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火曜の夜、美容院で頭を委ねている数分間だけ、私は誰にも気をつかっていなかった。

火曜の夜、美容院でシャンプーしてもらっていた。

ぬるめのお湯が、おでこの生え際から後ろへ流れていく。指の腹が、こめかみのあたりをゆっくり押す。「お湯加減、いかがですか」と聞かれて、「ちょうどいいです」と答えたあと、私はもう、何も言わなくてよかった。

仕事帰りだった。一週間のちょうど真ん中。火曜って、なんだか中途半端に疲れている日だなと思う。月曜の緊張がまだ残っていて、でも週末はまだ遠い。そういう日の夜に、たまたま予約が取れていた。

椅子が後ろに倒れて、目の上にやわらかいタオルが乗せられた瞬間、私は気づいた。あ、いま私、誰にも気をつかっていない、と。


気をつかうのが、癖になっていた

いつからか、私はずっと、誰かの様子をうかがって生きていた。

会社にいるときは、上司の機嫌、同僚の表情、メールの行間。電車に乗れば、隣の人との距離。家に帰っても、明日の準備のことを考えている。気をつかうのをやめる瞬間が、本当に少なかった。

別に、誰かに強制されたわけじゃない。たぶん、そうしていないと落ち着かなかったんだと思う。場の空気を読んで、先回りして、相手が困らないように動く。それが「ちゃんとしている」ことだと、どこかで信じていた。

休職していた頃、私はそういう自分にくたびれ果てていた。人と会うと、会っている時間より、そのあとの「ああ言えばよかった」「あの顔、怒ってたのかな」という反芻のほうがずっと長くて、疲れていた。

水島広子先生の本に、気づかいというのは本来やさしさのはずなのに、いつのまにか「嫌われないための防御」になってしまうことがある、というような話があって。読んだとき、ああ私のはたぶん後者だ、と静かに思ったのを覚えている。


身を委ねる、という贅沢

でも、美容院のあの椅子の上では、それができなかった。

目はタオルで覆われている。手は前で組んでいるだけ。次に何をするかは、全部やってくれる人が決めてくれる。私は、ただそこにいるだけでよかった。

頭を、文字通り誰かの手に委ねている。「次はこうしようか」と考えなくていい。「気を利かせなきゃ」と思わなくていい。シャンプーしてくれる人が、私の頭の形に合わせて、勝手に指を動かしてくれる。私はそれを、ただ受け取っているだけ。

たった数分のことだ。でも、その数分のあいだ、私の中の「気をつかう係」が、ふっと仕事を休んでいた。

普段どれだけ気を張っていたのか、力を抜いて初めてわかる。肩が、自分でも知らないうちに上がっていたんだなと、椅子の上でようやく気づく。お湯の温かさが、首のうしろから抜けていくみたいだった。


「委ねていい」と思えるまで

昔の私だったら、こういう時間さえ、たぶん気をつかっていた。

「シャンプー、強すぎないかな、でも弱いって言うのも申し訳ないし」「会話、続けたほうがいいのかな」「無言だと感じ悪いかな」。そんなふうに、サービスを受けているはずなのに、相手に気をつかって、結局くたびれて帰っていた。

委ねるのが、下手だったんだと思う。人に何かを任せると、申し訳なさが先に立った。自分でやらないと、誰かに迷惑をかける気がして。

でも、あの椅子の上で目を閉じていたら、ふと思った。任せていいんだ、いまは。これは、そういう時間なんだから、と。

委ねるのは、わがままじゃない。何もしないでいるのは、怠けじゃない。プロの手に頭をあずけて、ただ気持ちいいなと思う。それだけのことを、私はずっと、自分に許してこなかった。


タオルが外されて、椅子がゆっくり起き上がる。鏡の中の自分は、少しぼんやりした顔をしていた。気の抜けた顔。でも、悪くない顔だった。

帰り道、夜の風が首元を通っていって、洗いたての髪がふわっと揺れた。たいしたことは何もしていない。ただ、髪を洗ってもらっただけ。それなのに、来たときよりずっと軽くなっていた。

がんばらない数分間を、たまには自分に渡してあげていい。気をつかう自分を、ちょっとだけ椅子に置いてくる。そういう時間を、私はこれからもう少し大事にしようと思う。

ゆっくりでいい。委ねていい。何も頑張らなくていい時間は、ちゃんとあっていいものだから。


最近あった、こういう小さな「ほどけた瞬間」のことを、ここに少しずつ書いています。よかったら、また読みにきてください。


⚠️ この記事は医療的なアドバイスではありません。
心身の不調が続く場合は、医師・専門家にご相談ください。
筆者の経験をもとにした個人の記録です。

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