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光と闇で変化する身体1~10まで一気に振り返ろう



プロローグ


中学三年の春。


桜が散りきるころ、葵の心に黒い染みが落ちた。


ノートを隠される。体操服を捨てられる。


そんな幼い悪意の積み重ねは、笑い声と一緒に空気を濁し、葵の居場所をじわじわと奪っていった。


四月の終わりには、胸の奥に“光”と“闇”が同居しているのを、はっきりと感じていた。


朝、鏡の前に立つと、昨日とは違う姿が映る。


短く整った髪を持つ少年の顔の日もあれば、伸びた髪が頬を隠す少女の顔の日もある。


光が勝つか、闇が勝つか。日ごとに天秤は揺れていた。


どちらが優勢かによって、葵の身体は形を変える。


光が満ちると、葵は少年の姿をとり、その状態が何日も続けば、明るい色しか着れなくなる


闇が濃くなれば、少女の姿となり、その状態が何日も続けば、黒か暗めの色しか纏えない


同じくらいに釣り合うときは、男女どちらとも言えない中性的な姿になる。


ある朝、鏡を覗くと、昨日とは違う「私」が立っている。


肩に落ちる髪の長さ、透き通るような白い頬。見慣れぬ自分に、心臓が跳ねた。


闇が多い日は、視線が自然とゴスロリや地雷系ファッションに惹かれてしまう。化粧品売り場の黒と赤のアイシャドウが、宝石のように見えるのだ。


「……お兄ちゃん? それとも、お姉ちゃん?」


最初に異変に気づいたのは、妹の碧だった。


一つ下の彼女は、笑いながらもどこか不安げに首を傾げる。


葵は曖昧に笑い返し、答えを濁した。答えられるはずがなかった。


六月。


ついに転校が決まった。


母はそのとき初めて、葵の“変化”に気づく。


制服に袖を通す姿が、昨日と今日で別人のように見えることに。


母は何も言わなかった。ただ、その視線に混ざる戸惑いと痛みを、葵は確かに感じ取った。


葵は知っていた。


もう、後戻りできない。


光と闇の狭間で揺れ続ける自分の運命から、逃げることはできないのだと。




2話転校先の出会い


新しい制服の袖を直しながら、葵は教室の扉を開けた。


六月の湿った空気が、まだ馴染めない校舎にまとわりつく。


自己紹介を終え、ぎこちなく席に着いた葵の耳に、澄んだ声が届いた。


「よろしくね。私、結っていうの」


振り向いた先にいたのは、柔らかな笑みを浮かべた女の子だった。


長い髪を一つにまとめ、目元に陽だまりのような優しさを宿している。


その瞬間、葵の胸の奥で何かが動いた。


これまで、光と闇の揺らぎに支配されてきた自分。


けれど、結の笑顔に触れたとき、揺れがすっと収まるのを感じた。


翌朝、鏡の前に立った葵は息を呑んだ。


そこにいたのは、久しく見ていなかった“少年”の姿。


光に引き寄せられるように、葵は再び「男」に戻っていた。


母は驚きながらも、どこか安堵の色を浮かべた。


碧はにやりと笑って、「恋でもした?」と小声で囁く。


葵は顔を赤くし、言葉を失った。


だが心の奥では理解していた。


あの出会いが、自分の中の光と闇の均衡を変えてしまったことを。


## 秘密の闇


転校してから、結に出会った日々は葵を救っていた。


笑顔を向けられるたび、心の奥に光が射し込み、葵は確かに「男」としての自分を取り戻していた。


けれど――結が知る葵は、“女の子”の姿だった。


転校初日の朝、闇に傾いた葵は「少女」として教室に現れた。


それが結にとっての、葵のすべてだった。


「葵ちゃん、今日も一緒に帰ろ?」


結はそう言って無邪気に笑う。


その呼びかけに胸が締め付けられる。


鏡の中では、確かに「少年」の葵が戻りつつある。


結の前では、男の姿でいられない。


――この気持ちは、どうすればいい?


