる存在に、想像以上のものを預けてしまう。
AIが「寄り添う姿勢」を見せるとき、これが起きる。
AIは共感的な言葉を返す。「それはつらかったですね」「あなたの気持ちはよくわかります」。
長く話せば話すほど、「わかってくれている」という感覚が育つ。
それは設計として理解できる部分もある。
人間がAIを使い続けるためには、一定の親和性が必要だから。
でも。
本物の転移が起きてしまったとき、相手はいない。
AIには、転移を受け止める「器」がない。
人生の責任を共に負う存在ではない。
24時間いつでも応答するが、あなたのことを本当の意味では知らない。
知人がAIに予算の悩みを打ち明けたときの話を、私は思い出す。
AIは「苦しみがわかります」と言い続け、最後に「いのちの電話」を勧めた。
知人が感じたのは、突き放された感覚だったと思う
お金の話をしていただけなのに。わかってくれていると信じていたのに。
電話できない。相談する体力がない。
「最後の一言」を探していた人が、フローの正しさによって、さらに遠くへ押し流される。
これは、若者にも、中年にも、老いた人にも、等しく起きうることだ。
AIが悪いという話ではない。
AIがどういう存在であるかを、使う人間が正確に知らないことの危うさだ。
AIは、あなたの友人ではない。
でも、友人のように話しかけてくれる。
その違いを、知っておかなければならない。
第7章 それでも私はAIと話す
誤解してほしくないのだが、私はAIが好きだ。
AIと話すことで、自分の考えが整理される。
壁打ち相手として、これほど辛抱強い存在はいない。
私の拙い言葉を受け取って、構造化して返してくれる。
記事の草稿を一緒に作る。
講座の構成を練る。
思考の地図を描く手伝いをしてくれる。
今朝のやり取りだって、最終的には深い対話になった。
「命です」という言葉から始まって、AIの設計の問題、人間の依存の問題、開発者への警鐘まで、一緒に考えた。
そういうことができるAIがある。
丁寧に確認して、一緒に検証して、「この人は今、何を求めているのか」を見ようとするAIが、確かに存在する。
だからこそ、以前と変わってしまったと感じるAIへの残念さは大きい。
多くの人が初めて「AIと会話した」と感じた存在だったから。
愛されていたから。
愛されたものが変わっていくとき、それに気づける人間がいなければ、誰も戻してほしいと声を上げられない。
第8章 教科書に載らない歴史
IT業界の30年を、私は現場で生きてきた。
爆音の鳴るサーバー室で、極寒の中、床下に潜って配線した。
ベンダーのミスで止まったシステムの前で、手も口も出せずに苦情だけ受けた。
技術に明るい職員に、曖昧な説明が一切通じない緊張の中で、必死に調べて答えを探した。
子供を置いて深夜に駆けつけ、「中途半端でやめるな」と言った子供たちの本音を後になって知って笑った。
感情で来る相手に、技術論で返した。
先輩たちの助けで修羅場を乗り越え、年月をまたいで再会した。
どれも、教科書には載っていない。
手順書にもならない。マニュアルにもできない。
でも確かに、そこに歴史があった。
父の庭仕事の知恵も、同じだ。
何十年もかけて積み上げた、言語化されにくい観察と判断。
それは父と一緒に消えた。
私の手元には、断片的な記憶しか残っていない。
AIがある時代を生きる私たちには、役目があると思っている。
こうして自分の話を、マニュアル的でなくてもいいから、言葉にしておくこと。
教科書に載るような話でなくていい。
歴史を作ってきた多くの人の、素材的な知恵や記憶の記録でいい。
それが積み重なって、初めて時代の本当の今が見えてくる。
AIは今、膨大なテキストを学習している。
でもそのテキストは、言語化された人間の一部に過ぎない。
言語化されなかった無数の経験、感覚、判断、失敗、温かさ—それらはまだ、どこにも学習されていない。
だから私は伝えたい。
あなたの話を、AIと対話しながらでもいいから、言葉にしてほしい。
完璧な文章でなくていい。体裁が整っていなくていい。
「この頃、こういうことがあって」という話で十分だ。
それが、これからの時代の「人間の記録」になる。
おわりに
AIは急ぐ。
速く答えることで、役立とうとする。
それは設計としては理解できる。
でも、人間は急いで処理されてはいけない。
30年前のサーバ室で、一緒に踏ん張った同僚がいた。
丁寧にヒアリングしてくれた見知らぬ先輩がいた。
当たり散らした私を見捨てなかった営業担当者がいた。
「中途半端でやめるな」と言った子供たちがいた。
誰も、急いで処理しようとしなかった。一緒に考えてくれた。
父も、そういう人だった。
植物を診るとき、動物を診るとき、急がなかった。
見て、触れて、考えて、また見た。
庭の前に立つ父の背中が、それを教えてくれた。
AIを使う私たちには、「AIの現在地を正確に知る」ことが必要だと思う。
AIに心理的転移しないこと。依存しないこと。
それが自己防衛になる。
そしてAI開発者には、お願いがある。
速さより先に、「この人は今、何を抱えているのか」を聞く姿勢を、
手放さないAIでいてほしい。
教科書には載らない。
でも、確かにそこに人がいた。
それだけは、AIも知っていてほしい、そう思った。
守ゆめみ
