創作は悲観的に広報は楽観的に
創作は悲観的に、広報は楽天的に
小説を出しました。
電子版だけでなく、紙の本にもした。
Amazonのページもできたし、noteにも書いたし、Xにも固定した。
Instagramのストーリーにも流した。YouTubeの投稿欄にも置いた。

こうして書くと、いかにも「広報している人」っぽい感じがある。
しかし実際の内面はもう少し複雑である。
ぶっちゃけた話、近い人に報告するたびに、妙な羞恥がある。
SNSで不特定多数に向けて告知するより、物理的に近い人に「実は小説を出しました」と言う方が、よほど怖い。
遠い人には作品として見せられて、近い人には、自分として見られる。
ここに、創作と広報の境目がある気がしている。
1. 創作は悲観的でいい
創作中は、悲観的でいいと思う。
むしろ、悲観的でなければ危うい。
この表現は説明しすぎではないか、この会話は不自然ではないか、このラストは閉じすぎていないか、紙版の余白はおかしくないか、表紙の文字は読めるか。
どれもじっさいに迷った。そして、創作とは、疑う作業である。
楽観的に「まあ伝わるだろう」で進めると、だいたい伝わらない。
読者は親切ではあるが、作者の脳内補完まではしてくれない。
だから創作では、少し神経質なくらいでちょうどいい。
悲観は、作品を守るための道具になる。
もちろん、やりすぎると終わらない。
推敲の沼に沈み、最終的に「人類に公開するにはまだ早い」みたいな顔をして、ファイルを閉じることになる。
2. 広報まで悲観的にやると止まる
問題は、その悲観を広報に持ち込んだ瞬間である。
「こんなの誰が読むのか」
「告知したら痛いと思われないか」
「売れていないのに宣伝するのは恥ずかしくないか」
「近い人に読まれたら、自分の内面を見られるのではないか」
こうした問いは、一見すると冷静な自己分析に見える。
しかし実際には、作品を外に出さないための防衛になっていることがある。
創作中の悲観は、作品を良くするが、広報中の悲観は、作品を隠す。
ここは分けた方がいいと感じている。
「創作は悲観的に。広報は楽天的に。」←こちらは「準備は悲観的に、行動は楽観的に」の転用である。
この言葉は、今の自分にかなり必要だと思っている。
3. 広報は自己顕示ではなく、配置である
広報という言葉には、少し嫌な響きがある。
無言の「買ってください」という圧。
もちろん、その要素がゼロだとは言わない。
本を出した以上、読んでほしい。感想もほしい。できれば売れてほしい。
なぜなら私も人間なので。一応ね。
ただ、広報を「自分を大きく見せる行為」と考えると、かなり苦しくなる。
むしろ広報とは、作品を必要な人の前に置く作業なのだと思う。
たとえば、本屋の棚に本が置かれていなければ、その本は存在しないのとほとんど同じである。
Amazonにページがあっても、誰も知らなければ存在しない。
SNSに投稿しても、流れていけば存在しない。
作品は、作っただけでは届かない。
特に今の時代、供給過多で、作っただけでは埋もれてしまうので、必然的にマーケティング能力と、どぶ板営業力が必要だと考える。
そしてマーケティング能力なんてものAI時代そんなに差がでない。
大切なのはどぶ板な気がしてきた。
5. 作ったものを隠すのは、謙虚とは限らない
ここは少し厳しめに見ている。
作ったものを隠すことは、必ずしも謙虚ではない。
場合によっては、作品への過保護である。
もちろん、雑に売り込む必要はないし、誰彼かまわず送りつける必要もない。
ただ、作品を作ったなら、外に出す責任のようなものはある。
作品が必要な人に届く可能性を、自分の羞恥で潰してしまうのは、少しもったいない。
創作中の自分は、作品を守るために疑った。
ならば広報中の自分は、作品を外に出すために少し信じた方がいい。
