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平等と公平、その狭間に立つ者として

6月。
再び、私は剱岳に向かった。

昨年の秋、横からの雨、濡れた岩と唸る風、低く垂れ込める雲の中で「垂壁」を登り終えた時、ふと何者かに胸をおさえられ押し戻された。
あと30分ほどで山頂という地点。だが、私たちは登頂を“選ばなかった”。
あれは「撤退」ではない。私にとっては「戦略的な選択」であり、未来へ繋がる「布石」だった。

あのとき、私たちは剱岳に試され、そして問われたのだ。
お前たちは、この山を本当に知っているのか。
本当に向き合う覚悟があるのか。


◆ 「平等」である自然、「公平」を求める人間

剱岳は、何も変わらず、何も語らない。
だが確かに、すべての者に等しく、険しさを与える。
若い登山者にも、経験豊かなベテランにも、体力がある者にも、膝を痛めた者にも、同じ岩、同じ風、同じ標高差が立ちはだかる。

これこそが自然の「平等」だ。

自然は誰に対しても「条件を揃えて」接する。そこには配慮も忖度もない。
しかしそれは同時に、「公平さ」を拒絶する態度でもある。
人が努力しようが、準備を重ねようが、嵐は降り、雷は落ち、命は消える。
だからこそ、私たちは登山において「公平」という概念を持ち込もうとする。
• 仲間と荷を分け合い
• 装備を吟味し
• 無理をしない選択を尊重する

これは、人間社会が生んだ知恵であり、弱さを受け入れる力であり、同時に「生き残るための術」だ。


◆ 公平さとは「与える」ものであり、「得る」ものではない

誰かが遅れても足を止める。
誰かが疲れたら、水を分ける。
それは見返りを求める行動ではない。

公平さは、人間が人間に与えるものだ。

そしてそのことによって、わずかながら登山は「人間らしい営み」となる。
だが、自然の中にあっては、その「公平」の価値すらも吹き飛ぶことがある。
強風がすべての声をかき消し、ガスが視界を奪い、体力の差や技術の優劣を無意味にする。

だからこそ、私たちは学ぶ。

公平は幻想でありながらも、守るべき灯火でもある。


◆ 戦略と戦術、それは「生きて帰るため」の哲学

登山とは単なる体力勝負ではない。
それは、自分の限界と誠実に向き合い、
「いま何ができるか」を判断し、「何をすべきでないか」を見極める行為。

それこそが、戦略であり、戦術である。

— どの山に、いつ向かうか。
— どの道を選ぶか。
— 何を装備し、どこで休むか。
— そして、引き返す勇気を持てるか。

自然が平等であるがゆえに、人は「選択」によって生き延びるしかない。

その選択の連続が、やがて「登頂」へとつながる。
そして、選ばないこと、やめることもまた、立派な選択なのだ。


◆ 山頂にて──語られぬ声を聴く

誰もいない剱岳の山頂。
ただ、冷たく乾いた風が音もなく吹きすぎ、私たちは声を失ったまま、そこに立ちつくしていた。
祠は、ただの木と石ではない。
ひっそりと佇みながらも、まるで古よりこの山を守り続ける“何者か”がそこに宿り、今もこちらを見据えているかのようだった。
目を逸らせば、すべてを見透かされ、裁かれるような圧倒的な気配。

雲間から垣間見える峰々、刻み込まれた無数の岩肌、雪に封じられた大地

それらすべてが静かに祠にひれ伏しているようにすら感じられた。

ここは「岩と雪の殿堂」。
人の喜びや達成感など、この地ではあまりにも脆く、ちっぽけなものに過ぎなかった。
胸の奥から、抗いようのない畏れが湧き上がってくる。
この場所に立つこと、それ自体がすでに冒涜なのではないか
そんな思いすら胸を締め付ける。
私たちは、座ることも、言葉を交わすこともできず、ただ立ち尽くし、祠の放つ目に見えない力に飲み込まれていった。

剱岳は黙して語らない。
だが確かに、存在そのものが、絶対的な力で私たちに語りかけていた。


◆ 戦略が尽きる日まで

山は変わらない。
変わるのは、そこに向き合う人間の側だ。
年を重ね、体力が衰え、戦術の選択肢は減っていく。
しかし、判断力は深まり、戦略は磨かれていく。

いつか、自分の戦略が尽きる日が来る。
そのとき、私は静かに山を下りるだろう。
登らないという選択を、誇りを持って行うだろう。

それは、敗北ではない。
その日まで、私は登り続ける。
平等なる自然に向かい、
公平という人間らしさを胸に、
ただひとつの命を携えて。

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