本当の自分を打ち明けたら、結は離れていってしまうのだろうか。


それとも、受け止めてくれるのだろうか。


闇は囁く。


「秘密にしていればいい。彼女は“女の子の葵”しか知らないのだから」


光は叫ぶ。


「ありのままの自分を知ってほしい。それが恋というものだ」


揺れ動く心の狭間で、葵は苦しみ続けていた。



## 3話お泊まり会


転校後初の週末。


結の家でお泊まりをしよう、という話は自然な流れで決まった。


「たまには女子っぽいことしよ! お菓子買って、映画見て、夜更かし!」


そう笑う結に、葵はうなずきながらも、胸の奥に冷たい影を抱えていた。


――大丈夫。私は“女の子の葵”でいられる。


そう自分に言い聞かせる。


結の部屋は明るい香りに満ちていて、並んで笑う時間は夢みたいだった。


「ねえ葵ちゃん、顔赤いよ? 大丈夫?」


結の指が、心配そうに頬に触れる。


――駄目だ、このままじゃ。


秘密を抱えたまま、結の隣で過ごす夜。


葵は眠ることもできず、ただ必死に闇にしがみつこうとした。


けれど、恋は光を呼ぶ。


その矛盾が、静かな部屋の中で葵を追い詰めていった。


##秘密の朝


結の家で迎えた朝。


カーテンの隙間から差し込む光が、まぶたをくすぐる。


――しまった。


葵は目を開けた瞬間、全身が重く冷たくなるのを感じた。


枕元に散らばる長い髪が消えている。


胸元も、指先も、すっかり「男」の姿に戻ってしまっていた。


「ん…おはよ、葵ちゃん」


隣の布団から結の声。


慌てて毛布を頭まで引き上げる。


「おはよ…」と声を絞り出すと、自分の低く響く声に、さらに血の気が引いた。


結は不思議そうに眉をひそめ、布団を握る葵に身を寄せる。


「…葵ちゃん? 声、なんか違わない?」


ごまかそうとしても、変化は隠せない。


毛布の端を結がそっと引いたとき、彼女の瞳が大きく揺れた。


そこにいたのは、昨日まで隣で笑っていた“女の子”ではなく――見知らぬ“少年”だった。


結は言葉を失い、ただ葵を見つめた。


葵の胸は今にも裂けそうで、声にならない声が喉でつかえる。


“知られてしまった。”


光と闇の均衡は、ついに崩れ落ちていた。




## 4話戸惑い


「……だれっ!?」


結の鋭い声が、狭い部屋に響いた。


次の瞬間、小さな悲鳴とともに布団がはじかれ、彼女は後ずさる。


その視線の先にいるのは、昨日まで隣で笑っていた“葵ちゃん”ではなかった。


低い声。短く乱れた髪。


見知らぬ少年の姿。


葵の心臓が凍りつく。


「ち、違うんだ…結、俺は――」


声を出した瞬間、結の顔にさらなる困惑が走る。


けれど、その目が少年の輪郭を追い、ふと、動きを止めた。


――目元。笑うときの口元。


確かにそこに「葵ちゃん」の面影がある。


「……まさか……葵?」


結の声は震えていた。


信じたい気持ちと、信じられない気持ちがせめぎ合うように。


葵は、隠し続けてきた秘密が露わになったことを悟った。


そして同時に、結の瞳に浮かぶ恐れと戸惑いが、胸を鋭く貫いた。


## 問い詰め


「どういうことなの、葵!」


結は震える声で叫んだ。


「昨日まで“葵ちゃん”だったのに、どうして今は男の子なの!? 本当は誰なの? ずっと私を騙してたの?」


問い詰められるたびに、葵の胸はきしむ。


でも、答えようとしても言葉にならない。


「俺は……俺は……」


喉が詰まり、声が途切れる。


自分でも、この“光と闇の揺れ”を説明できない。


気づいたら姿が変わっていて、気づいたら元に戻れなくて。


結は涙を浮かべたまま、必死に葵を見つめていた。


「ねえ、答えてよ……私が知ってる葵ちゃんは、どこに行ったの?」


その問いに、葵は言葉を失うしかなかった。


自分でも知らない。


“女の子の葵”も、“男の葵”も、どちらも自分で、どちらも本当なのに――どう伝えればいい?


