沖縄断水で気づいた、「当たり前」の上にある命
昨日の夜から今日にかけて、沖縄では断水が相次ぎました。
SNSでも「洗えない」「どうしよう」という声が続出し、
私自身も朝方に自宅の水が止まりかけているのを確認しながら、
ギリギリのタイミングで出勤して難を逃れたほどです。
ただ、今回の断水は、私にとって“ただの不便”では終わりませんでした。
私はこれまでの人生で、
脳出血による右半身麻痺、そして高次脳機能障害と共に生きてきました。
さらに、後天的に発症した「強迫性障害」もあり、
特に“手を洗うこと”が日常生活の中で欠かせない行為になっています。
(後述公開:強迫性障害について)
だからこそ、
水が出ない、その事実が、生活の根本を揺さぶる。
断水という出来事は、人によって受け止め方が全く違います。
「不便だな」で終わる人もいれば、
私のように、心の安定や生活の機能そのものが脅かされる人もいる。
そして思いました。
人が生きるための“当たり前”は、
当たり前では成り立っていない。
水道。
電気。
ガス。
通信。
道路。
医療。
どれも誰かが守ってくれているからこそ、
今日も普通に生きていける。
台風でも、災害でも、真夜中でも。
見えないところで働き続けている人がいる。
彼らの存在がなければ、
僕たちの生活は一瞬で止まってしまう。
日本という国の「平和な日常」は、
無数の人の努力の積み重ねで成り立っている。
今回の断水は、その事実を胸に深く突き刺してくれました。
“失ったとき” に気づくものがある
今回の断水で、私は改めて思いました。
人は、
水を失ったときに“水の価値”を知り、
電気を失ったときに“電気の尊さ”を知り、
健康を失ったときに“生きている有難さ”を知る。
それは私が12歳で脳出血を経験したときも同じでした。
右手が動かなくなって初めて、
「動くこと」のありがたさを知った。
言葉がまとまらなくなって初めて、
「伝わること」の大切さを理解した。
人は失ったとき、はじめて気づく。
そしてその気づきは、
もう一度やさしく世界を見る視点を与えてくれます。
「ありがとう」を日常に取り戻す
断水で困っている方も多い中、
給水車を出して対応してくれた職員の方々、
復旧に向けて汗をかく作業員の方々、
夜通し働くライフラインを守る人たち。
私たちの「生活」は、こうした方々によって今日も守られています。
だからこそ今、
胸を張って言いたい。
ありがとう。
本当に、ありがとう。
日常が止まったとき、
人の優しさと支えがどれだけ大きいかがよくわかる。
そして、
この「ありがとう」を忘れない大人でありたいと思います。
今週は、「災害」について投稿いたします。
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