本で耳を塞いでみても
テレビやスマホが騒がしく音を立て、ざわざわと心が落ち着かない。
静電気や埃が頭の中を飛び交っているようなわずらわしさを感じていた。
耳にLo-fi のジャズか何かをねじ込んで、外界と自分とを遮断したつもりで、トーマス・マン『ゲーテとトルストイ』を無理矢理に読み始めた。
これも読みたいという欲求よりも、現実逃避でもあるし、記事でも書こうかという気持でもあった。
それで読み始めてすぐに、やっぱり気になるところというものが出てくる。
ごくごく簡単に言うと、
マンはゲーテとトルストイを二つの精神として分けて考え始める。そこにはドストエフスキーとシラーも伴走者として走っている。
シラーの小論は頭で読むには良いもので、それは私も賛同して、それを参考にというか足がかりにマンは二つの精神を考えている。
結局のところ、私から見るとこの二つの精神の種類やどういう傾向かはどうでもよくて、それらが並び立つ二つであることや、それら自体がそのように認識されうる対象になっていること自体が問題になって見えてくる。
トルストイが青年時代に
「私はすべての人に知られ愛されたいという欲望を感じた。自分の名を世に告げたいという欲望を感じた――そしてあらゆる人がこの告知によって大きな印象を受け、私の周りに集い、何かしら私に感謝してくれるように、と。」
をいう時、トルストイは私という個人や愛される対象ということを疑っていない。その構造はマンも同じだから、シラーの小論を出発点に二つの精神を分けられる思考をしている。
このような考え方から離れられない頭であることの問題が全く顧みられないこと自体が彼ら全員を支えている。
こういうことが見えてきた。
もっと詳しく書けるのだけれど、それをしたときに私はいかにも偉そうだろう。そして、それをだれが読みたいのか。つまりは文学の読み方を箱庭にすること自体を詳しく解説するような内容になる。それは私がよくやることだけれども、それでもまたいつもの繰り返しで、読むほうも困るだろう。
それでやめた。
書けることと、それを書くこととは違っていると思った。
書けることというと、それもまた偉そうではあるけれど、そのまま書いてしまうことで、誰かを傷つけるだけのような気もする。
『ゲーテとトルストイ』を私なりに読み解くと、結局は西洋的な精神の限界を語ることになる。これは雑なラベルだけれども今は流しておく。とにかく、マン、ゲーテ、トルストイ、ドストエフスキー、シラー、または文学というもの、それらはメロドラマだということになる。その約束事の中で私たちは十分に楽しんでいるし、悩んでいる。そのことを書いたときに、私が批判されるか相手にされないか、そういう側に押しやられるだけだろう。また意味もなく誰かを刺激するだけになる。それがなんだというのか。私は思ったことや見たことを書いてみたというだけのことが、そうなるのはたぶん望まないし、そうなりたいわけでもない。
それでなんとなく、さっと本棚を見て文学以外を選ぼうと思った。
森毅『現代の古典解析』
ウェイン・A・ウィケルグレン『問題をどう解くのか』
が何となく目についた。
それで手に取った。
ああ、これも結局同じ思考だ。
対象があることがまず先にある。整理された頭が要求されている。または混乱があったとしても、それが整理されて示される。約束事の中だ。
私が書くものは繰り返しかもしれない。
対象化の様態を様々な手法や角度で、とにかく手を変え品を変え、またはそれではないとか、否定形まで使ってすべてを否定しているか、または語れないなどと神格化や無効かするか、そのような手法の欺瞞性が支えているものをそのように見ないという素振りが言葉を支えているということなのだ。
それをやっている人たちの営みにどうしても疑問が生じてくるということだ。
「そうならば、お前が解決しろよ!」
と言われそうだが、それは彼らの手法であるから、私にはできないことになる。
わかるだろうか。
これらのことをわかっている人もわかっていない人も、これらのことを利用して語るのだ。語りということがそういうことなのだから。
言語ではなくてもいい。コード的な営みがそういうことなのだから。
少しまた、バカみたいなものを書かなければ。
個人として愛されようと思っていない、書かれてしまったようなものを。
自分で信じていない、他者からも信じられないようなものをだろう。
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