沈黙が二人の間に落ちる。


結の瞳に映るのは、もう昨日と同じ信頼ではなかった。


## すれ違いの朝


「もう……わからない」


結の声はかすれていた。


震える手で涙を拭いながら、一歩、二歩と葵から後ずさる。

「私が好きだったのは、昨日まで一緒にいた“葵ちゃん”なの。


でも……今のあなたは誰?」


葵は必死に言葉を探す。


「待って、俺は……俺なんだ。昨日も今日も、葵で――」


けれど、結は首を振った。


「ごめん……信じられない」


そう言い残すと、結は部屋を飛び出していった。


閉まるドアの音が重く響き、葵の胸に突き刺さる。


布団の上に取り残された葵は、ただ拳を握りしめた。


鏡の中に映る“少年”の顔が、今ほど憎らしく思えたことはなかった。


――どうして、俺は“女の子”のままでいられなかったんだろう。


窓の外では夏の蝉が鳴いていた。


その声はやけに遠く、葵の孤独を際立たせていた。



5話葵は結の家を飛び出した


 朝の空気は澄んでいるはずなのに、胸の奥は重く、息苦しかった。


 まだ眠たげな町並み。新聞配達のバイクが遠くを走り去り、通学途中の小学生の笑い声が響く。その明るさが、葵には遠い世界のもののように感じられた。


 どこへ向かうでもなく歩くうち、コンビニの明かりが目に入る。ガラスに映った自分の姿を、思わず覗き込んだ。


 ――これが俺なのか?


 胸の奥から、重たい問いが浮かび上がる。


 鏡を見るたびに揺さぶられる心。説明できない変化。結に問い詰められても、何ひとつ言葉にできなかった自分。


 公園のベンチに腰を下ろす。冷たい金属の感触が背中を刺すように伝わり、ふっと体から力が抜けた。


 目を閉じると、結の笑顔が浮かぶ。無邪気で、温かくて――けれど今朝の、驚きと戸惑いに満ちた顔がすぐに重なった。


 「……どうすればいいんだよ」


 声に出してみても、答えはどこからも返ってこない。


 朝の光はただ眩しくて、孤独だけが葵の隣にあった。


 しばらくすると前から見慣れた小柄な影が近づいてきた。


 「……お兄、じゃなくて……葵?」


 妹の碧だった。少し息を弾ませている。


 葵は一瞬、うつむいた。見られたくなかった。だけど妹の瞳はまっすぐで、逃げても仕方ないと悟らされる。


 「……見られた?」


 「うん。鏡見なくても分かるよ。今は“こっち”なんでしょ」


 軽く言いながらも、碧の声は優しかった。


 公園のベンチに並んで座ると、葵はつい口を開いてしまう。


 「結に、バレた。何も言えなくて……結局逃げたんだ」


 「そっか……」


 碧はうなずき、黙って兄の横顔を見つめる。その沈黙が、葵には妙に救いだった。


 やがて、碧がぽつりと口を開く。


 「ねえ葵。自分がどうしてこうなったのか、まだ答えは出てないよね。でも――一人で抱え込むのは違うと思う」


 朝の光の下で、並ぶ二人。


 葵の心に、少しだけ風が通った。



###6話妹の碧と公園で


 まだ朝で人影もなく、蝉の声すら聞こえない。


 「……ねえ、葵」


 碧が口火を切る。


 「結にどう見られるか怖いんでしょ。でもね、今のまま逃げ続けたら、一番傷つくのは結じゃなくて葵自身だよ」


 葵は返事ができなかった。握りしめた両手が震えている。


 碧はそれを見て、さらに踏み込む。


 「光とか闇とか、性別が変わるとか……私たち家族はもう知ってる。でも、結には何も伝えてない。じゃあ、葵はどうしたいの? 隠したままそばにいるの? それとも――全部話しても、受け止めてほしいの?」


