なぜ「阿部定事件」を美化する男性がいるのか
──「ちょん切られたい」という言葉の奥にあるもの
私は1983年生まれの40代独身男性です。
阿部定事件について語られる場面に触れるたび、特に一部の男性がこの事件を「究極の愛」「伝説的な情念」として美化することに、長く違和感を覚えてきました。
中には冗談めかして
「自分もあれくらい愛されたい」
「ちょん切られるほど執着されたい」
と語る人もいます。
なぜ、暴力を伴う事件が、しかも男性側からこのように語られるのでしょうか。
阿部定事件をセンセーショナルに消費することから一歩距離を取り、
「なぜそう感じてしまう男性が存在するのか」
を心理的・社会的な構造から考えてみたいと思います。
阿部定事件は「愛の物語」ではない
1936年に起きた阿部定事件は、男女の関係性の末に殺人と遺体損壊が起きた、れっきとした刑事事件です。
しかし戦後、日本ではこの事件が小説や映画、演劇の題材として繰り返し再生産されてきました。
その過程で、事実は次第に抽象化され、
「命を懸けた情念」
「常識を超えた愛」
というイメージが強調されていきました。
この“物語化”は、受け手にとって理解しやすく、刺激的です。
特に男性の一部は、現実の恋愛では得にくい「無条件で選ばれる感覚」を、そこに重ねてしまうのではないかと思います。
「切られたい」という言葉が示すもの
ここで注意したいのは、多くの男性が本当に身体的な危害を望んでいるわけではない、という点です。
「ちょん切られたい」という言葉は、しばしば比喩として使われています。
この比喩の正体を分解すると、次のような欲求が見えてきます。
自分が唯一無二の存在として扱われたい
主体的に選ばれるのではなく、相手に強く欲されたい
責任や主導権から解放されたい
つまりそれは、性的欲望というよりも、「自己価値を他者に全面的に委ねたい」という心理に近いものです。
男性が抱えやすい「消耗」と空虚感
多くの男性は、年齢を重ねるにつれて「役割」を背負い続けてきました。
仕事での責任、家庭での期待、社会的な立場。
その積み重ねの中で、
「自分は何者なのか」
「誰かに本当に必要とされているのか」
という問いが、ふと浮かび上がる瞬間があります。
阿部定事件を美化する男性の中には、この問いに対する答えを、極端な形で求めてしまう人がいます。
命を賭けてでも執着される存在であれば、自分の存在価値は疑いようがない、という錯覚です。
これは珍しい心理ではありません。海外の研究でも、強いストレスや孤立感の中にある人ほど、極端な関係性や支配・被支配の構図に惹かれやすいことが示されています。
「破壊されることで完成する自己」という幻想
阿部定事件が象徴するもう一つの要素は、「破壊」と「完成」を結びつける発想です。
自分が壊されることで、関係性が永遠になる。奪われることで、完全に所有される。
この構図は、成熟した相互関係とは正反対のものです。
対等な関係ではなく、一方が暴走し、もう一方がそれを受け入れることで成り立つ関係性です。
しかし、現実の人間関係に疲れた人ほど、この単純で劇的な物語に救いを見出してしまうことがあります。
なぜ女性よりも男性が美化しやすいのか
阿部定事件をロマン化する語りは、圧倒的に男性側から発せられることが多いように感じます。
その背景には、次のような社会的要因があると考えられます。
男性は「弱さ」や「依存欲求」を表に出しにくい
無条件に愛されたい欲求を、正面から語りにくい
受け身で選ばれる立場になる経験が少ない
その結果、極端な物語を借りて、自分の欲求を安全に語ろうとするのです。
阿部定事件は、そのための“装置”として消費されている側面があります。
美化の先にある危うさ
問題は、この美化が現実感覚を鈍らせる点にあります。
暴力を伴う関係性や、相手の尊厳を損なう行為を「愛」と呼び替えてしまうと、現実の人間関係でも境界線を見失いかねません。
また、自分の空虚感の原因を見つめる代わりに、刺激的な物語に酔い続けることは、根本的な解決にはなりません。
それでも、この事件が語り継がれる理由
阿部定事件は、日本社会が抱える「愛」「性」「依存」「孤独」といったテーマを、極端な形で可視化した事件でもあります。
そのため、時代が変わっても繰り返し語られるのでしょう。
ただし、私たちが向き合うべきなのは事件そのものではなく、
「なぜ自分はこの物語に惹かれるのか」
という内側の問いです。
「ちょん切られたい」という言葉の奥にあるのは、破壊願望ではなく、承認と救済への渇望です。
その渇望に気づき、言葉にできるかどうかが、大きな分かれ道になるのだと思います。
阿部定事件を美化することは簡単です。
しかし、その物語に自分の感情を委ねる前に、一度立ち止まって考えてみる価値はあるのではないでしょうか。