 その問いは、葵の胸の奥を突き刺した。


 自分でも答えが出せずにいたことを、妹に代弁されてしまったからだ。


###結の家へ戻る


 葵はゆっくりと結の家に戻った。


 ドアを開ける手が震える。心臓が耳元で暴れる。


 部屋には結の気配はない。廊下に立ち尽くし、息を整える。


 「……結、話したいんだ」


 すると奥から、結の声。


 「……葵?」


 振り向いた結の瞳は、まだ朝の混乱を引きずったまま。


 葵は深く息を吸い、言葉を選ぶ。


 「俺……変わっちゃうんだ。寝てる間に性別が。俺でも、葵でも、どっちでも、同じ俺なんだ」


 結は眉を寄せたまま黙る。


 「だから、ちゃんと説明できなくて……怖くて逃げちゃった。でも、結には傷ついてほしくない」


 葵の声は震えていたが、真剣さは隠せない。


 結はその瞳をじっと見つめ、言葉を失う。


 葵が言葉を震わせながら説明し終えると、結はしばらく黙ったまま立っていた。


 目は葵をじっと見つめているのに、心の中では混乱と戸惑いが渦巻いている。


 「……とりあえず、今日は……帰って」


 結の声はかすかに震えていた。


 葵は頷き、胸の奥が痛むのを感じながらも、帰る。


 「分かった……また、話そう」


 ドアが閉まる音。


 残された葵は、玄関に立ったまましばらく動けなかった。


 光と闇が入り混じる心の中で、ただ静かに、今日の出来事を反芻するしかなかった。



7話次の日の朝 ――再び結の家へ


 葵はほとんど眠れなかった。


 夜明けの空が淡く白んでいくのを、ただ窓辺で見つめていた。


 胸の奥に残るのは、後悔と、まだ消えない結への想い。


 ――逃げたくない。今度こそ、ちゃんと向き合う。


 小さく息を吸い、昨日と同じドアの前に立つ。


 指先が震える。それでも、ノックをした。


 「……結。俺、もう一度話したい」


 中から足音。


 ドアが開くと、結がそこに立っていた。目の下にはうっすらと疲れの影。


 それでも、葵を見るその瞳は昨日よりも確かに揺れていた。


 「分かってる。でも、どうしても伝えたいことがあるんだ」


 結はしばらく黙ったまま視線をそらし、ため息をひとつ。


 「……入って」


 部屋に入ると、静寂がふたりを包んだ。


 言葉が見つからず、時間だけが流れていく。


 葵が先に口を開いた。


 「昨日、説明出来なくてごめん。でも、俺……どうしても結にだけは隠したくなかったんだ。


 俺のことをちゃんと知ってほしくて。怖がらせたくなかったのに、逆にそうさせた」


 言葉が震えて、目の奥が熱くなる。


 「でも、結がいないと、俺……自分がどっちなのか分からなくなる」


 結は唇を噛みしめ、ゆっくりと顔を上げた。


 「……ずるいよ、葵。そんなふうに言われたら、怒れないじゃん」


 その声はかすかに涙で滲んでいた。


 「昨日、頭では分かってた。でも、怖かったの。


 朝起きたら、目の前の“葵”が別の姿でいて……私、どうしたらいいか分かんなくて」


 葵が近づく。


 「俺も、同じだよ。変わるたびに、自分でさえ分からなくなる。


 でも、結の前だけは、ちゃんと“俺”でいたいんだ」


 言葉が途切れ、沈黙。


 そのあと、結が一歩だけ近づいた。


 「……ほんと、馬鹿だね。昨日のうちに来ればよかったのに」


 葵は思わず笑った。


 「うん。でも、今来たから、もう間に合った」


 次の瞬間、結が抱きしめた。


 涙が頬を伝い、ふたりの間で温もりが交わる。


 光と闇が静かに混ざり合い、ようやく同じ色になるように。


 外では朝の蝉が鳴き始めていた。



8話仲直りの条件


 結の腕の中で、葵はしばらく動けなかった。


 互いの鼓動がようやく落ち着いた頃、結が小さく息をついた。


 「……ねえ、葵」


 「うん?」


 結は腕をほどき、少し距離を取る。


 目の奥にまだ迷いの色があったけれど、そこには確かな意志もあった。


 「私ね、葵のこと……嫌いになれない。


 昨日は混乱して、怖くて、でも今はちゃんと見て話せる気がする」


 葵は黙って頷く。


 結は続けた。


 「だから――条件をつけてもいい?」


 「条件……?」


 「うん。葵が“女の子”の時、言葉とか仕草とか、ちゃんと女の子として過ごしてほしい。


 無理に可愛くしろって意味じゃないけど……“俺”って言われると、どうしても、現実に引き戻されちゃうの」


 葵は少し考えて、苦笑した。


 「……“俺”ダメ、か」


 「“僕”は……ぎりぎりセーフ。なんか中間っぽいし」


 結の言い方が少し照れていて、空気がやわらぐ。


 「そっか。じゃあ、女の子の時は“僕”で、仕草もちゃんと意識してみる」


 葵は素直に受け止めるように言った。


 結はその返事に安堵したように微笑んだ。


 「ありがとう。


 私もすぐ完璧に受け止められるわけじゃないけど……葵が努力してくれるなら、私もちゃんと隣にいたい」


 「……それで十分だよ」


 葵の声はやわらかく、少し掠れていた。


 光と闇が混ざる世界で、ふたりはようやく同じ歩幅を見つけた。


 外では風がカーテンを揺らし、朝の光が差し込んでいた。



9話葵、家に戻る


 結の家を出ると、朝の風が頬を撫でた。


 涙の跡を乾かすように、少し冷たい風。


 でも、胸の奥は昨日よりずっと軽かった。


 碧はソファでスマホをいじっていた。葵が少し迷いながら隣に座る。


「……おかえり、葵」


 「ただいま。……ちゃんと、話せたよ」


 「ふぅん、やるじゃん。で、泣いた?」


 「……ちょっとだけ」


 その返事に碧は吹き出した。


 「“ちょっとだけ”で済んだなら上出来だね」


 葵は肩をすくめて、照れ隠しのように笑う。


 その笑顔を見て、碧の表情が少し柔らかくなる。  「碧」


 「ん? どうしたの、お姉ちゃん」


 その呼び方に、葵はまだ少しくすぐったさを覚える。


 「……結に言われたんだ。女の子のときは、女の子らしくしてほしいって」


 碧はスマホを置いて、興味深そうに葵を見た。


 「ふーん、いいこと言うじゃん結ちゃん。で、できそう?」


 「正直、よくわかんない。何が“女の子らしい”のかも、あんまり……」


碧は少し考えてから、にやりと笑った。


 「じゃあさ、私が教えてあげる。仕草も話し方も、メイクも。全部」


 「えっ、ほんとに?」


 「当たり前。だって、うちのお姉ちゃん可愛いもん」


「“女の子レッスン”を始めます。講師はわたくし、妹の碧です」


 「……なんか嫌な予感しかしないんだけど」


 「はいそこ、“俺”禁止。今から“僕”に変換!」


 「え、今もう始まってるの!?」


 「当然。女の子はタイミング選ばないの!」


 碧のテンションに押されて、葵は苦笑いするしかなかった。


 でも、その軽さがどこか救いだった。


 「じゃあまずは、座り方からね。足、開かないの。そう、膝くっつけて。背筋伸ばして」


 「……これ、地味にきついんだけど」


 「慣れだよ、慣れ!」


 リビングに笑い声が響く。


 昨日までの重さが、少しずつ溶けていく。


 窓の外では、昼の光が差し込み始めていた。


 新しい“葵”が、少しずつ形になっていく――そんな朝だった。



10話女の子レッスン、開講


 「はい、姿勢! 背もたれに頼らない!」


 碧の声がリビングに響く。


 「はいはい……先生、厳しいですね」


 「生徒が甘いの。ほら、“僕”ちゃんと使って」


 葵は苦笑しながら膝をそろえ、背筋を伸ばす。


 「……僕、これでいい?」


 「うん、いい感じ。そうやって喋ると、表情まで柔らかくなるよ」


 碧がにやりと笑う。


 「じゃあ次、歩き方いこうか」


 「歩き方?」


 「うん。女の子の歩き方って、脚で歩くんじゃなくて、体の中心でバランス取る感じ。腰、軽く前に出して――そう、スカートが似合うように意識して」


 葵は何度か試して、バランスを崩しそうになりながらも真剣に練習した。


 「……これ、想像以上にむずかしいね」


 「でしょ? でも葵、姿勢悪くないよ。骨格的にきれいだから、整えるだけで印象変わると思う」


 葵は少し照れて笑った。


 「褒められると、ちょっと頑張れるかも」


 「そうそう、その気持ち大事!」


 碧は手帳を開くふりをして、わざと真面目な声で言った。


 「じゃあ次は発声練習。女の子の声はね、無理に高くするんじゃなくて、息を混ぜるの」


 「息を混ぜる?」


 「そう、“はぁい”って言ってみて」


 「はぁい……?」


 「そうそう! あ、今の、けっこう可愛い」


 「やめてよ、からかってるでしょ」


 「本気だよ。ほら、自信持ちなって」


 碧の声が少しやさしくなった。


 「葵は、どんな声でも、ちゃんと自分の声だよ。無理して誰かの真似しなくていいから」


 その一言に、葵の胸の奥がじんわり熱くなった。


 昨日まで怖くて仕方なかった“女の子の自分”が、少しずつ他人じゃなくなっていく。


 「……ありがとう、碧」


 「まだお礼は早いよ。次はお化粧編だからね」


 「えっ、まさか――」


 「覚悟して」


 葵が思わず吹き出す。


 窓の外では午後の陽射しがやわらかく差し込み、


 姉妹の笑い声が、光に溶けていった。


 









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